今日9月7日は、当宮の主祭神であられます嵯峨天皇さまがお生まれになられた日です。
延暦五年(786)9月7日に、現在の京都府長岡京市で桓武天皇さまの第二皇子としてお生まれになられました。御生母は藤原乙牟漏さまで、とても美しく温和な方であったと伝えられています。
当時は、まだ平安京に遷都する前であり、皇居(長岡宮)は長岡京にありました。ですので嵯峨天皇さまは唯一の長岡京生まれの天皇陛下でもあらせられます。
この嵯峨天皇さまの御誕生には伝説があり、『日本霊異記』には、嵯峨天皇さまがお生まれになられる前の天平宝字2年(758年)に、四国の石鎚山で修行していた寂仙(上仙とも)という高僧が入寂する際に「私は28年後に国王の御子に生まれ変わるであろう」と予言してから亡くなり、その予言通り28年後に嵯峨天皇さまがお生まれになったので、嵯峨天皇さまが聖君であることが知られるようになった。という説話があります。
また『文徳天皇実録』には、『日本霊異記』と同じような説話につづいて、「生まれ変わる際は必ず郡名をもって名とするだろう」とも予言したとされ、この寂仙の居住していた郡名は、神野郡といい、事実、嵯峨天皇さまの御名は「神野(かみぬ)」と付けられています。
当時は皇子の幼名は乳母の名から採るのが倣わしであったといわれ、たまたま神野という乳母がついた事で(一説には神野郡の出身とも)、奇しくも嵯峨天皇さまの御名が神野となりました。 後年、この神野郡が天皇となられた嵯峨天皇さまの御名と同じである事は恐れ多いという事で、新居郡と改められ、そして現代では新居浜市となっています。
また、この寂仙を支えた地元の女性に「橘の嫗」という人がいて、長らく寂仙に尽くしてきましたが、寂仙が亡くなった事で気落ちし、「来世でまた寂仙さまとお会いしたい」と語り亡くなったとされ、後年、嵯峨天皇さまの皇后として立后されたのが、同い年でお生まれになられた橘嘉智子さまで、同じ橘の姓をもつ事から、前世からのご縁でお二人は結ばれたというロマンチックな説話も残っています。
桓武天皇さまの御代ではまだ不安定であった平安京、すなわち京都を、平安時代から幕末までの一千年以上にわたって、日本の首都として固められたのは嵯峨天皇さまであり、その御事跡をして「平安定都」と称えられ、世界でも類を見ない首都を構築され、
また現在に残る日本文化が花開いたルーツの殆どは、この嵯峨天皇さまにはじまるといっても過言ではなく、まさに嵯峨天皇さまは日本文化の神さまといえるのかもしれません。今日はそんな嵯峨天皇さまの御誕生日でした。
ちなみに、今上陛下の皇孫であらせられます、秋篠宮家の悠仁親王殿下の御誕生は一日前の9月6日です。殿下の御誕生の際には七色の瑞雲が現れたり、山形県鶴岡市の湯殿山では龍のような雲がたなびいたりと、嵯峨天皇さまに劣らぬ吉祥があった事は記憶に新しく、いつか皇嗣に立たれるその日まで、殿下には嵯峨天皇さまをはじめ、八百万の神々に見守られてのお健やかなるご成長を祈念するばかりです。
写真は嵯峨天皇さまが愛された、嵯峨菊です。明後日9月9日は菊の節供こと重陽の節供でもあります。
延暦五年(786)9月7日に、現在の京都府長岡京市で桓武天皇さまの第二皇子としてお生まれになられました。御生母は藤原乙牟漏さまで、とても美しく温和な方であったと伝えられています。
当時は、まだ平安京に遷都する前であり、皇居(長岡宮)は長岡京にありました。ですので嵯峨天皇さまは唯一の長岡京生まれの天皇陛下でもあらせられます。
この嵯峨天皇さまの御誕生には伝説があり、『日本霊異記』には、嵯峨天皇さまがお生まれになられる前の天平宝字2年(758年)に、四国の石鎚山で修行していた寂仙(上仙とも)という高僧が入寂する際に「私は28年後に国王の御子に生まれ変わるであろう」と予言してから亡くなり、その予言通り28年後に嵯峨天皇さまがお生まれになったので、嵯峨天皇さまが聖君であることが知られるようになった。という説話があります。
また『文徳天皇実録』には、『日本霊異記』と同じような説話につづいて、「生まれ変わる際は必ず郡名をもって名とするだろう」とも予言したとされ、この寂仙の居住していた郡名は、神野郡といい、事実、嵯峨天皇さまの御名は「神野(かみぬ)」と付けられています。
当時は皇子の幼名は乳母の名から採るのが倣わしであったといわれ、たまたま神野という乳母がついた事で(一説には神野郡の出身とも)、奇しくも嵯峨天皇さまの御名が神野となりました。 後年、この神野郡が天皇となられた嵯峨天皇さまの御名と同じである事は恐れ多いという事で、新居郡と改められ、そして現代では新居浜市となっています。
また、この寂仙を支えた地元の女性に「橘の嫗」という人がいて、長らく寂仙に尽くしてきましたが、寂仙が亡くなった事で気落ちし、「来世でまた寂仙さまとお会いしたい」と語り亡くなったとされ、後年、嵯峨天皇さまの皇后として立后されたのが、同い年でお生まれになられた橘嘉智子さまで、同じ橘の姓をもつ事から、前世からのご縁でお二人は結ばれたというロマンチックな説話も残っています。
桓武天皇さまの御代ではまだ不安定であった平安京、すなわち京都を、平安時代から幕末までの一千年以上にわたって、日本の首都として固められたのは嵯峨天皇さまであり、その御事跡をして「平安定都」と称えられ、世界でも類を見ない首都を構築され、
また現在に残る日本文化が花開いたルーツの殆どは、この嵯峨天皇さまにはじまるといっても過言ではなく、まさに嵯峨天皇さまは日本文化の神さまといえるのかもしれません。今日はそんな嵯峨天皇さまの御誕生日でした。
ちなみに、今上陛下の皇孫であらせられます、秋篠宮家の悠仁親王殿下の御誕生は一日前の9月6日です。殿下の御誕生の際には七色の瑞雲が現れたり、山形県鶴岡市の湯殿山では龍のような雲がたなびいたりと、嵯峨天皇さまに劣らぬ吉祥があった事は記憶に新しく、いつか皇嗣に立たれるその日まで、殿下には嵯峨天皇さまをはじめ、八百万の神々に見守られてのお健やかなるご成長を祈念するばかりです。
写真は嵯峨天皇さまが愛された、嵯峨菊です。明後日9月9日は菊の節供こと重陽の節供でもあります。