「ひでぇ星だったぜ……。」前の席の角刈り頭が、そう呟く。
僕は窓の外の、はるか下の地面が遠のいていくのを、ただ眺めていた。
ひとが、死ぬことなしに、生まれた星を離れられるようになったのは、つい昨日の話のように思える。
星系内の他の惑星で、開拓の仕事をするという、冗談のような求人を公共職業安定所で紹介されてから、再利用可能な宇宙船ができあがり、それに乗船するまで、二年も経たない。とりあえず月で研修してから、隣の惑星に行くそうな。
「よぅ、おまえは何で志願したんだよ。」前の席の角刈りが、ヘッドレストと壁との間に顔半分を突っ込んで、ギロッと、目玉だけで睨んでくる。
「ひっ!」と、思わず声が出て、僕は体が椅子にメリ込むくらいその目玉から逃げて、「職安……」とだけ言った。腹にベルトが食い込んで痛い。
「職安!」角刈りは、すき間から顔半分を引っこ抜いて、モロ手をあげて大声を出した。船内が静まり返る。
ほぼ全員の目線が僕に刺さる。僕は椅子に埋もれてしまいたいほど体をちぢこませて、いつものようにギュッと目をつむる。「だからこの星の奴らは嫌なんだよ……。」壁に口づけするほど顔をそむけて、僕はそう呟いた。しかし、それも一瞬。
船内はザワメキを取り戻して、もう僕の存在を忘れている。前の席の角刈りは、隣の奴と、ちからコブの見せ合いを始めた。
「どこかの軍人さんかな?」僕は溜め息をして、椅子から浮かび出る。この感じ。この空気が、僕をここに居させる。言ってしまえば、雑多な連中の集まり。ここへ至った経歴も、年齢も国籍も、ここでは「ふーん」で済んでしまう。
急に船内の照明が落ちて、ザワメキが止む。みな、窓の外や、正面の映像を見つめている。窓の外、ずっと下のほうで、地表はもう鮮明さを失い、茶色と緑色と青色と白の塗り絵になっている。もう二度と、この景色を見ることはない。
シューっと、かすかだが、聞きなれた音をとらえて、僕はそのための姿勢に直る。間もなく眠くなり、深い吐息をして、記憶が途絶える。最初の夢は、子供のころ、町内の子供らと、ケイドロをした場面。
「おまえがトロいから、またドロじゃん。」耳元で、ガキ大将の大声がした。
「ごめん……」と、僕は泣く。縁石に座って、体をちぢこめる。ゲームは僕抜きで再開して、楽しそうな子供らの様子を、僕はただ見ていた。あそこに、僕の居場所はなかったなぁと、僕は思った。最初の夢はそこで終わり、次の夢が始まる。
誰か大人が、僕の植木鉢を、ポイと投げ捨てた。土しか入ってないようだから、その扱いも仕方がない。横倒しになって、雪崩出た土の中に、やっと根を出したカボチャの種があることを、僕は誰にも言わずにいた。あれを号泣というんだなと、僕は思った。あの時は、本当に悲しかったが。すでに車の中にいて、そこから出ることを許されなかった僕には、なす術もない。懐かしい家。幸せだった家。あの家に帰ることはなかったな。夢はそこで終わり、次の夢が始まる。
何の集まりだろう。大学のコンパかな。古びた部屋に、ギュウギュウに机が詰まって、みんなでガヤガヤ騒いでいる。
「ひとーーーつ!」と、間延びした大声が、僕のうしろで始まる。
「よぉー!」みんな喝采。グラスをかかげる奴、から揚げを箸で持ち上げる奴、ビローっと焼きそばを引きのばす奴もいる。
「剣道部所ぞーく!春季大会第さーーーん位!」間延びした大声は続く。
「おぉー!」みんな拍手。頭の上で手を叩く奴。机をドンドンする奴。
「伝とぉーーと栄こーーぅの!しば!うえ!たに!よん!きょう!ぞーく!」みんな大笑い。何言ってるのか分からんが、あれは楽しかったなぁ。あのあと焼きそばにあたって、みんな寝込んだんだっけ。
ズキッと、頭に激痛が走って、僕は目を覚ます。
