けん爺さんのつぶやき

日々の出来事を徒然に。

原爆の日の思い出

2019-09-17 02:38:03 | 日記
東京で弁護士事務所を開く従姉妹と叔母が、わが家に来たいというので待った。
広島に住む兄とその娘もやって来て、叔母の姉に当たるウチの母親の話になった。
母親が広島に原爆が投下された時、爆心地から約1km離れた横川の駅舎にいた。

当日の朝まで国鉄職員として横川駅で働いていた母親は勤務交代し非番となり
汽車で帰宅しようと時間まで駅舎で横になって待っていた時に
突然閃光が走り、ビックリして飛び起きようとした時に
爆風でぺしゃんこになった駅舎の下敷きになったらしい。

額に梁が落ちてきて頭蓋骨が少し陥没するほどの重賞を負った母は
どなたかに助け出され、山の方へ運ばれたのを薄れゆく意識の中でかすかに覚えていると、
ワシが小さい頃、少しへこんだ額の生え際のキズを見せながら体験談を語ってくれた。

母が疎開していた廿日市では、5歳年下の叔母は何かの用事で学校に行っとったらしく
閃光とキノコ雲に続いて物凄い爆風によるものと思われる揺れで
校舎の窓ガラスは全て割れ、それでも揺れはしばらく止まらなかったらしい。

これはただ事ではない! と疎開先の家に戻り、家族とウチの母親の安否を心配し
救助に向かおうとすると広島方面からゾロゾロと歩いて逃げて来た被爆者に遭遇したらしい。
逃げて来た人は一様に髪はボサボサ、服はボロボロ、肌は焼けただれ
それは、それは酷い光景じゃったと、叔母が今日話をしてくれた。

力尽きて亡くなった人を集めて焼く毎日、そんな光景を見慣れた頃に
消息をたずねていた疎開先に病院から母親が重体じゃが生きているとの知らせがあったらしい。
3日間意識不明の重体が続いていたんで、病院としてのどこの誰かも分からなかったが
意識を回復した母親が名を名乗ったので、やっと家族と連絡がとれたらしい。

そんないきさつをワシは母親がなくなって8年経った今日、初めて聞かされた。

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