綱敷天神社 禰宜日誌

大阪梅田の綱敷天神社のご案内ブログです

神牛像の飾り綱と涎掛けのご奉納

2024年12月12日 | 日記

今年は残暑が長かった分、12月に入りいきなり寒くなったように感じます。

この年末になりますと、当宮の氏子さんで、神山町の御本社から北へ50mほどのところにあります「新田ふとん店」さまから、毎年、神牛像の為の「紅白の飾り綱」と、「よだれ掛け」をご奉納頂いております。

例年、しめ縄替えの日に、飾り綱と、よだれ掛けを新しいものに付け替えておりますが、今年は寒さが厳しく感じますので、モコモコの新しい飾り綱に、神牛さんもきっとお喜びになられる事と思います。

本年も変わらぬ温かきご篤志、有難う御座います。


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令和六年(2024) 新嘗祭

2024年11月23日 | 日記

本日11月23日は、日本全体の収穫感謝の祭礼である「新嘗祭(にいなめさい)」が宮中はじめ全国の神社で斎行されます。

新嘗祭そのものの起源は大変に古く、最古の物語である『古事記』にも既に見られるほど、神代の時代から続けられている神事です。

神事では、その年に収穫されたお米を中心に、様々な食べ物が神々にお供えされ、五穀豊穣と国家国民の安寧を祈ります。 多くの神社では23日の午前中に神事が行われますが、宮中においては、天皇陛下御自ら、23日18時からの「夕(よい)の儀」と、23時からの「暁(あかつき)の儀」と、二度に分けて執り行われ、それぞれ2時間超の長い神事が行われます。 天皇陛下御自らそれほどに深い祈りを捧げられる事から、宮中においても最も厳粛に執り行われる神事の一つです。

ちなみに、天皇陛下による新嘗祭の神事が納められましてから、新米は頂くものとされており、明日24日の朝ごはんから新米を食すのが習わしとされています。(ただし、現今では9月頃から新米が出回るようになっていますので、あくまでも古式の習いとお捉え下さい)

またこの宮中の新嘗祭では、白酒(しろき)、黒酒(くろき)という特別なお酒も献られます。 一般の神社でお供えされる事は稀なのですが、伊勢国に鎮座します久居八幡宮の禰宜さまより、ご厚意で本年も黒酒を奉製する為に必要な、伊勢国の久佐木の灰をお頒かち頂きまして、当宮でも黒酒を奉製しお供えさせて頂いております。久居八幡宮の禰宜さま、ありがとうございました。

本年は、猛暑と長い残暑の影響で、お米の生育が西日本ではあまり良くなく、大阪では8月に一時的に米不足になりましたが、農家の皆さんのご尽力、流通各社のご尽力のお陰で、この新嘗祭には例年通り新米をお供えする事が出来ました。
当たり前のようですが、当たり前ではない、人知れずの苦労があっての事だと思います。大神さまはそうした人知れずの努力にこそ眼差しを向けるとも申します。今日の新嘗祭の新穀、新酒を大神さまも思い深くいただかれたのではないかと思うところです。

御神饌につきましては新嘗祭をお納めした後、普段であればすぐに撤下しておりますのが、お米の大切さを知って頂く機になればと思い、本日夕方頃まで、茶屋町の綱敷天神社 御旅社の本殿内に、新米、白酒、黒酒を、ご参拝皆様にもご覧いただけるように置いております。ぜひお参りの際はご覧下さい。

どうぞ皆様のご自宅でも、「いただきます」「ごちそうさま」の心をどうか大切に、秋の実りへの感謝を捧げる日となられます事、お祈り申し上げております。

 


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令和6年 亥の子餅

2024年11月07日 | 日記
古来より
亥の月(旧暦10月)
亥の日(その月で初めての亥の日)
亥の刻(午後10時頃)
には和菓子の「亥の子餅」を食べる習わしがあります。
 
今日、11月7日は、旧暦初亥の日で、まさにその当日です。


なぜこの日に亥の子餅を食べるのかというと、『古事記』によれば、第15代天皇である、応神天皇さまがお生まれになられた時、異母兄の麛坂王・忍熊王は、幼い応神天皇さまを亡き者にしようと謀り、その前にその企みが成功するか否かの神意を占う為、兎我野(斗賀野(記)・菟餓野(紀))に狩りに出て、良き獲物が穫れたら吉、獲れなかったら凶と定めて狩りをしました。これを「兎我野の誓約(うけい)」といいます。