「この頭痛だけは慣れん。」前の席の角刈りが、無い髪の毛を片手でかきむしる。「ふぁー」と、両手をうんと伸ばして、あくびをする。
角刈りはあれから、まったく、僕のことなど忘れたふうだ。ありがたいと、僕は思った。体が、ゆっくりと、後ろへ回りだす。間もなく、着陸するらしい。
ザザッと、船内のスピーカーから音が出る。「当機は着陸態勢に入る。諸君の自主性に期待する。」プツンと、それだけ言って、スピーカーは黙った。パイロットは乗っていない。代わりに、自動操縦のプログラムが走っている。
ゴォーッという逆噴射の音が始まり、宇宙船は、重厚なハッチを、規定通りの間隔と速度とで通過する。このハッチが閉まれば、もう空を見ることもない。
逆噴射の音が止まり、船内のあちこちで、ガチャリと、シートベルトを外す音がする。ハッチの内部に空気が満たされるまで、みな、船内にとどめられる。全員が居住区に入ると、この船は自動で飛び立ち、次の旅団を迎えに行く。
「誰もいねぇな。」前の席の角刈りが、窓の外を眺めて言う。「逃げ出したい奴は、いないらしいな。」角刈りは、ヘヘッと笑って席を立ち、後方のハッチへと歩き出す。荷物は先に、それぞれの部屋に届いているはず。
僕は座席の肘かけを、名残り惜しく撫でて立ち、後方のハッチから並ぶ列の最後についた。誰も、僕も、自分の後ろを見ない。
列の前方で、シャーッと、ハッチが開く。無味乾燥だが、新鮮な空気が流れ込んでくる。みんな深呼吸している。おそらく、新天地なんて、誰も思ってやしない。出社する感覚。それだけ。
カンカンと、軽い金属音のする廊下を歩いて、言葉もなく、自分の番号の部屋へと散っていく。個人のスケジュールは、その部屋の机の上に、すでに用意されてある。あの角刈りと出会うことも、もう無いだろう。
扉は僕を認識して、音もなく開いた。これからここで、僕は暮らす。コンクリート打ち放しの、寒い部屋だろうと思っていたが。ホテルのダブルベッドの部屋のようだ。
なんと、窓がある。思わず歩み寄って見れば、どうやら中庭が見渡せるようだ。窓は開かないが、眼下に広がる果樹。川まで流れている。小鳥もいるのか。
窓枠に、スピーカーが埋まっているのに気がついて、僕はスイッチを押した。ボリュームを上げると、かすかに水の流れる音が聞こえる。時折、小鳥の鳴き声も聞こえる。わずかにエコーがかかっているから、中庭も天井で覆われているのだろう。
しばし景色に見とれていると、ピピッと、机でアラームが鳴った。スケジュールはもう、始まっているようだ。机の天板を兼ねたディスプレイに、「入浴」、「昼食」、「採血」の文字が浮かぶ。それぞれの文字の隣には、完了のボタンがある。完了以外のボタンは無い。どこへ行けとも言わないから、始めは座学なのだろう。
湯船に体を沈めるのは、久しぶり。ずっと、シャワーだけだった。それも、シャワー室のある場所がとれればの話。朝早く起きて、遅くまで現場で働く毎日。食いつなぐだけの毎日だった。
思わず長湯してしまって、気まずい思いで完了のボタンをタップする。トイレの手前の、洗面所の明かりが自動でついて、ピピッと、そこのアラームが鳴る。洗面所の脇の台に、せりあがってきた昼飯を見て、僕は驚いた。ビニールに包まれた、そっけない保存食一式だろうと思っていたが。ホテルの朝食並みだな。パンにバターにジャムに目玉焼き。サラダとドレッシング、グラスにつがれたジュース、牛乳、コーヒーまである。
「ここで作っているのか!」僕はうなった。合成食品ではなく、まぎれもない、栽培された野菜、加工された肉。これは、どういうメカニズムなのかと、僕は食べながら空想していた。原理は、宇宙船に乗る前に、ひと通り教わりはした。それが実際、機能しているとはな。
