早いもので3月になりました。その令和4年(2022)3月は、日本における、日本人の手による初の国産の商業ビールが醸造開始されてちょうど150年となります。
その記念すべき第1号を醸したのは、明治5年(1872)3月、梅田にほど近い現在の大阪市北区堂島1丁目4ー30で、今は北新地と呼ばれる地域にあった、「澁谷(しぶたに)ビール」です。
豊中市桜井谷の豪農で、大阪天満で綿業商、酒造業もしていた澁谷庄三郎は、純粋に日本人の手による一般大衆にも親しまれるビール醸造を志し、堂島の地に醸造所を構え、明治5年に醸造を開始しました。これが国産の商業ビール第1号といわれています。
他にも日本人の手によるビール醸造は、川本幸民などが知られていますが、これらは実験レベルでの醸造であり、知人であるとか、親しい関係者のみに配られただけで、一般大衆が購入出来るものではありませんでした。また、横浜にジャパン・ヨコハマ・ブルワリーが明治2年に開設されていますが、こちらは外国人が醸造しており居留外国人の為の醸造所でした。
澁谷はそんなビールを日本人の手によって、誰でも買えるようにした、その第1号という訳です。
しかし、当時の日本人にはその苦味がなかなか受け入れられず、お得意先だった川口居留地の外国人は良港であった神戸へ次第に移ってしまい、赤字経営が続き、開業から9年後の明治14年(1881)年に澁谷庄三郎が亡くなると、残念ながら醸造所は閉鎖されました。
しかしその後、各地で文明開化の象徴たるお酒としてビール需要が徐々に高まり、明治16年の日本のビール総生産量は208KLだったのが、30年には65,717KLと、実に14年で300倍以上の需要増となり、現代に至っては1億9千万KL以上で、日本人1人につき年間1リットル以上を飲んでいる計算になります。今や日本のアルコール飲料の主役といえます。
そうしたビールの発展も、澁谷ビールが蒔いた一つぶの種から始まったのだと思えば、大阪の歴史の大いなる1ページいえます。
そんなこんなで今日3月1日の月首祭では、御神前に澁谷庄三郎の遺徳を偲び、高槻の壽酒造さんで醸造されている北新地ビールをお供え致しました。こちらのビールは澁谷庄三郎の偉業を追慕したビールの一つです。
コロナ禍で飲食業の皆様は何もかもが上手く行かない中ですが、コロナ禍明けましたら、国産商業ビール醸造開始から150年の慶節。再び飲食店に賑わいが戻る事を願わずにいられません。
その記念すべき第1号を醸したのは、明治5年(1872)3月、梅田にほど近い現在の大阪市北区堂島1丁目4ー30で、今は北新地と呼ばれる地域にあった、「澁谷(しぶたに)ビール」です。
豊中市桜井谷の豪農で、大阪天満で綿業商、酒造業もしていた澁谷庄三郎は、純粋に日本人の手による一般大衆にも親しまれるビール醸造を志し、堂島の地に醸造所を構え、明治5年に醸造を開始しました。これが国産の商業ビール第1号といわれています。
他にも日本人の手によるビール醸造は、川本幸民などが知られていますが、これらは実験レベルでの醸造であり、知人であるとか、親しい関係者のみに配られただけで、一般大衆が購入出来るものではありませんでした。また、横浜にジャパン・ヨコハマ・ブルワリーが明治2年に開設されていますが、こちらは外国人が醸造しており居留外国人の為の醸造所でした。
澁谷はそんなビールを日本人の手によって、誰でも買えるようにした、その第1号という訳です。
しかし、当時の日本人にはその苦味がなかなか受け入れられず、お得意先だった川口居留地の外国人は良港であった神戸へ次第に移ってしまい、赤字経営が続き、開業から9年後の明治14年(1881)年に澁谷庄三郎が亡くなると、残念ながら醸造所は閉鎖されました。
しかしその後、各地で文明開化の象徴たるお酒としてビール需要が徐々に高まり、明治16年の日本のビール総生産量は208KLだったのが、30年には65,717KLと、実に14年で300倍以上の需要増となり、現代に至っては1億9千万KL以上で、日本人1人につき年間1リットル以上を飲んでいる計算になります。今や日本のアルコール飲料の主役といえます。
そうしたビールの発展も、澁谷ビールが蒔いた一つぶの種から始まったのだと思えば、大阪の歴史の大いなる1ページいえます。
そんなこんなで今日3月1日の月首祭では、御神前に澁谷庄三郎の遺徳を偲び、高槻の壽酒造さんで醸造されている北新地ビールをお供え致しました。こちらのビールは澁谷庄三郎の偉業を追慕したビールの一つです。
コロナ禍で飲食業の皆様は何もかもが上手く行かない中ですが、コロナ禍明けましたら、国産商業ビール醸造開始から150年の慶節。再び飲食店に賑わいが戻る事を願わずにいられません。