goo blog サービス終了のお知らせ 

綱敷天神社 禰宜日誌

大阪梅田の綱敷天神社のご案内ブログです

享保の大火(妙知焼け)から300年

2024年03月21日 | 日記

享保9年3月21日(1724年4月14日)。
大坂三郷(現在の大阪市中央区、北区南部、西区東部)を焼き尽くした大火、「享保の大火」から今日でちょうど300年です。


この大火災は、戦災を除けば大阪の歴史上最大規模の火災で、火元となった尼僧の名前から、「妙知焼け」とも呼ばれます。


この日、午後1時頃、現在の大阪市西区南堀江2丁目あたりから出火し、まるまる一日かけて大阪市内の大半を焼き尽くし、町数407、焼失家屋11765軒、戸数60292、蔵屋敷32、寺社44が罹災。当地梅田も、現在の扇町線から南側は灰燼に帰しました。


あまりにも凄まじい火災であった為、この享保9年から前の記録というのは大阪市内ではあまり残っておらず、近世未曾有の大火災であった事が分かります。


しかし、10万人が死亡した江戸の明暦の大火などに比べると、死者数は293名であり、これは防災意識が高かった事や、水の都の堀割が至るところにあった事なども影響があったのかもしれません。


現在、大阪は第二次大戦の空襲以来、市内を焼き尽くすほどの火災というものを経験していません。ですが、大阪市北区の南浜霊園にある「大坂三郷大火五十回忌追善塔」は、現代に火事に対する警鐘を鳴らし続けています。


冬春の入れ替え時、風の強いこの季節。どうぞ火の元にはお気をつけ下さい。

写真①:近世大坂三度の大火。一番左が享保の大火。
写真②:享保の大火の被災地を現代地図に投影。(正確なものではありません)
写真③:南浜霊園に残る享保の大火の五十回忌追善塔

※正確には当時の3月21日は旧暦でしたので、現代の暦に直すと4月14日ですが、先人の火災への警鐘を思えば、突風の吹きやすいこの時期の方が相応しいと考え、本日投稿しました。


ゴジラ御守 奉製について

2024年03月11日 | 日記

本日、第96回 米国アカデミー賞の授賞式があり、日本の「ゴジラ-1.0」が視覚効果部門を受賞されました。
この賞はその時代を代表する先進的な映像作品、特にSF作品に贈られてきた賞であり、今回アジア初の快挙です。

また、先日には第47回日本アカデミー賞の最優秀作品賞を含む8冠も受賞され、このゴジラ70年、古希の慶節にこの上ない栄誉を得られた事、心からお慶び申し上げます。

そして当宮では、令和6年2月3日からゴジラ御守を授与しております。

この御守は、令和3年(2021)。当宮で男の子向けの新しい御守を検討していた頃、当宮の氏子さんでもある東宝㈱さまで恒例の神事があり、当宮とは長年のお付き合いもある事から、男の子向けのキャラクターについてご相談させて頂いたところ、ゴジラ御守の構想が出て来たのがそもそもの始まりでした。しかし、その時点では半分冗談のように考えておりましたが、

令和4年(2022)2月24日に、ロシアがウクライナに侵攻した際、核兵器の使用の危機という話が聞こえてくるにつれて、核兵器の落し子ともいうべき初代ゴジラを生み出した、当時の方々に思いを致し、まさに今の世にこそゴジラが必要なのではと心を後押しし、

また、ちょうど、劇中でゴジラが大阪梅田・茶屋町にやってきた作品「ゴジラVSメカゴジラ(平成5年(1993)公開)」の公開から令和5年12月で30周年である事に気づき、またこの作中でゴジラは我が子であるベビーゴジラを大切にする描写がある事から、子供向けの御守を模索していた当宮としては、これもやはり何かのご縁かと思い立ち、そこから本格検討に入り、ゴジラ御守の奉製に着手する事になりました。