トレイを持って、机で食べようと思ったが。台に固定されている。ここで食えということらしい。机からビジネスチェアを引いてきて、座る。まあなんて、久しぶりの晩餐だろう。コショウと塩が欲しいところだが、この際、贅沢は言うまい。
ウキウキで完了のボタンをタップすると、ふたたび、洗面所のほうで、ピピッと、アラームが鳴った。さっき、昼食が乗っていた台に、採血用の小さな器具が乗っている。指の先に当てると、自動で針が出て、少量の血を採取する。宇宙船に乗る前に、何度かやった。チクリとはするが、血はすぐに止まる。これも、台に固定されていて、指のほうをあてる方式らしい。
机に戻って、完了のボタンをタップしたが、続く指示は出ない。今日のスケジュールは、これだけということのようだ。
とりあえず、ベッドにもぐりこむ。なかなか心地よいが、カビ臭く汚れたベッドに慣れた身では、戸惑いのほうが先に出てしまう。
僕の荷物は、何もない。衣類一式は支給される。あそこから持ってこようなどと思うものは、何もなかった。枕の上には、いくつかスイッチがある。カーテンの開け閉め、照明のオンオフ、空調まである。このスイッチは?。押すと、天井がなくなった。どうやら、ベッドの上の天井は、一面のディスプレイらしい。中庭の照明に連動した、空の風景が映し出される。窓枠のスピーカーの音が、実感を添えてくれる。
旅の疲れだけでは説明できなさそうな疲れで、僕はすぐに、ウトウトしだした。「病院みたいだな。」不明瞭な意識のなかで、僕はそう呟く。記憶にある、唯一、安らぎを感じた場所。現場の事故で救急搬送されて、気づけば、体中に管が差し込まれていた。一週間くらい、意識不明だったそうだが。病院にいたときは、涙が出るくらい、初めての、安らかな気持ちだった。あれがなければ、この求人に応じることもなかったな。
目を覚ますと、夜になっていた。中庭の照明で、二十四時間を演出する仕組みのようだ。アナログの時計を持ってくればよかったなと、今更に思う。デジタルばかりのこの部屋に、アナログの時計でもあれば、ぬくもりを感じるだろう。
机のディスプレイは、天板を兼ねているので、立てることができない。ベッドからは位置的に、画面を見ることはできない。なかなか上手くできているなと思う。ひょっとして、天井のディスプレイに表示されるのかと思ったが、そんなことはなくて。あくまでも天井か、または、空の景色を映すだけだ。ピピッとアラームが鳴る以外は、スケジュールの存在を意識させないつもりらしいな。
「しかし、あまりにも……」僕は呟く。あまりにも、良すぎるのではないか。これまでの経験が、何かあるぞと僕に警告してくる。どんな研修が、始まるのだろう?。いつまでやるのだろう?。あの肉は、何の肉だろう?。
ピピッと、机でアラームが鳴る。「夜に?」僕はベッドを抜け出して、机の前に立つ。「睡眠導入剤」の文字の横に、「要」、「不要」のボタンがある。不要のボタンがあるなと、僕は思った。「要」のボタンを押してから、あの頭痛を思い出して凹んだ。続いて、ベッドに入るよう指示が出る。シューという、聞きなれた音が聞こえて、僕は眠りに落ちた。
夢の中で、僕はどこかの岬の突端にいた。足元から吹き上げてくる、潮の香り。霧が立ち込めるなか、赤と白とに塗られた、ひとつの灯台が、彼方へ一筋の光を投げている。どこだったか。いくつか思い当たる場所はあるが、判然としない。けれども、そこへ行った目的は、同じだった。とどろく波の音におじけて、夜明けまで、そこに座っていただけ。この求人に応じたのも、同じ理由だなと、僕は思った。
ズキッという頭痛が走って、僕は飛び起きた。ピピピピと、目覚まし時計のようなアラームが、机のほうで鳴り続けている。それが頭に響いて、両手で顔をこすりながら、ベッドを出る。
