北原怜子さん 1929年8月22日生まれ
1949年11月1日 洗礼を受ける (20才 修道女になろうとした北原は肺結核になり、断念
1950年に浅草にある姉の家に転居した際に、“ゼノ神父”ことゼノ・ゼブロスキー修道士(コンベンツァル聖フランシスコ修道会)と知り合う (21才
・・ゼノ修道士は北原怜子さんが着物の帯にロザリオを留めていたのを見て声をかけ、その後会うごとに蟻の町の子どもたちの話をし、北原怜子さん自身何かに導かれるように、廃品回収(バタ屋と呼ばれる)の集落へと引き寄せられていった。
結果、修道女生活よりも過酷であった奉仕活動に身を捧げる事となった?
この経緯は、運命とも言えるものかもしれないなぁ、とも思えてくる
・・ゼノ修道士は、北原を自宅まで送って行くと皆に告げ、彼女を連れ出した。それはゼノ修道士が北原に、帰りの道すがら、土砂降りの雨の中を蟻の街の横からバ タヤの人々などが暮らす集落を見せるためであった。その時の印象を北原は、日本の首都の真中と信じることができなかったと自書に書いている[8]。
・・自宅に戻った北原は送ってきたゼノ修道士をそのまま自宅に招いた。ゼノ修道士はいつも持ち歩く貧困者に関する新聞報道、写真、手紙等の資料を北原に見せ、貧困者たちの惨状を熱く語った。 そして暇があったらこのような貧困者たちを慰問して欲しいと言い残して帰宅した
ゼノ修道士は、北原怜子が肺結核を患った事を知っていなかったのかも知れない?
そして、アリの町というものも、幾人かの人物が関わっており、
それらの人間の思いとその人達のキリスト教への不信感、
北原の健康状態の事、マスコミとの関連、敷地の問題等など
北原怜子さんは、それらに巻き込まれ、自身は清廉潔白なキリスト教徒であろうと孤軍奮闘し
しかも、自分が命をかけて行おうとした事が、他の人でも代わりができると知った挫折感
自分がやらねば、と命をかけてきた事への虚しさ、と、その自分自身の中にあった驕り?に気付き
これは、複雑な問題で一刀両断に何かを結論付ける事は無理そうです
言える事は、事は全て北原怜子さんに取って、死への向かう道筋がつけられていたという事かも
やっぱり「こうあらねばならない」と突っ走った北原怜子さんの
自分の身体を顧みない奉仕活動が、死という悲劇を招いてしまった
そして、そこに至るまでの周りの人達も、それぞれにその立場では必死だったのかも知れない
ですが、やはり度を超した自己犠牲は、何とも痛ましく、心が痛みます
そして、何故度を超した自己犠牲へまで行かなければならなかったのか、
そこに他者との行き違い、みたいな物が含まれていたのです
追い込んだ方には、追い込んだという意識はない(アリの町の人の一人です)
受けた方は真剣に考え、より良くあろうと身にそぐわない無理をした
ところが、無理に無理を重ねた自己犠牲は、ある意味空回りでもあったわけで
その事に気づいた北原さんは、大変辛かっただろうと思います
でも、彼女はそれを自分の「傲慢」と取り、尚自己反省の糧としてしまった
キリスト教徒って、そんなに清廉潔白でなければいけないのですかね?