しかし、時期がちょうどコロナの真っ只中でしたので、中々一気には進められない状況ではありましたが、その中で、ゆっくりとしか動かせないのであれば、品質を高める時間にすべきだと思い、

平成11年(1999)に公開された、「ゴジラ2000 ミレニアム」で本物のゴジラをデザインされた、西川伸司先生にゴジラの絵をお願いし、不躾なお願いにも関わらず、先生には大変丁寧にお進め頂き、素晴らしいゴジラ(通称:ラドゴジ)を一から描き起こして頂きました。 ちなみに当宮で当時お手伝いを頂いていた巫女さんが、西川先生が特任教授を務められている嵯峨美術大学・短期大学の学生さんだった事も西川先生にお願いする一つのきっかけになりました。

御守の裏面には、「ゴジラVSメカゴジラ」で、ゴジラが梅田・茶屋町にやってきた時、一緒に映像に映り込んでいた、当宮の御旅社と、茶屋町アプローズタワー、MBS(毎日放送)を織り込み、また梅田の代名詞ともなっているHEPの赤い観覧車と、梅田の梅の字の由来にもなった当宮の梅を配したデザインを整え、令和5年12月に奉製を開始しました。

令和6年2月2日。当宮の御祭神である、天神さまこと菅原道眞公が梅田に到来された日と同じ日にゴジラ御守は当宮にお納めされ、同日、困難打破、身体健康、子供愛護、往来安全の祈念を込め、翌、2月3日、ゴジラ御守の授与を開始しました。

その初回授与の際は、想像以上のゴジラ人気を目の当たりにする事になり、当宮側の準備不足もあって、あっという間にご用意した先行分の御守は出体終了となってしまい、後からお参り頂いた方々には申し訳ない形となってしまいましたが、

それから御守の奉製職人の皆様にはご無理を言って、大急いで奉製を進めて頂き、3月8日の日本アカデミー賞で「ゴジラ-1.0」が最優秀作品賞を含む8冠受賞の慶報を受けた翌日の、3月9日に第2回目授与を開始。初回授与の時よりも大変多くの参拝者で賑わい、通行される方が驚かれるほどでした。

そして本日の米国 アカデミー賞の受賞を受け、本当にゴジラ御守の奉製を思い立ってから今日まで間、大神さまが次から次へとご縁を繋いでくださって、いまの核戦争危機への警鐘と、そして未来を担う子供たちへのご加護を感じずにはおられませんでした。

このゴジラ御守をお受けになられた皆様が、核の惨禍の無い平和を享受し、ゴジラのような力強さで困難を打ち破り、己の足の歩みで、健康に、そして我が子だけでなく、様々な次世代を育む心の一助となりましたら、何よりも嬉しい思いでございます。

なお、まだゴジラ御守の方、数に限りがある事から、暫くは土日13~17時限定で、お1人さま1体のみの授与となります。今後奉製体制が落ち着いて参りましたら、平日御朱印受付日などに合わせて、平日授与や、複数体の授与も検討して参ります。正式には当宮のX(Twitter)でご案内致しますので、そちらもご覧下さいませ。





令和6年の「梅花祭」と「菜種守」の授与開始のお知らせ

2024年02月25日 | 日記

本日2月25日は当宮の御祭神 菅原道眞公が天神さまになられた日といわれております。道眞公は生涯を通じて梅の花を大変愛されておられましたので、その故事により今日の神事は梅花祭(ばいかさい)と呼ばれております。

茶屋町の当宮御旅社の紅梅は、道眞公が綱を敷いてご賞翫あそばされた天神信仰の霊木として古今遠近に知られ、梅田の梅の字の由来にもなったといわれています。

しかし、近隣に高層建築が増えた事で年々日当たりも悪くなってきている事や、夏の高温で根が弱ってしまう上、本年は暖冬の為、梅の花の咲きはじめがかなり早く、既に散り始めておりますが、何とか梅花祭の今日まで春の魁の色を残してくれております。ぜひお参りの際は紅梅にもお目を留めて頂ければと思います。