「起床」の文字が、机のディスプレイに出ている。僕は片手で顔を覆って、指の間からディスプレイを見下ろし、起床完了のボタンをタップする。続いて、「身支度」、「端末持出」の指示。しかし、時間の指定は無い。常識の範囲内で、ということだろうか。
朝シャンの趣味もないので、昨日の上着を着て靴下をはき、汚れたままの靴をはいて、身支度完了のボタンを押す。カシャッと、机の引き出しが少し出る。引き出して見れば、スマホがひとつ。手に取ると、「場内見学」の文字が現れた。しかしこれにも、時間の指定は無い。
「どういうこと?」僕は不安になる。初日だからだろうか。いや、初日ならなおさら、今にも部屋の扉が開いて、「17号出ろ!」とでも、言われるのではないか。
僕は身構えたが、しかし、誰も来ないな。窓枠から流れる、川のせせらぎ。太陽はとっくに、始業時間を過ぎ越して昇っている。ボヤボヤしていていい時間ではないが……。
部屋の中を見回してみるが、本棚のようなものは、見当たらない。ルール・ブックとか、ないのか?。机に戻って、天板を兼ねたディスプレイを、あちこちと触ってみる。キーボードはおろか、カーソルすらも出ない。ただ相変わらず、「場内見学」の文字だけが、表示されているだけ。
このまま篭城してみるのも、いいかもしれないと、僕は思った。思いはしたが、しかし、この建物への興味のほうが勝ってしまうのは、悲しいサガだなと、つくづく自分でも思う。
「そうだ。端末……。」胸ポケットから、スマホ型の端末を取って、画面をあちこち触れてみる。サイドにあるはずの、ボタンや穴はない。裏面はのっぺらぼうだ。画面には、机と同じに、「場内見学」の文字があるばかりで、ほかには何も出ない。ほかに持参するものもないし。
「中庭、行けるのかな?」地図くらい見たいなという気持ちで、僕は手にした端末に、なに言うともなしに言ってみた。「シカトかよ。」期待はしていないが、実際、何も出ないと凹む。端末は胸ポケットに仕舞ってしまい、歩きたいほうへ歩くことにする。
部屋の扉は、何の抵抗もなく開いて。そして、誰もいない。靴音も話し声もない。床と壁面との境には、こなたから彼方に至るまで、薄青い間接照明が植わっている。サイバーな雰囲気。いかにも最新という感じ。
カン、カン、という軽い金属の足音をさせながら、僕はとりあえず、昨日きた方向と、同じほうへ歩いてみる。ハッチから散り散りになった僕らは、誰も誰かのあとを追うことなく、ひとりっきりで散っていった。僕も僕の部屋まで、僕だけが歩いてきたし。だから同じほうへ歩いていけば、ずっとひとりでいられるだろう。
カン、カン、という軽い金属の足音を聞きながら、僕は思った。窓から見た中庭は、相当な規模だ。宇宙船に乗っていた人数と、この中庭の大きさ。たぶん、この道は、ハッチと中庭とを、つないでいるだけだろう。
見れば、行く手の先で、薄青い照明が途切れている。振り返れば、道は緩やかに弧を描いていて、まだそんなに離れてはいないはずなのだが、しかし僕の部屋の扉は見えない。通勤してる感じ。バスの窓から、遠ざかる自分の部屋の窓を、悲しく見ていた。そんな記憶。
薄青い照明が途切れたところからは、道の幅はそのままで、天井だけ斜め上にあがっていて、その先には、やはり、ハッチがあった。僕の背後で、スッという、かすかな音がして。振り向くと、来た道は、扉で閉ざされていた。
そして今度は、斜めになった天井から、真昼のような明るさが、その強度をゆるりと増しつつ、この空間を満たしていく。
静かなブウンという、ファンの回る音がして、嗅ぎ慣れた土のにおいがする。都会の、枯れた土のにおいじゃなく、田舎のドカタで嗅ぐにおいだ。光に目も慣れた頃合い、わずかにゴロゴロという音をさせて、道の幅のままではあれ、ハッチが大きく、上へと引き上げられた。途端に僕を覆う湿気。
