昨日は暑かったですねー。
まだ冷房を付けるには早いと思って、部屋の中では扇風機だけで我慢していたのですが……。
次第に部屋全体を覆ってくるモワッとした蒸し暑さに、すっかりバテてしまい、ZBrushのお勉強があまり進みませんでした。
というわけで。
少ないですが……とりあえず、昨日の作業画像から。
ZBrushの教本では、まだまだ先の工程だったんですが……気が早く、つい顔のディテールを付け始めてしまいましたー。
ついつい、手が勝手に動いてしまって……(笑)。
それにしても日本の怪獣って、海外のモンスターとは違って、顔にどこか愛嬌があるんですよねー。
どこか憎めないという、あの感覚です……。
もちろん、怖い存在として映画・テレビでは描かれるし、巨大感、凶暴さによる脅威も、しっかりと演出されているんですが……。
例えばウルトラ怪獣でいうと。
ゴモラが目をパチパチさせるアップのお茶目っぷり(効果音付き)だとか。
レッドキングの拳をコキコキと音を鳴らせて格闘に臨むヤンチャぶりとか。
ふとしたときに見せるしぐさや表情が、キャラクターとしてすんなり受け入れられてしまうのです。
それは脅威と茶目っ気という異なる要素を共存させても、違和感のなさ、受け手に許容できる範囲の広さを与えられるだけの完成度が備わっているからです。
そうした恐怖と可愛らしさの二面性……それが、日本の怪獣らしさというか、世界も注目する魅力なんだと思います。
故高山良策氏の造られた怪獣には、そうした愛嬌がありました。
造形物としての完成度も高く、その目には「オレは生きているぞ!」と自己主張をしているような目力があります。
また全身の美しいフォルム。
さらに存在感を高めるディテールは、シワのひとつまで無駄がないとまで感じさせてくれます。
加えて、少し踏み込んで書きますと……高山良策氏の怪獣は、かなりの確率で唇があり、それが女性的な色っぽさも内包しています。
実を言うと、ここが東宝怪獣をはじめとする他の怪獣たちとの違いであり、ウルトラ怪獣としての『個性』を確立するのに役立っているのではないかとも思っています。
つまり、誤解を恐れず書くならば、ウルトラ怪獣(とくに高山良策氏の造形)には全身の美しいフォルムを含めて、どこかセクシーさが隠されてあるんですね。
成田亨氏のシュールでパースの効いたデザイン画を立体化された高山良策氏も画家であり、その構成された線をどのように立体化すれば面白いかをわかっておられたと思います。
その造形過程において、上記のセクシーさも加味されていたとするならば、もう怪獣の存在感として無敵ではないでしょうか。
そんなウルトラ怪獣は……どんな意図を持って造られていたのでしょうか?
ここでちょっと、当時の状況を描いた小説の中に興味深い記述(エピソード)がありますので、その部分を引用させていただきます。
====================================
怪獣の縫いぐるみと対面したのは、それから一週間ほどあとのことである。
特撮の使っているステージに入って、平治は飛び上がった。
ステージいっぱいに作られた海岸のセット。
プールの海に上半身を見せて、ぷかぁり浮いていた怪獣ガマラは、成瀬のスケッチにあった迫力をどこかへ置き忘れて、気楽な顔つきをしていたのだ。
鳥肌を催させる気色の悪さなど、どこを探してもありゃあしない。言ってみれば、お人よしの土左衛門という塩梅だ。温泉に浸かってる気分で、ガマラの縫いぐるみはプールに浮かんでいた。
「何だ、これは!!」
ひと目見るなり、思わず平治は叫んでしまった。
手の込んだミニチュアがしっかり作られている分、ガマラは場違いの雰囲気だった。
これじゃ、茶の間には何の戦慄も起きやしない。
女学生だったら、この縫いぐるみを抱きしめて眠りについてしまうだろう。
====================================
……と、いったんここで切ります。
怪獣の愛嬌っぷりが、しっかり描かれてありましたね。
私は読んでいて、ここが思わず吹き出してしまう場面のひとつでした……。
これは「ウルトラマン」「ウルトラセブン」で、独特のカメラワークを駆使して異彩を放ったエピソードを数多く演出された実相寺昭雄監督の視点による、ウルトラマン創世記の回顧録、小説『星の林に月の舟』の中から抜き出したシーンの一部です。
当時の実相寺監督が、どこまで怪獣の着ぐるみに失望されたのか、本当のところはわかりませんが(おそらく小説を面白くさせるための脚色も入っているでしょうけど)、頭の中に思い描いていた造型物への期待度とは裏腹に、実際に見たときの落差はそれなりにあったんだろうと思われます。
それに、怪獣ガマラとは、ウルトラマンにおいて正式名称が「ガマクジラ」のことであり、実際の怪獣の縫いぐるみもコミカルな感じで、呑気なオヤジ風な顔に造られてあります。
おそらく当時、撮影に使われた着ぐるみも直に見ると、派手な色彩で恐怖の存在からは、かなり縁遠い仕上がりだったと予想します。
(これもさらなる推測ですが、その狙いは恐怖よりもシュールさとコミカルを優先した造形とし、フジ隊員が劇中にてガマクジラに腹を立てやすいようにした制作意図があったのでしょう)。
なので、劇中の怪獣ガマラについての表現も、さほど的外れというわけでもありません(と、個人的には思います)。
ただ、面白いのはその次からの会話シーンです。
ここでウルトラ怪獣が、どんな意図や事情によって造られていたかを知る手がかりが、会話の中で具体的に語られてきます。
その続きを、ちょっとご覧いただきましょう。
====================================