また、本日2月25日から4月上旬までの限定で、イライラ封じの御守である菜種守(なだねまもり)の授与の方も、茶屋町の御旅社で開始いたします。


この御守は菜の花が咲いている時期限定で、茶屋町の御旅社でのみ授与致します。(基本的に土日13~17時であれば確実にお受け頂けます。平日は留守がちです)

 

しかし、本年は菜の花の咲き始めがかなり早く、早々に花が散る可能性がございます為、3月中で授与終了となる可能性もございます。ご希望の方はお早めにお受け頂きますようご案内申し上げます。

 

何かとイライラのつのりやすい現代。春の和らぎの如く、穏やかな心もちになりますよう、祈念致し授与申し上げる次第です。

●菜種守の授与についてのご案内●
初穂料:700円
昨今、社務多忙の為、平日は留守がちでございますが、
土日の13:00~17:00であれば概ね授与所に神職か巫女が詰めております。
(2月25日は午前中、神事等の為ご対応出来ませんが13~17時は授与可能です)
※菜種守は茶屋町の御旅社限定の御守ですので、御本社では授与しておりません。

 

●菜種守について●
茶屋町はかつて一面の菜の花畑で、俳人の与謝蕪村が「菜の花や月は東に日は西に」と詠むほどに菜の花の名所でした。
また当宮の御祭神、菅原道真公も菜の花にはご縁があり、道眞公が天神さまとなられた後、京都では落雷や災害が続き、天神さまの祟りと恐れられましたが、道真公の御命日である旧暦2月25日頃に咲く菜の花の風情に、天神さまの荒ぶる御心が年を重ねるごとに次第に宥ね(菜種)られて、学徳の神さまと成られたという信仰があり、この菜種守はそういったトゲトゲしい心を宥ね、開運を祈念する御守です。
御守の中には御神符と共に、茶屋町産の菜種が封入されております。かつて梅田で菜種を栽培していた頃は、その出来の良し悪しを鞘を振って確かめ、その音が良ければ笑顔になったという言い伝えもあり、この菜種守もそういった故事に倣い、菜種の音が鳴るようになっています。
また御守袋の織り柄が近世までの梅田の風景になっており、まさに梅田・茶屋町ならではの御守です。

 


令和6年(2024)1月15日 とんど祭のご案内

2024年01月10日 | 日記

謹みて新年の御祝詞を申し上げます。 今年も氏子崇敬者皆々様のご健康とご多幸をお祈り申し上げます。

さて、来る1月15日 神山町の御本社において、古しめ縄、古い御神札、御守などのお焚き上げ行事である「とんど祭」をご斎行申し上げます。


 ◯日時:1月15日 08:00~10:00(受付ご対応の時間)
     (小雨程度であれば斎行します)

 ◯場所:大阪市北区神山町9-11 綱敷天神社 御本社 境内


※ 事前に持ち込まれる方へのお願い ※
しめ縄を外すのは15日当日の朝というのが本義ですが、会社の休業日などの都合で事前にお持ち込みになられる方もおられます。そうした方の為に、当宮では、御本社、御旅社ともに、古しめ縄をお納めいただく為の箱を境内に置いてございます。こちらにお納め頂きましたら、15日当日お焚き上げさせて頂きます。なお、必ず、しめ縄から「ダイダイ」「ミカン」などは取り外していただくようお願いいたします。お焚き上げ出来ないものについては下記「お焚き上げ出来るもの、出来ないものについて」をご参照下さい。


※ 御旅社(茶屋町)での受付締め切りについて ※
茶屋町の御旅社では火炉が設けられませんので、例年、古しめ縄などは取り纏めてトラックで御本社に運んでおります。トラックでの運搬は1月15日の午前8時の予定ですので、御旅社にお持ち寄りの場合は、 午前8時までにお持ち寄り下さい。
それ以降は御本社に直接お持ち寄り下さい。(8時以降に御旅社にお持ち寄りの場合は有料となる場合があります)


