アメリカでは、その代表の大統
領がキリスト教徒なので、それに
則って祈りをささげている。
たいていの歴史ある古い国なら当
たり前の行為だが、そういう意味
では日本の政治とは、根無し草。
中国人は、お金の信者としては、
他国に土足で踏み入ってもお構い
なしで余程徹底しているし、その
他アジア圏は、イスラムなりヒン
ズーなり仏教なりで、自分達の立
ち位置を自国にいる限り弁えてい
る。足蹴にしたら殺される。
誰の指図なのか皇室批判を続ける
者があるが、世界の王侯貴族や富
豪と言われる家系と言うのは、日
本人が思う以上に伝統や格式や歴
史と言うものを大事にしているし、
そういうものの維持とは辛いもの
でもあるが、やはりそれらは良い
物事だから残っている。
ヨーロッパやロシアの宮殿や、王
侯貴族のお金で栄えた芸術は、自
分達が毛嫌いする差別の象徴なの
に、現代人は、それ以上のものを
作ることさえできないというのに
それらを使ってお金儲けしてもへ
っちゃらなのね。
日本も同じで、法隆寺や日光東照
宮や姫路城以上のものは作れない。
せいぜい高みに上って、見下ろす
ことで満足していて、金持ちは妬
みを畏れてこそこそし、貧乏人は
どこまでも厚かましい。
さて、中年以降の人生をどういっ
た価値観で生きようかと模索して
いる。
偉い作家とか博識のある人物の著
作は、ある意味難しくて思考する
には良いと思うが、何か重怠くて、
それ程必要性を感じないし、無駄
な背伸びのようにも感じる。
昔から、禅のような哲学的なもの
は、庶民とは一線を引いたところ
のもので、いまだ読んだことの無
い西欧の古典文学もそうだと思う
が、人の上に立つべき人材の読む
べきものかと思われる。
時代の再考という意味で、近代の
文学作品を読んでいるが、人様の
裏の裏の裏まで掘り下げるような
考えは、そもそも性には合ってい
ないし、そういう人達が、実生活
では不幸で、両翼的で、内向的な
のに攻撃的なのも親しみを感じさ
せない。
物事をできるだけ難しく遠回しに
掘り下げて考えようとする人は場
合によっては必要だろうが、自分
には無理な話。
だから、近代文学には深入りせず、
併せて日本的で普遍的な万葉集を
学び始めた。
漢字の大家である今は亡き白川静
氏は、初期万葉論で「共同体の秩
序が不安定のものとなり、生への
不安が高まるにつれて、人々は自
らの歌を欲するようになる」と言
っているが、思わず笑ってしまっ
た。まさに、昨今はそういう状況
になっているじゃないか。
その昔、暴徒と化した左翼青年も
白川氏の前では大人しかったと言
うから、人物として認められてい
て、尚且つ長寿をも全うしている。
人間は、もっと生に純粋で野性的
で厳しく、情のある時代の価値観
でないと心が定まらないのではな
いか。
万葉集とは、司祭中心の貴族、領
地を守る豪族、戦地に派遣される
防人、芸人、農民、名も無き者の
歌が、纏められたもの。
1000年以上前の様々な渡来人
と原住民たる縄文人とその合いの
子たちの思いが伝承されたものこ
そ、日本人の持つべき価値観のよ
うに思われる。
ではでは。