今日は阪神淡路大震災から23年目になるらしい。
あの頃はまだ現場に出ていたことになる。
朝、自分も震源地から遠く離れた自宅で朝食中に大きな揺れを感じた。
しかし、そんな大災害になっているとは夕方まで知らずに仕事をしていた。
帰りに、他の現場の打ち合わせに寄ったところで事の重大さを知った。
女房殿の親友も息子さんを建物の下敷きになって亡くされたと後から聞いた。
帰りの車の中でカ-ラジオから流れる情報に驚きながら自宅に戻ったのを覚えている。
それから、しばらくして災害復旧のための仮設住宅の建設の応援要請があった。
わが社も1月、2月、3月と仕上げなければならん現場が多数あり、
とても応援に手を回せるような余裕はなかったが、
テレビで被災者の現状を目の当たりにすると、人道的に断れなかった。
すぐテント生活が出来るような準備を整え、自分も含め数人を派遣した。
車2台に積めるだけの生活用品、水、毛布など積んで
『災害復旧緊急車両』のステッカ-を頂き、高速道路や瀬戸大橋を走り抜け
四国側から淡路島に入った。全国からたくさんの応援部隊、救助隊が集まっていた。
あの頃はまだ現場に出ていたことになる。
朝、自分も震源地から遠く離れた自宅で朝食中に大きな揺れを感じた。
しかし、そんな大災害になっているとは夕方まで知らずに仕事をしていた。
帰りに、他の現場の打ち合わせに寄ったところで事の重大さを知った。
女房殿の親友も息子さんを建物の下敷きになって亡くされたと後から聞いた。
帰りの車の中でカ-ラジオから流れる情報に驚きながら自宅に戻ったのを覚えている。
それから、しばらくして災害復旧のための仮設住宅の建設の応援要請があった。
わが社も1月、2月、3月と仕上げなければならん現場が多数あり、
とても応援に手を回せるような余裕はなかったが、
テレビで被災者の現状を目の当たりにすると、人道的に断れなかった。
すぐテント生活が出来るような準備を整え、自分も含め数人を派遣した。
車2台に積めるだけの生活用品、水、毛布など積んで
『災害復旧緊急車両』のステッカ-を頂き、高速道路や瀬戸大橋を走り抜け
四国側から淡路島に入った。全国からたくさんの応援部隊、救助隊が集まっていた。