 

【お焚き上げ出来るもの、出来ないものについて】

 ◯お焚き上げ出来るもの
  ・しめ縄(ダイダイ、ミカンは外して)
  ・古い御神札、御守
  ・可燃の縁起物(福笹、熊出)
  ・木製の神具品

このお焚き上げの忌み火でもって、年神さまにお帰り頂くという信仰から、上り調子の午前中にお焚き上げするのが吉例とされます。ですので午前中にお持ち寄り頂きますようお願い申し上げます。(午前8時~10時までは受付の者がおります。午後からはお受付致しておりません)

 

 ◯お焚き上げできないもの
 !!下記のものはお受付しておりません!!

   ☓ 他宗教のもの(仏教、キリスト教など)
   ☓ おモチ (パックのおモチも)
   ☓ ダイダイ、ミカン
   ☓ 串柿
   ☓ 陶器類
   ☓ 金属類、銅像
   ☓ ガラス類
   ☓ ビニール製品
   ☓ 書籍、分厚い紙
   ☓ 樹脂類
   ☓ 財布、写真、ぬいぐるみ等、個人的なもの

おモチや串柿などは、強いて申し上げれば年神さまにお供えした御饌のお下がりです。ご自宅でお召し上がり頂くのが本義でございます。(お餅は砕いて揚げれば「おかき」になります。ダイダイは半分に切り、洗濯ネットなどに入れて、湯船につけて、ダイダイ風呂としてお楽しみになられるのも良いでしょう)


【諸注意】

近年多く見られるのですが、とんど祭にしめ縄をお持ち寄りになられて、受付の者にポンと放り投げるように渡して、そのまま帰られる方がおられます。(特に会社員と思われるスーツ姿の方に顕著です) 
また、財布や、思い出の写真などを大量に持ち込まれる方も近年多く見受けられます。
とんど祭は神様の御稜威の籠もったものを、天にお返しする神事でありますので、ゴミ焼却ではありません。日本人であるならば、まず御神前に参拝し、しかる後、受付の方に丁寧にお渡しして、神火炉にしめ縄をご投入頂くのが最低限の礼儀です。そうした行いの一つ一つを大切にしましょう。

当宮のとんど祭は、昔からのご縁で無償のご奉仕を頂いている方々や、周辺氏子皆様のご理解のお陰で何とか維持いたしております。そういった方々のご負担を増やさぬよう、何卒、ご協力頂きますようお願い申し上げます。

なお、とんど祭終了後に、古しめ縄などをお持ち寄りになられる場合は、有料となる場合がございます。また、とんど祭のお焚き上げをしている神火炉は15日以降は冷却期間を置く必要がありますので、追加で古しめ縄などを投入する事は絶対にやめて下さい。


古くから梅田で続く「とんど祭」を今後も伝え残していく為にも、皆様のご協力を何卒宜しくお願い申し上げます。

#綱敷天神社 #梅田 #とんど #お焚き上げ


新田ふとん店さまご奉納の神牛飾り綱、よだれ掛け

2023年12月16日 | 日記

今年も残り半月ほどとなりました。

この時期になりますと、当宮の氏子さんで、神山町の御本社から北へ50mほどいったところにあります「
#新田ふとん店」さまから、毎年、神牛像の為の「紅白の飾り綱」と、「よだれ掛け」をご奉納頂いております。

これだけ立派な飾り綱を締めている神牛像は全国的にもあまり無く、新田ふとん店の店主さまの敬神の真心を表しているかのようです。

本年も変わらぬ温かきご篤志、感謝申し上げます。

 


亥の子餅と梅田の兎我野

2023年11月13日 | 日記
今日は旧暦10月初亥の日です。
古来この日には和菓子の「亥の子餅」を食べる習わしがあります。


なぜこの日に亥の子餅を食べるのかというと、『古事記』によれば、第15代天皇である、応神天皇さまがお生まれになられた時、異母兄の麛坂王・忍熊王は、幼い応神天皇さまを亡き者にしようと謀り、その前にその企みが成功するか否かの神意を占う為、兎我野(斗賀野(記)・菟餓野(紀))に狩りに出て、良き獲物が穫れたら吉、獲れなかったら凶と定めて狩りをしました。これを「兎我野の誓約(うけい)」といいます。