ところが、その狩りの最中、どこからか怒った赤い猪が出てきて、麛坂王を食い殺してしまい、結果として大凶。後に忍熊王も討ち倒され、応神天皇さまは後年、無事天皇の位に就かれます。


無事に天皇の位に就けたのは兎我野のイノシシのお陰と思われた応神天皇さまは、その神恩を忘れぬ為に、亥の月(旧暦10月)亥の日に、イノシシの形(ウリ坊)に似せた亥の子餅を食べる事を吉例としたといわれ、既に平安時代には年中行事とされ、源氏物語にも登場するなど日本でも有数の古い歴史をもつ和菓子です。


実際には応神天皇さまの説話と亥の子餅との関係を記録した書物は悠遠の時代であった為か残っていませんが、宇多天皇の御代、つまり平安時代初期頃から宮中行事となったとみられ、近世においては、大阪の能勢から宮中に亥の子餅が献上されており、この能勢の地では応神天皇との伝承が語り継がれています。


その亥の子餅のそもそもの伝承の発端となった「兎我野の誓約」の地とは、当宮の氏地である「兎我野町」がその有力地と考えられており、いうなれば、亥の子餅は梅田とも所縁が大変深いお菓子といえます。


またこの初亥の日はコタツを出す日でもあります。そもそも亥の子餅は神恩感謝と、無病息災を念じて食べていたと考えられており、今年は立冬の日とも重なり、一気に冷え込みが強くなりました。どうぞこの時期に、亥の子餅を食べて滋養をつけ、足腰はコタツで温め、心身ともに健やかに暖かくお過ごし下さいませ。
 
 

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日本酒等の伝統的酒造りが、ユネスコの無形文化遺産に登録見込み

2024年11月05日 | 日記

この度、国連教育・科学・文化機関(ユネスコ)の無形文化遺産に、日本酒などの「伝統的酒造り」が無形文化遺産に登録される見通しになったそうです。

日本の酒造ご関係の皆様には心からお喜び申し上げます。

当宮、主祭神の嵯峨天皇さまは、史上初めて熱燗を召し上がられた方であられ、また日本で初めてお屠蘇を服用された方でもいらっしゃいます。今日の吉報、きっとお喜びになられている事でしょう。

日本酒はいうまでもなく、古来より御神前に捧げられてきた御神酒でございます。悠か古代より大神さまはもとより人々の笑顔の為、醸しの技を磨き続けてこられた先人の皆様の培いが、世界にも認められたという点で、改めて酒造りに携わられる皆様のこれまでの努力に感謝の思いです。

文化庁によりますと、来月12月2日からパラグアイで開かれる政府間委員会で無形文化遺産への登録が正式に決まるそうです。

https://news.yahoo.co.jp/articles/2d1adee16262400c27bf97284f6164f8d3e17df1?source=sns&dv=pc&mid=other&date=20241105&ctg=dom&bt=tw_up 


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79回目の終戦の日

2024年08月15日 | 日記

79年前の8月15日。焼け野原となった梅田。
 
その路傍に小さな露草が咲いていたそうです。

小さき花といえど、一生懸命に咲くその姿に、当時の氏子さんらは励まされたそうです。

未だ世界では、戦火が燻る現代。79年前の当時を知る方々も年々少なくなってきています。戦争の惨禍を再び繰り返さぬよう、御神前に平和を祈念し、露草一枝を奉りました。

露草は当宮境内に生えていたものです。今年は強烈な暑さのせいか、花は小さいですが、79年前と同じく8月の暑さの中、涼しげな青色を見せてくれています。

器は、戦時中用いられた陶器製の手榴弾です。当時は兵科の火器として作られたものも、現代では平和の花器となっています。

ただただ平和への祈りと、戦没者の方々の御霊の安からん事をお祈り申し上げます。


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杉本傅氏とパリ五輪

2024年07月27日 | 日記

本日、令和6年(2024)7月27日午前2時30分(日本時間)から、開会式が行われる、第33回オリンピック競技大会「パリ五輪」。32競技、329種目が実施される予定です。

このオリンピックですが、ちょうど百年前の大正13年(1924)もパリでの開催でした。

当時日本は関東大震災の直後でしたが、災害に負けぬ日本を世界に示す為、万難を排し、19名の選手団が派遣され、そのうちの約3割にあたる6名が水泳選手であり、その水泳選手団を監督として率いたのが、当宮の歴代の氏子であった 杉本傅(すぎもと つたえ)氏でした。