「何か、ハエ?」僕の耳元を、何かが飛び去った。小鳥のさえずりが聞こえる。見上げれば、はるか上には、やはり、天井らしきものがある。うまく塗装はされているが、無数のダクトや換気口を見てとれる。
僕の背後で、ゴロゴロとハッチが閉まる。と、ハッチの両側に、細いすき間が開いて、そこからかなりの勢いで、内側の空気を排気しだす。ブウンと、さっきのハエの羽音が、僕の耳元をかすめていった。
ピピッと、胸ポケットのスマホが鳴る。取り出して見れば、画面に「斉藤さん」の文字。行方に目を向ければ、確かに誰かが、こちらへ手を振っている。
「斉藤、さん?」僕はスマホの画面を相手に見せる。小柄な斉藤さんは、首にかけた手ぬぐいで顔を拭きながら、ウンウンと、僕にうなずいてみせる。
「ここへ来るまで、大変だったでしょう。」にこやかに話す斉藤さん。ここへ来るまでという部分に、実感がこもっている。
「ええ、まあ。」ひとよりも、まだ見足りない景色のほうへ、僕は視界を持っていかれる。斉藤さんは、そんな僕の様子を見て、微笑んでいる。
「あなたよりも、四つ前の便で、私はここへ来ました。」と斉藤さん。僕は、えっ?という顔をして、斉藤さんの顔を見る。
「四つ前……。一年と少し前ですか。」現場主任とか、教官とかだと、僕は思っていた。
「私も、そんな顔をしてたんでしょう。」斉藤さんは、道端にしゃがんで、草取りの続きをする。「ここには、指導教官のようなひとは、いません。研修を終えたひとたちは、みんな、隣の惑星へ行ってしまうから。」それきり、ベルトに下げた、根切り用の、先が二股になった棒をとって、斉藤さんは、黙々として、作業を続ける。
気が引けたが、僕はどうしても、聞きたいことがあった。「ルール・ブックとか、ないんですか。」
「ないです。」と斉藤さん。即答だった。「私も、来た時分に探しました。ここには、ルール・ブックはおろか、法律も、警察もありません。ただ、不適格な者は、送還されるみたいです。私と来たひとたちは、一週間経たないうちに、半数になってました。」
ピピッと、スマホが鳴る。手に持ったままなのを忘れていて、僕は空の胸ポケットを見、周囲を見回してから、ようやく、手元のスマホに気がついた。慌てて画面を見ようとしたところ、ちょうど、ズボンのポケットからスマホを出した斉藤さんの姿が目に映った。
「用意ができたみたいです。行きましょう。」タオルで顔を拭きながら、斉藤さんはもう、スタスタと道を歩き出す。僕は言葉もなく、スマホを胸のポケットに仕舞った。それをポケットの上から触ってみて、改めて存在を確認してから、だいぶ先へ行ってしまった斉藤さんの背中を、僕は追いかけた。
「あとからゆっくり見られますから。」微笑む斉藤さんに諭されて、僕は歩きを早めて、斉藤さんに追いつく。行く手に、丸い天井のかかった、幅の広い螺旋階段があり、地下へと降りられる仕組み。掘削した当時の穴の形状そのままなのだろう。
「最初の何段か、滑りますから。気をつけて。」斉藤さんに倣い、僕も手すりをしっかりと握る。思わず胸ポケットに片手をやって、安心する。
ぐるりと一周して、中庭からの光が薄れた辺りから、廊下の薄青い照明が始まる。二周目に踊り場があって、同様に高いハッチが開き、僕らは中へ入った。螺旋階段は、その先もずっと続いている。
ハッチが閉まると、その脇の細いすき間が開いて、僕らは、猛烈な旋風に巻かれた。僕は思わず身構えたが、しかし斉藤さんは慣れたもの。薄い髪の毛から上着からズボンから、旋風のなかでバサバサとはためかす。上着などは前を開けてしまって、旗みたいにあおられている。しかしいまだ、旋風は止まない。