ところが、その狩りの最中、どこからか怒った赤い猪が出てきて、麛坂王を食い殺してしまい、結果として大凶。後に忍熊王も討ち倒され、応神天皇さまは後年、無事天皇の位に就かれます。


無事に天皇の位に就けたのは兎我野のイノシシのお陰と思われた応神天皇さまは、その神恩を忘れぬ為に、亥の月(旧暦10月)亥の日に、イノシシの形(ウリ坊)に似せた亥の子餅を食べる事を吉例としたといわれ、既に平安時代には年中行事とされ、源氏物語にも登場するなど日本でも有数の古い歴史をもつ和菓子です。


実際には応神天皇さまの説話と亥の子餅との関係を記録した書物は悠遠の時代であった為か残っていませんが、宇多天皇の御代、つまり平安時代初期頃から宮中行事となったとみられ、近世においては、大阪の能勢から宮中に亥の子餅が献上されており、この能勢の地では応神天皇との伝承が語り継がれています。


その亥の子餅のそもそもの伝承の発端となった「兎我野の誓約」の地とは、当宮の氏地である「兎我野町」がその有力地と考えられており、いうなれば、亥の子餅は梅田とも所縁が大変深いお菓子といえます。


またこの初亥の日はコタツを出す日でもあります。そもそも亥の子餅は神恩感謝と、無病息災を念じて食べていたと考えられており、一気に冷え込みが強くなるこの時期、亥の子餅とコタツで心身ともに健やかに暖かくお過ごし下さいませ。


「難波の堀江」開削1700年

2023年11月13日 | 日記

今日、令和5年11月13日は旧暦の10月1日です。 実は大阪にとって、また日本の土木史にとって、重要な河川「難波の堀江」が開削されて1700年という一つの大きな節目となる月です。
 
 
そもそも「難波の堀江」とは、古墳時代の天皇陛下であらせられる仁徳天皇さまの御代に開削された、大阪の人工の放水路の事です。
 
 
原文
『日本書紀』 仁徳天皇11年(西暦323年)
「冬十月、掘宮北之郊原、引南水以入西海、因以號其水曰堀江。」

口語訳
仁徳天皇11年の冬10月に、高津宮(現在の大阪城周辺か)の北の原っぱを掘って、上町台地東岸に沿って、南から流れ込んでくる大和川水系の川の水を、西の大阪湾方向へ流した。その放水路を堀江と言った。
 
 
つまり、西暦323年に出来た「難波の堀江」は、今日、西暦2023年旧暦10月1日で、ちょうど開削1700年の節目となります。
 
 
この「難波の堀江」の位置については、今も諸説入り乱れていますが、考古学上、また地形上、現在の中之島の東から、大阪城北端にかけて流れる大川(旧淀川)がそれと考えられており、規模から考えても古墳時代、最大級の大土木工事であった事が推測されています。
 
 
その「難波の堀江」は一体何の為に掘ったのかというと、前述の大和川水系の水、また淀川水系の水が、古代ではちょうど現在の大阪城の北東あたりで溜まり込む地形(河内湖)となっており、度々当時の皇居である高津宮周辺が水害に遭っていたと考えられています。 その水害を防ぐ為に、現在の上町台地北端である、大阪城の北側を東西に掘って、放水路とした。という説が有力です。
 
 
この「難波の堀江」という放水路が出来た事で、古代の大阪市北区、中央区周辺は水害が減って、人々の住める土地となっていったようです。


なお、日本書紀の暦通りに数えれば1700年ですが、上古の天皇陛下の年譜については、伝説的な部分も多々あるので、現代の暦法では無理のある部分もあります。しかし、仁徳天皇さまの父である応神天皇さま以降の御代については、『宋書』の倭の五王との比定から考えると、かなり近しい年代であったと考えられ、少なくとも4,5世紀に、「難波の堀江」の大土木事業が行われていた事はほぼ間違いないと考えられています。
 