杉本家は、現在の堂山町にある東急REIホテルあたりに代々のお家があられ、江戸中期の古い地図等にも杉本家の名前が出てくるなど、梅田に根ざし、当宮とも関係の深いお家柄でした。

杉本傳氏はその杉本家で生まれ、日体大卒業後、母校である府立茨木高校の教員となり、まだ世界でも萌芽期であった近代水泳に着目。その指導の為、大正5年(1916)に大正天皇の御即位を記念して、校庭に南北30メートル・東西18メートルの水泳池を生徒らと協力して建造。これが日本最初の水泳授業の為のプールといわれています。

大正9年(1920)に開かれた全国競泳大会に、指導する茨木高校水泳部が出場し、高校生ながら全国優勝。その後も様々な大会で圧倒し、水泳指導者として杉本氏の名声は高まり、大正13年のパリ五輪では水泳の代表監督に就任しました。ちなみにこの時の開会式では、日本のマラソン界の父といわれる金栗四三氏が旗手を務めており、水泳のみならず陸上も黎明期でした。

パリ五輪においては、杉本傅氏の愛弟子である、高石勝男氏等が入賞するなど、黎明期と思えぬ活躍を見せ、後に海洋国家日本のお家芸ともいわれる日本水泳が世界に泳ぎ出した大会でもありました。

実はいま私たちが学校で普通に習っているクロールを、日本に定着させたのはこの杉本氏の功績が大きく、他にも水泳飛び込みや、背泳、水球の普及にも大きく貢献されました。

また杉本氏が直接関わられていたのかどうかは不明ですが、杉本氏の生家から東にいった大阪梅田の東端、扇町公園には、かつて大阪プール(現在は港区に移転)がありましたが、ここに設置された競泳飛び込み台には、今では一般的になっている背泳の為の持ち手がついています。伝承によれば、これが世界最初の背泳の持ち手とも言われており、水の都である大阪。その中でも杉本氏の生誕地である梅田を日本水泳の発信地にしようという思いがあられたのではという気もしてまいります。

そうした日本における近代水泳の基礎を固められたので、杉本氏は「日本近代水泳の父」ともいえる方でした。

しかし、とてもシャイな性格であられたそうで、顕彰などでお名前が出る事をあまり好まれず、現代に至るまでその顕彰は殆ど成されていません。

数少ないお名前が残っている場所というのが、母校茨木高校の顕彰碑と、当宮御本社の玉垣のお名前ぐらいとなっています。
今後日本の水泳史の研究が進めば、必ずお名前が高まる方である事は間違いありません。これからの調査研究に期待したいところです。

そんな杉本傅氏が指導に関わった水泳競技。

今回の第33回オリンピック競技大会 パリ大会では、
団長の金子日出澄氏、総監督の村松さやか氏をはじめ、
梅原孝之監督が率いる競泳選手27名、
安田千万樹ヘッドコーチが率いる水泳飛び込み5名、
塩田義法ヘッドコーチが率いる水球選手13名
中島貴子 ヘッドコーチが率いるAS選手9名
吉田龍平コーチが率いるOWS選手2名

また8月28日からの
第17回パラリンピック パリ大会では
上垣匠監督が率いる競泳選手22名

の方々が精魂込めて競技に臨まれます。
選手の皆様には悔いのない全力競技をと祈念する思いです。

そして、今日のトビウオジャパンの原点になった、杉本傅氏の功績も忘れずにいたいものです。



   


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令和六年(2024) 遣梅式

2024年07月25日 | 日記

令和6年(2024)7月24日。本年も茶屋町の御旅社にて、遣梅式(けんばいしき)の御儀滞りなくお納め申し上げました。

この神事は、大阪天満宮の天神祭と、当宮との間で行われる特殊神事です。

天神祭とは、日本三大祭りの一つに数えられ、大阪天満宮にお祀りされている天神さまの御神霊が、鳳輦やお神輿に遷られ、氏子崇敬者皆さんで賑やかに陸渡御、船渡御という渡御列を組んで、氏地を巡行される祭礼です。