斉藤さんは気づいて、僕のほうへと歩み寄り、耳元で教えてくれた。「ホコリや虫が飛んでしまわないと、この風は止まらないんです!あなたも私のようにやってください!あっ!上着、脱がないで!飛んでいってしまいますから!」
ようやくにして旋風が止み、二人とも、寝起きの髪のような格好になって、半ば放心状態でいると、今度は足元へ、早瀬のように水が流れだした。僕の靴など、見る間に、水浸しになるくらいの量。僕ひとりでバシャバシャ慌てている。斉藤さんは慣れたもの。両の長靴を互いにすりあわせて、ついた泥をうまく洗い流している。水は間もなく止んだ。バシャバシャやった甲斐があったんだろう。
「この先で長靴もらえますから。靴下ももらえます。」にこやかではあるものの、笑いはしない斉藤さん。たぶん、自分も同じ目にあったんだろう。
廊下への扉を入ってすぐ、ピピッと僕のスマホが鳴る。「二番」とだけ、画面に出ている。斉藤さんが指をさす。その先を見れば、壁に方形の線が入っていて、その枠のひとつに「二番」の文字が出ている。
斉藤さんが、向かいの壁の「一番」をタップすると、そこがパカンと上へ開いて、斉藤さんはその中へ、汚れた軍手と道具一式とを預ける。
僕も倣って「二番」をタップする。パカンと開いたその中には、横に置かれた長靴と、靴下と、手ぬぐいとが入っていた。濡れた靴と靴下と、拭いた手ぬぐいとをそこへ戻して、新品の長靴をはく。長靴ではあれ、新品の靴なんて、久しぶり。
見れば斉藤さんが、スマホを出すように、身振りで教えてくれている。自分のスマホを出して見れば、四角いバーコードが表示されている。「その日のスケジュールは、スマホが教えてくれますから。」と斉藤さん。
短い廊下の突き当たりにある、扉の脇の壁面に、黒い線で四角く囲われた部分がある。斉藤さんがそこへ、スマホの画面をかざすと、スッと扉が開いた。「電波でやればいいのに。ここはみんな、バーコードを読ませて出入りします。あなたも読ませて。でないと、すごい勢いで扉が閉まるから。クセつけとかないと、病院送りです。」
怖いな、と思いながらも、なるほどこれが、ここのルール・ブックだなと僕は思った。音もなく開閉するこの扉。ということは、十分に余力のある動力に、つながれているということだろう。病院送りで済むのかしら。
先を進む斉藤さんに、半ば冗談のつもりで、僕は問うた。「ここに墓地はあるんですか。」
「ないです。」これも即答。「ここへ来た日が誕生日で、ここを去る日が命日みたいなものですよ。」独り言のように、斉藤さんは言う。なるほど、わかりみが深い。
さっきから、実に美味そうなにおいがしている。ピピッと、スマホが鳴る。僕はまた「二番」。通路の壁面に、さっきよりもずっと大きな、ドアのサイズの黒い囲いがいくつかあり、その一番手前に「二番」の表示が出ている。
斉藤さんが「一番」の表示をタップすると、パカンとドアのように開いて、台に置かれた紫色の手袋が見える。
「中で着替えます。上着とズボンを脱いで、白い作業着と、紫色の手袋と、マスクと、頭にかむる網をつけてください。つけたら扉が開くので、消毒液に、手袋をしたまま浸してから、風のなかを歩いて、先へ進んでください。スマホは、服のポケットに入れてください。」と斉藤さん。
僕は「二番」の表示をタップして、言われたように着替えて、また風にあおられ、先へと進む。斉藤さんはもう待っていて、僕をにこやかに迎えてくれる。
「ここでは、居住者全員の、朝昼晩、三食をまかないます。さっき私がやっていた、中庭の手入れもそうですが、この作業も、全員が持ち回りでやります。し尿の処理から、家畜の世話、回収した衣類やリネンなどの洗濯、発電所の管理、道具の製造から修理、リサイクル、廃棄まで、すべてやらねばなりません。居住区で虫やカビが発生すると、それだけで面倒な仕事が沢山増えますから、中庭のものを、部屋へ持ち込まないでくださいね。これらの作業がない時間は、いつでも、中庭に出られますから。」斉藤さんの話を聞きながら、僕は昨日食べた肉が、ちゃんと飼育された牛の肉だと確かめた。