 
この難波の堀江は、当初は放水路として開削されたと見られていますが、後に、水上運輸の重要地点ともなり、「難波津」という港湾が形作られます。その難波津の近くに咲いていた梅の花を詠んだ歌に
 
「難波津に 咲くやこの花 冬籠り 今を春べと 咲くやこの花」
 
という歌があり、この和歌は実在が確認できる和歌としては、最も古い和歌で、和歌の父ともいわれ、近世までは手習いの最初に習う和歌とされ、日本の和歌の原点となっています。
 
 
また、難波の堀江の開削から239年後の、欽明天皇13年(552)10月に、蘇我稲目が祀っていた仏像を、物部尾輿がこの難波堀江に投棄し、さらにそれらの息子の世代にも同様の事があり、敏達天皇14年(585)3月、蘇我馬子が祀っていた仏像を、物部守屋が焼いて、同じく難波の堀江に投棄しています。この仏像を後に、信濃の本田善光が拾って郷里に持ち帰り、お祀りする為に建てたお寺が今の善光寺です。
 
 
更に、難波の堀江の開削から、578年後の、昌泰4年(901)。当宮の御祭神の菅原道真公が無実の罪で京都から九州大宰府に左遷される途次、この難波津の和歌の事に思いを致されて、当宮の紅梅をご覧になられた故事から、梅田の梅の字も生まれたと考えられています。
 

このように、日本の和歌、仏教、梅田に大きな影響を与えた「難波の堀江」ですが、その後も様々な人々が足跡を残し、平安時代から鎌倉時代にかけては渡辺党の根拠地、室町時代には大坂本願寺、さらに豊臣秀吉の直轄となり、徳川時代以降は「天下の台所」の拠点として蔵屋敷の水運の中心となり、現代に至っても、八軒家浜という名で、水運を担っており、さらに、昨今では上町台地東側の氾濫防止の為の地下の放水路の出口にも繋げられており、1700年前の古代から、現代に至るまで、活用されている事を考えると、仁徳天皇の御代の人々のお陰で支えられているんだなという事を強く感じます。
 
ちなみに今日は、亥の月亥の日で、亥の子餅を食べる習いのある日です。この亥の子餅の風習も、当宮氏地の兎我野町であった「兎我野の誓約」という説話が所以で、「難波の堀江」を開削した仁徳天皇さまの父、応神天皇さまの故事に由来します。実は当宮では戦前まで応神天皇さまをお祀りした末社がありましたが、戦災で焼失し、現在は御本殿にて配祀する形となっておりますが、応神天皇さま、仁徳天皇さまとも縁深き神社でもあります。

応神天皇さま、仁徳天皇さまの親子二代にわたり、大阪の歴史の基礎を築かれ、その上に立つ現代の私達。神々の恵みと先人の恩への感謝を忘れず、次の時代へ佳き歴史を積み重ねていきたいものです。

古代大阪の地形図

難波の堀江推定地(現在の大川)

 難波津の想像図  

難波の堀江で仏像を見つけた本田善光

現在の八軒家浜(大川南岸) 

現在の大川(難波堀江推定地・令和5年10月撮影)

現在の大川にかかる噴水(令和5年10月撮影)


令和五年 秋祭

2023年10月15日 | 日記

10月15日は当宮御本社の秋祭でした。

この日は御神前に「ゆりわ」という器に団子を盛ってお供えする習いがあります。

これは1122年前、菅原道眞公が当地に逗留時に、梅田の民が献上した故事にちなむ神饌です。

秋の風も心地よく、今年も滞り無くお納め致しました。

 