ステージの片隅で呆然と立ち尽くした平治に声をかけたのは、特技監督の高田でも、照明の小谷でもなかった。
スクリプトの戸倉則子が彼に微笑みかけた。
「監督、ガッカリしてるんでしょう?」
大きな瞳に優しさを称え、彼に近寄ってきた則子は、平治にとってマドンナのような感じだった。
「初めて特撮ものを手掛ける監督さんって、必ずイメージと現実の物(ブツ)の落差に立ちすくむものなんですよ」
あの大巨匠、円谷英二監督がスタッフの強化に送り込んだことの裏付けがわかるように則子は微笑んでいた。
「さあ、本番行くぞ!」
特技監督高田の掛け声で、ガマラの目に電気が灯った。目が際立つと、余計滑稽な印象だ。
「これじゃあ、美と醜のコントラストってテーマが浮かび上がらないよ……」
平治がつぶやくと、
「でも、可愛らしいから人気が出るかもしれないわ」
と、則子が片目をつむった。
「用意、スタート!」
高田の合図で、プールからガマラは陸地へ這い上がってくる。前足を砂浜のセットにかけたとたん、弾着の火薬が白い煙を吐き、ガマラは大仰にひっくり返って、前後の足をじたばたさせる。
そのさまは、まるで亀といったところ。とても地上に恐怖をもたらす異形ではない。
平治は見ながら、寄席の皿まわしを思い出していた。
「はい、カット、よぉし、次行こう」
高田はスタッフ全体に、次のカメラポジションを示したあと、平治を認めて近寄ってきた。
「吉良さん、どう? 本編のほうは順調?」
「いやぁ、それよりガマラがコミックなんで、びっくりしてたんですよ。もうちょっと、どうにかなりませんか?」
「吉良さん、成ちゃんの絵にごまかされちゃダメよ。成ちゃんは本物の画家だし、おそろしく絵が上手いから、みんなその絵に惚れて騙されちゃうんだ。でもね、実際に人が入って動かなきゃならないわけだから、どうしても絵とはバランスが違ってしまう。おまけに、電池を仕込む場所とかいろんなこと考えなきゃならないから、造形で出来上がってみると似ても似つかないものになってしまう。ガマラなんてまだ良いほうなんだな。この縫いぐるみを渡されると、俺のほうでもああいうコミカルな味付けをしたくなっちゃうんだ」
「ううむ、……なるほどなぁ。でも、なぁ、何とか」
「だから、吉良さんが四つ足の怪獣でいくらすごいこと考えてても、作り物とのギャップで落胆するってことは、これからしばしば出てくると思うな。まっ、つながりは打ち合わせ通りにやってるから、心配しないでよ」
と、高田はカメラを覗きに去ってしまった。
====================================
……と、引用部分はここまでです。
私はここを読んで、ウルトラ怪獣……いや、日本の怪獣たちが最初から狙って、『二面性』(恐怖と愛嬌)を加味されたのではなく、いろんな事情で仕方なく作っているうちに、そこへ落ち着いたのではないかというふうに受け取りました。
本当は、もっと恐怖の方向だけに的を絞って作りたかったけれども、いろんな制約やら、様々な関係者の思惑のズレやら、妥協なども混ざって、最終的にああいう形に落ち着いたのだとすれば、それは奇跡的に日本らしさを加味できた良い結果なのだろうし、そして日本の、ほとんどの怪獣たちが同じようなニュアンス(二面性)を持ったキャラクターとして作られてきたことが、ただの偶然ではなく、どうしてもそっちの流れのほうへ引っぱられてしまう民族的な傾向、思考パターン、つまり宿命のようなものだったのではないかと考えます。
日本の怪獣は、昆虫や爬虫類をただ巨大化させたのではなく、あくまでそれらをモチーフとして取り入れ、そこからさらにデフォルメして、独創性のあるデザインとして生成・造形されます。
そこには、どんなに子供たちを怖がらせる恐怖の象徴としてリアルに作ろうと意図しても、どこかに愛嬌のあるライン、側面、あるいは横顔や表情が滑り込んできて、抜けなくなってしまう(あの初代ゴジラにさえも、愛嬌が垣間見える)……スタッフはそれを見て、なんとかしたいと思いつつも「時間がないから」と先を急ぎ、完成させる……実は、それは「予算がないから」「時間がないから」「仕方ないから」と、自分たちスタッフが思い込んでいるだけで、実際はどうやっても滲み出てきてしまう、センスオブワンダーだったのかもしれません。
ありていに書いてしまえば、どんなに真面目に気張ってみても、途中で、ふと照れくさくなって笑ってしまうような日本人特有のユーモア、気の抜き方、そして他人を思う優しさが入ってしまうからではないかと察します。
もちろん当時のスタッフたちは、さっきも書いたとおり、それが不満だったかもしれません。
これじゃあ、また「子供だましだ」「チープだ」と言われてしまうと嘆いていたかもしれません。いや、おそらく本音はそうだったんじゃないかと推測します……。
しかし、結果的に多くの怪獣たちは、そのおかげで(私個人は、そのおかげだと思っています)、キャラクターとして生き残り、今では世界中の人たちから親しまれています……。
そんな現実を見ると、ウルトラマン創世記の時代には、欠点だと思われていたことが長い年月を経て、長所として存在感を強めているのではないかと思えてくるのです。
長くなりましたが、私も今回のオリジナル女子トラマン……『ウルティマ・ゴッテス』をデジタルコミック化していくにあたって、怪獣たちを作るときは、そうした『二面性(恐怖と愛嬌)』をいろんな工夫を持って取り入れていけたらいいなと思っています。
そうすれば、新しい怪獣を生み出すヒントへとつながっていくかなと思った次第でした。
以上、これから作っていくオリジナル怪獣への想いと考察でした。
ではではまた! ^▽^/