ぐるりと調理場を歩いて、着替えを済ませ、螺旋階段に向かう通路で、僕は斉藤さんに聞いた。「電力の源は、何ですか。」
「それは、最後に案内しますよ。宇宙服を着なければならないので。」斉藤さんは、事も無げに言う。
「宇宙服?。すると、原子力か何かですか?。」と僕。
「いえ。宇宙線です。月の表面へは出られませんが、監視室から全体を見渡せます。もちろんその役目も、輪番でやります。修理は、規模にもよりますが、住人総出でやることも、あったみたいです。」斉藤さんは、螺旋階段へ出るハッチの前で、僕に、宇宙服の着かたを、そのコツを、ゼスチャーを交えて教えてくれた。
螺旋階段は、頑丈な作りらしく、通路のような、軽い音はしない。それがかえって寂しくもあり。斉藤さんと一緒に降りていることが、心強い。下の階のハッチでは、先の失敗もなくて。新品の長靴に、僕はついぞ、現場では考えたこともない、ありがたみを覚えた。
「この階は、し尿などの処理をするところです。部屋ごとに陰圧になってますから、においはここまで来ないです。」斉藤さんのスマホが、ピピッと鳴る。
画面を見る斉藤さんの顔が、見てとれるほど暗くなる。「ごめんなさい。今日のスケジュールは延期です。事故がありました。あなたは指示あるまで、部屋へ戻っていてください。あなたの部屋へ続くハッチは、スマホが教えてくれます。矢印が出るので、従ってください。私はこのまま、一番下まで行きます。」
ハッチを出て、斉藤さんと別れる。なるほど、スマホの画面に、矢印が出ている。薄青い照明のなか、ぐるぐると螺旋階段をのぼって、中庭に出る。真上からの強い光が、僕におよその時間を教える。
「そういえば、朝飯、食いっぱぐれたなぁ。」部屋に戻れば、何か食えるだろう。そう思うと、歩みも速まる。スマホの矢印に従い、旋風と洪水とを難なくこなして、カンカンと鳴る通路へと入る。僕の部屋の扉が見える。
「おい。」と、ドスのきいた声。ビクッとして、声のほうを振り返る間もなく、僕の肩に、誰かの手がかかる。力づくで振り返らされて、見ればあの、前の席の角刈りじゃないか。
「逃げるぞ。一緒に来い。」言うなり、角刈りは「しっ!」というふうに、自分の口の前に指を立て、通路の前後を、鋭く睨む。自分でも驚いたが、僕はその角刈りの手を、払いのけていた。
「なんだお前!助けにきてやったんだぞ!」角刈りは、今度は両手で僕の両肩をわしづかみ、ガクガクと僕をゆさぶる。「どうしちまったんだ!もうおかしくなったのか?。」座席と壁との間から、ギロリと睨んだその目と同じ目で、角刈りは僕の目を見る。しかし僕は、僕の両手で外側から角刈りの両手をつかみにかかり、持ち上げるようにして、それらを払った。
角刈りは、怒りにうち震えながらも、もはや何も言わず、どこで手に入れたのか、コルク抜きのような金具を通路の床材に突き入れて、その一枚を引き剥がす。そのままストンと、中へ飛び降りた。ほとんど同時に、僕は強力な眠気を感じて、意識を失った。
最新の画像[もっと見る]
- マジで雪のない札幌 6日前
- マジで雪のない札幌 6日前
- マジで雪のない札幌 6日前
- 読書ぶらり 1週間前
- 僕が電気に興味持ったのは 2週間前
- なんでもない日のサッポロファクトリーとか 2週間前
- なんでもない日のサッポロファクトリーとか 2週間前
- なんでもない日のサッポロファクトリーとか 2週間前
- お元気ですか? 2週間前
- 今年も 4週間前