その中で最も重要な神事が「神霊移御の儀」という神事で、本殿から鳳輦という神さまの乗り物まで、天神さまの御神霊をお遷しする儀式です。

この際に、天神さまの依代として用いられるのが、梅ケ枝(梅の瑞枝とも)で、その枝に天神さまの御神霊が宿られ、本殿から鳳輦まで乗り移られます。

そしてその梅ケ枝は、当宮の紅梅の枝を用いるのが習わしとなっています。

当宮の紅梅は由緒によれば、天神さまこと菅原道真公が、無実の罪で京都から大宰府へと左遷される途次、ここ梅田で満開に咲いていた紅梅に目を留められ、それを一時見ていかれたいと立ち寄られ、その際に即席の座席として、船と陸を繋ぐ「とも綱」を円く円座状にして敷いた事から当宮の社号「綱敷」の名もあります。 そして道真公のご覧になられた紅梅は後に「梅塚」という名前となり、当宮関係者が代々大切に守り伝えて来ました。

一説には、この梅は梅田の梅の字の由来にもなったといわれ、古くは古墳時代の仁徳天皇さまの御代に讃えられた「難波津に咲くやこの花」の梅も当宮の梅といわれており、天神さまの所縁の梅である事はもちろん、大阪の歴史においても、また和歌の歴史においても非常に重要な梅です。

そうした霊験あらたかなる梅である事から、天神祭において御神霊にお遷り頂くのに相応しい梅として、古くから大阪天満宮より神霊移御の儀に使わさせて頂きたいとの申し出を受けて、当宮が授与して参りました。

神事自体の歴史も古く、江戸時代まで行われていたようですが、幕末の動乱で神事が行えなくなった事から途絶し、戦災などで史料類の多くも焼失、そのまま140年あまりが経過していましたが、平成22年(2010)に当宮と大阪天満宮との両神社で史料が発見された事から、古儀復興の気運が高まり、コロナ禍による中止などもありましたが、今回で古儀復興から14回目になります。 なお遣梅式(けんばいしき)の名は古儀復興時に考案され、梅の枝を遣わす神事という意味です。

本年も、西天満小学校に通う児童の中から選ばれた神童さんが、恭しく当宮に参拝の上、しっかりと梅ケ枝を拝受致しました。 

今日25日は天神祭の本宮です。 大阪天満宮におかれては、陸渡御、船渡御、そして花火と、これから最高潮を迎えますが、神童の持つ梅ヶ枝にもぜひご注目下さい。



 


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大阪駅 150年

2024年05月11日 | 日記

本日、令和6年(2024)05月11日。大阪駅が開業してからちょうど150年となりました。

当時、近代化を急ぐ明治政府は、明治5年(1872)に新橋駅ー横浜駅間に日本初の鉄道を敷設した事に続いて、大阪ー神戸間の鉄道敷設を計画。

当初は貨物輸送なども考えて米市場のある、大阪市北区堂島あたりに頭端式の駅を計画していましたが、地価が高いのに加え、建設資材運輸の問題、また将来的に東京まで繋ぐ東海道線への接続を考えると立地的に不便でした。

そこで検討の結果、東西に抜ける事が出来る、現在のような通過式が採用される事となり、堂島の東北、当時泥沼地で田畑しか無く、地価も激安だった梅田が好適地として選ばれ、現在のJPタワー梅田あたりに建てられる事が決まりました。

しかし当時の日本には、鉄道建設のノウハウはありませんでしたので、いわゆるお雇い外国人である、英国人技士ジョン・イングランド氏の指導を仰いで、建設に着手。

英国ダーリントン社製の双頭のレールが敷設され、駅舎の骨組みは木造でしたが、壁面は赤レンガで飾られ(色合いのせいなのか当時はこのレンガの事を麭麺瓦(パン瓦)と呼んだそうです)、建物の角には隅石が配され、
このように、これまでの日本に無かった近世フランス調ゴシック様式の西洋建築が突然、田畑しかない場所に出現した事は、当時の梅田の人々には相当な衝撃であったようです。今なら田畑しかないところに宇宙ロケットの発射基地が出来るようなものだったのかもしれません。

こうして大阪初となる技術がどんどん注ぎ込まれて建設された大阪駅は、明治7年(1874)05月11日に開業しました。

開業当初は英国人が建設始動した事もあってか、英語で「梅田ステーション」と呼ばれていましたが、英語に不慣れな大阪人は「梅田すてんしょ」と訛って呼んでいました。

開業時点では、大阪―神戸間には、大阪、神崎、西宮、住吉、三宮、神戸の6駅だけで、列車は1日8本。だいたい乗降客数は1000人ほどだったようです。
運賃は、上等が1円、中等が70銭、下等は40銭とあり、明治の円相場は変動が大きいですが、『米価三代暦』にある明治7年の玄米一俵(60kg)の価格2.91円をもとに、令和5年の総務省発表、玄米60kgの平均小売価格が約28,404円なので、大雑把に現代の価値に直すと、上等は約1万円、中等7千円、下等は2千円ぐらいになります。今は460円ですから、約21倍も高いですね。(現代と明治7年では物価も違いますし、当時の大阪の経済状況はめちゃくちゃでしたので、一概にも言えませんのであくまでも推計です)