令和五年(2023) 遣梅式

2023年07月25日 | 日記

令和5年7月24日。本年も茶屋町の御旅社にて、遣梅式(けんばいしき)の御儀滞りなくお納め申し上げました。

この神事は、大阪天満宮の天神祭と、当宮との間で行われる特殊神事です。

天神祭は日本三大祭りの一つに数えられ、大阪天満宮にお祀りされる天神さまが、鳳輦やお神輿に遷られ、氏子崇敬者皆さんで賑やかに陸渡御、船渡御という渡御列を組んで、氏地を巡行される祭礼です。

その中で最も重要な神事が「神霊移御の儀」という神事で、本殿から鳳輦という神さまの乗り物まで、天神さまの御神霊をお遷しする儀式です。

この際に、天神さまの依代として用いられるのが、梅ケ枝(梅の瑞枝とも)で、その枝に天神さまの御神霊が宿られ、本殿から鳳輦まで乗り移られます。

そしてその梅ケ枝は、当宮の紅梅の枝を用いるのが習わしとなっています。

当宮の紅梅は由緒によれば、天神さまこと菅原道真公が、無実の罪で京都から大宰府へと左遷される途次、ここ梅田で満開に咲いていた紅梅に目を留められ、それを一時見ていかれたいと立ち寄られ、その際に即席の座席として、船と陸を繋ぐ「とも綱」を円く円座状にして敷いた事から当宮の社号「綱敷」の名もあります。 そして道真公のご覧になられた紅梅は後に「梅塚」という名前となり、当宮関係者が代々大切に守り伝えて来ました。

一説には、この梅は梅田の梅の字の由来にもなったといわれ、古くは古墳時代の仁徳天皇さまの御代に讃えられた「難波津に咲くやこの花」の梅も当宮の梅といわれており、天神さまの所縁の梅である事はもちろん、大阪の歴史においても、また和歌の歴史においても非常に重要な梅です。

そうした霊験あらたかなる梅である事から、天神祭において御神霊にお遷り頂くのに相応しい梅として、古くから大阪天満宮より神霊移御の儀に使わさせて頂きたいとの申し出を受けて、当宮が授与して参りました。

神事自体の歴史も古く、江戸時代まで行われていたようですが、幕末の動乱で神事が行えなくなった事から途絶し、戦災などで史料類の多くも焼失、そのまま140年あまりが経過していましたが、平成22年(2010)に当宮と大阪天満宮との両神社で史料が発見された事から、古儀復興の気運が高まり、コロナ禍の中止や略儀化などもありましたが、本年は本式での神事となり、古儀復興から13回目になります。 なお遣梅式の名は古儀復興時に考案され、梅の枝を遣わす神事という意味です。

本年も、西天満小学校に通う児童の中から選ばれた神童さんが、恭しく当宮に参拝の上、しっかりと梅ケ枝を拝受致しました。

今日25日は、実質4年ぶりとなる規制の無い天神祭です。 大阪天満宮におかれては、陸渡御、船渡御、そして花火と、これから最高潮を迎えますが、神童の持つ梅ヶ枝にもぜひご注目下さい。







歯神社例祭 と ブラタモリ

2023年06月05日 | 日記
季節外れの台風2号の影響が心配される中ではありましたが、本年も無事に、当宮末社である歯神社の例祭(歯神祭)、滞る事なくお納め申し上げました。

本年は日曜日だった事もあってか、全国各地からお参りの方がお越しになられていたようで、中には遠く北海道からお参りの方もおられたようです。皆様ご遠路ようこそお参りでした。

また、本年も変わらぬご崇敬をお寄せ頂き、たくさんの歯ブラシをご奉納下さいました、全日本ブラシ工業協同組合さま、株式会社サンギさまには、厚く御礼申し上げる次第です。

ところで、今度の土曜日、6月10日19:30より、NHK「ブラタモリ」にて、梅田の特集があり、その中で歯神社が登場し、歯神社の由来など含めてご紹介頂くようです。

ぜひご覧下さいませ。