綱敷天神社 禰宜日誌

大阪梅田の綱敷天神社のご案内ブログです

亥の子餅と梅田

2020年11月16日 | ノンジャンル
今日は旧暦10月初亥の日です。

古来この日には亥の子餅を食べる習わしがあります。
亥の子餅とは、餡を求肥で包み、うり坊(イノシシの子供)に見立てた形から亥の子と呼ばれる和菓子です。

少なくとも貞観年間(9世紀中頃)には記録に見られ、源氏物語にも登場するなど日本でも有数の由緒をもつ和菓子です。

なぜ今日、そんなイノシシの形をしたお菓子を食べるのでしょうか。
それには、実は梅田の古いお話が関わっています。

古事記、日本書紀によれば、古墳時代の第15代天皇、応神天皇さまがまだ赤ん坊の頃に、腹違いの兄弟である、忍熊王、香坂王の2皇子が応神天皇を亡き者にしようと企んだ事がお話のはじまりです。

その際、2皇子は事の成果の可否を占う為に、「菟餓野(兎我野)」の地で、狩りをして良い獣が獲れたら大吉、獲れなかった凶として、戦の吉凶を占う事にしました。これを「菟餓野の誓約(うけい)」といいます。

しかし結果は、飛び出てきたイノシシに香坂王が殺されるという大凶で、結果、忍熊王も敗れて、応神天皇側が勝利しました。

この事で、イノシシに命を助けられたと感じた応神天皇は、毎年亥の月亥の日に吉例として供御を行うようにと命じた事が、亥の子餅の由縁と伝えられています。

この誓狩が行われた菟餓野の地については、実際には諸説ありますが、梅田は当時の地勢から考えると、菟餓野の地の最有力候補といわれており、誓狩のイノシシの話は古代の梅田であった可能性が高いといわれています。(ちなみに日本の記録上、動物としてのイノシシが登場するのはこの時が初めてです)

つまり、梅田は亥の子餅の縁の地ともいえなくありません。

亥の子餅そのものについては、最も由緒を伝えているのは大阪府豊能町の木代村、切畑村、大円村の3村のものが有名で、江戸時代には宮中への献上行列が名物となっていました。

もし今日の初亥を逃してしまった方は、二ノ亥の日(11/28)、三ノ亥の日(12/10)もありますので、その折りに亥の子餅をお召し上がりになられるのも良いかもしれません。

余談ですが、この初亥の日はコタツを出す日とされており、いよいよ冬がやってくる時期とされます。これから段々と寒さが増していき、また新型コロナの問題もありますので、正念場の冬となるやもしれませんが、亥の子餅などを食べて滋養をつけて、これからの冬も元気に過ごしましょう。



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