このように旅客は高額でしたので、当時は旅客よりも貨物輸送の比重が大きく、明治11年には、堂島川から運河が開削され、駅の南西に入堀も設けられました。これによって水運も図られる駅となっており、明治中頃には、缶詰を作る製缶工場等が駅の北側にはあったようです。

しかし、開業当時の大阪駅は周辺に何も無く、また梅田墓地というお墓がすぐ隣地にあり、開業後も暫くは卒塔婆や墓石が立ち並んでいたそうで、当時、十代半ばの新人駅員が、夜あまりにも怖くて姉に迎えに来てもらったという逸話も伝わっています。

その暗さと怖さのせいなのか、実は大阪で最初に電灯が点いたのは大阪駅前で、明治16年(1883)11月18日に、大阪駅前の火の見櫓にアーク灯が設置されています。

こうした新しい技術の粋が集められた大阪駅でしたので、新しいもん好きの大阪人には格好の名所となり、数多くの絵画に描かれ、中にはお弁当持参で機関車に乗るだけの、いわゆる「乗り鉄」も早い段階からいたようです。

このお弁当持参の旅客に目をつけて、明治21年(1888)には、水了軒というお店が駅弁業を始めています。ちなみにこの年、神戸ー東京間が東海道線で結ばれた年でもありました。この水了軒さんは現在は仕出し中心となられていますが、いまも営業されています。

ちなみに、この大阪駅の初代駅長である武藤正明氏は、奥様が高杉タケさんといい、なんと高杉晋作の妹さんであり、この武藤駅長とは義理の兄弟でもありました。初代大阪駅は明治の草創期という事もあり、こうした逸話が色々とあります。

明治34年(1901)7月に大阪市電の乗り入れ計画や、旅客輸送量の増大、駅前広場を確保する為、駅の位置を東にずらし、当宮の氏地であった北野松本町付近に二代目大阪駅が建てられ、そして現在に至っています。
ちょうどその頃ぐらいから、梅田すてんしょとは呼ばれず、ただ単に大阪駅と呼ばれるようになっていったようです。
ちなみに、「私鉄は梅田駅なのに、なぜ国鉄は大阪駅なのか」という論争は昔からありましたが、一応、現在のところJR西日本さんの公式見解としては、大阪の玄関口であるので大阪駅と呼称しているとされています。

梅田は、近世まで田畑しか無い地でしたが、この大阪駅の登場で、鉄の時代に入り、そして今では大阪の玄関口として1日あたり、約70万人の乗降客数を誇る、西日本最大の駅となっています。


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玉姫稲荷神社の例祭と御朱印

2024年05月01日 | 日記

令和5年から授与を開始しました、茶屋町の綱敷天神社御旅社の境内末社、玉姫稲荷神社の御朱印を、好評につき本年も5月3~5日限定で授与致します。

そもそも玉姫稲荷神社(玉姫社)は、女性守護の神様といわれ、梅田に住まう女性、働く女性、縁ある女性方を中心に尊崇され、また芸能上達、良縁、商売繁盛、そして子供たちを疫病からお守り下さる神様として信仰されています。

その例祭日は5月5日で、通称「玉姫祭」ともいわれ、午前11時からの神事に加え、同日には神牛像への花飾りを施す倣いがあり、これは江戸時代に梅田で行われていた「梅田の牛の薮入り」という行事の名残と考えられており、梅田の民俗風習上、重要な神事でもあります。

授与致します御朱印には、社号の揮毫に加え、
大阪を中心に活躍するイラストレーター「舛田善信さん」の手による当宮ゆかりのお花の絵と、
女性に向けた広告で定評のあるグラフィックデザイナーの「釣井裕紀さん」の手による玉をイメージした印面となっており、大変華やかな御朱印です。


期日 5月3日~5日 (3日間のみ) ※6日はありません

時間 午後1時から午後5時まで

場所 大阪市北区茶屋町12番5号 綱敷天神社御旅社内

授与枚数 100枚
      5月3日 上限25枚
      5月4日 上限25枚
      5月5日 上限50枚 

初穂料 1枚500円 (書き置きのみ)

 

注意事項

  ・御本社、御旅社、歯神社の御朱印も
   通常通り授与します(待ち時間発生します)
  ・5月6日は玉姫社の御朱印の授与はありません。
  ・授与は先着順です
  ・事前の取り置きは出来ません
  ・お一人につき一枚の授与です
  ・授与は3日間のみです
  ・転売禁止です

その他

  ・玉姫社の例祭は5月5日11時からです。ご参列自由です。
  ・玉姫社、神牛像へのお花のお供えは、花束状のものですと
   暑さで萎れますので、小さなアレンジメントなど鉢状のものか、
   設置してあります榊立てに差し込む程度のものでお願いします。
 
  



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与謝蕪村の菜の花の句 250年

2024年03月23日 | 日記

安永三年(1774)3月23日、京都東山(諸説あり)において、連句の会が開かれ、そこで俳人の与謝蕪村が「菜の花や 月は東に 日は西に」という有名な句を詠んでから、今日でちょうど250年(註1)となります。

この句については、俳人の高井几董が残した『続明烏』や『宿の日記』に3月23日に、即興で作られた「春興二十六句」の発句として詠まれた連句(註2)である事が記されています。

一面に広がる菜の花畑、その東にはお月さまが出て、西には夕日。

この風景を詠み込んだ写生的な名句ですが、万葉集の柿本人麻呂の歌や、与謝蕪村の母方郷里の丹後地方の俗謡などを組み込んでいるともいわれ、非常に高度な俳句とされています。

この菜の花の句ですが、一説には与謝蕪村が生まれた、大阪市北区の東北角あたりにあった、毛馬村の淀川堤防から見た、菜の花咲く茶屋町の風景が原型であったともいわれています。

当時は、堤防の上に登って西の方を向くと、ちょうど、茶屋町付近の菜の花畑が一面によく見え、さらに東には月、西には日と、まさに菜の花の句のような風景が広がっていたと思われます。

その光景が強烈に目に焼き付き、幼い与謝蕪村の心の原風景としてあったのではないかとみられています。

また与謝蕪村はこの句を詠んだ3年後に、「春風馬堤曲」という俳詩を発表しており、その内容が故郷の毛馬村への郷愁の念を込めて詠んでいる事から、この時期、老境に差し掛かっていた蕪村は、故郷への思いを強めていた可能性が高く、この句会でもその時の思いが菜の花の句として現れたのかもしれません。

今回、この250年という節目の日を控えた3月22日。当宮神職が与謝蕪村の眠る京都 金福寺に、個人的にお参りして、茶屋町産の菜の花を墓前に捧げてまいりました。この菜の花は地域の皆さんがお育てになられた菜の花で、茶屋町のお花屋さんであるフロリストメリーさんにお願いして墓前用に仕立てて頂き、金福寺さんにお供えの許可を頂いた上で捧げました。

菜の花は古来、ささくれる心を穏やかにするチカラがあるといわれています。蕪村も郷愁の念とともに、心穏やかに茶屋町の菜の花に思いを馳せていたのかもしれません。

 

写真①
茶屋町の梅田芸術劇場前にある与謝蕪村の句碑。今年も地域の皆さんが育てた菜の花で彩られています。

写真②
京都 金福寺にある与謝蕪村のお墓。茶屋町産の菜の花を、フロリストメリーさんにお願いして墓前花に仕立てて頂きお供えさせて頂きました。(金福寺さんの許可済み)

写真③
与謝蕪村の故郷、毛馬村のあったあたり。現在の淀川大堰があるたりです。

写真④⑤
京都東山の将軍塚からみた、月は東に日は西に

 

※註1
当時は旧暦ですので、今の暦に直すと、この句が詠まれたのは、恐らく新暦の5月3日になります。この時期ですともう菜の花も散っている時期です。(ですので菜の花の句は与謝蕪村が想像をめぐらして詠んだ句であり、幼い頃に見た茶屋町の菜の花を詠ったものとみられています)
しかし、せっかくの菜の花の句ですので、今回、5月ではなく、菜の花咲く、新暦3月23日に寄せて投稿いたしました。


※註2
連句とは上の句と下の句を別々の人が詠むものです。この菜の花の句の場合、
発句
 菜の花や 月は東に 日は西に
             与謝蕪村
脇句
 山もと遠く 鷺かすみ行く
             三浦樗良
と、与謝蕪村と三浦樗良の二人によって詠まれています。


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