1945年8月広島と長崎に原子爆弾投下。次いでソ連が日本に宣戦布告。
この事態を受け、ついに日本はポツダム宣言を受託。連合国に降伏した。
その頃秀則東京鉄道局長の立場であり、日本の鉄道は膨張し続けていた。
戦後の利用客の増加もさることながら、旧陸軍・海軍の施設や病院などを鉄道施設として編入、大陸や半島からの引揚者や復員兵を大量に受け入れ、戦前の職員数約20万人から60万人にまで膨れあがっていた。
駅舎・関連施設の戦災による補修などの経費がかさみ、経営は赤字状態であった。
つまり国策である鉄道局は戦後処理の一翼を担わされ、好むと好まざるとに関わらず、無駄に肥大化せざるを得なかったのである。
戦後の困ったことは何でも生き受ける鉄道局、『何でも屋』としての性格を帯びていた。
そのせいで赤字財政も肥大化。1948年秀則が運輸次官に昇進した最初の仕事が国家財政(一般会計)から300億円の繰り入れでその場しのぎ、赤字収支の帳尻を合わせる事だった。
戦後の復興期。
仕方ないとはいえ、300億円とは国家財政から見ても天文学的な巨額である。
国家自体が厳しい財政事情にあって、『仕方ない』では済まされない。
秀則に課せられた使命は、借金体質からの早期脱却であった。
「僕のせいじゃないょ。」では済まされない。
一旦引き受けた無駄な資産を整理するという難題を負わされたのだ。
運輸次官の息子となった秀彦も、今では高校3年生。
一流大学を目指す受験生であった。
「オイ早次、今受験勉強中なんだから邪魔しないでくれるか!」
「だってこの宿題が分らないんだもの。教えてくれたっていいじゃないか!」
「お前なぁ、小6の問題なんて目を瞑ってもできるくらいじゃないと、中学・高校ではついて行けないぞ。
これから厳しい受験戦争が待っているんだからな。
お前、授業中に昼寝でもしてんじゃないか?」
「昼寝なんかしてないやい!
だってこんな理不尽な問題あるか?
『ある小さな池に鶴と亀が居ました。さて、鶴は何羽で亀は何匹でしょう?』なんて知る訳ないじゃないか!」
「なんだ、ツルカメ算か。そんなの授業で習ったろ?」
「僕は昨日、風邪で学校を休んだだろ、その時の授業で教えていたらしいんだ。
だから、計算の仕方なんて知らないし。
ねぇ~、頭脳明晰な秀才兄貴!頼むから教えてくれよ~!」
「仕方ないなぁ~。でもな、チョットくらいの熱で学校を休んでいるから、そんな困ったことになるんだよ。男だろ?それくらい気合と根性で乗り切れないでどうする?
どれ、教えてやるからノートを見せろ。」
ムッとした早次。
「僕だって休みたくて休んだんじゃないやい!おアキさんと母さんが『熱が出た時は休まないと他の人にうつして迷惑をかけるでしょ!』と言って強制的に休まされたんだもの、仕方ないじゃないか!
僕はちっとも悪くないし、根性無しでもないよ。
そんな思いやりの欠片もない兄貴でも一応宿題教えて貰ってやるから、ちゃんと教えてくれよ。」
「何だ!その生意気で感じ悪い言いぐさは!
『教えてくださいませ。優しく偉大なお兄様』だろ?
ちゃんと頼まないと教えてあげないぞ!」
「・・・・ヤッパリお母様に教えてもらおうかな?優しくもない、偉大でもない兄貴に聞く位なら。」
「好きにしろ!」
何と兄弟愛に満ちたふたりだろう。
(なんてね。普段からこんな掛け合いをしているが、ホントはちゃんとお互いを思いやっているんだよ。)
そんなふたりを含め、康三も識也も母百合子のもと、順調に、健全に育っていた。
百合子には何の心配もないのか?
いや、今ではもう一人の子供のように手のかかる夫、秀則が居た。
秀則が昇進するごとに、重責から体調管理に気を遣わなければならない。
特に最近は胃酸過多が悪化、食べ物の管理には特段の注意が必要であった。
普段の夫の様子を見ると、心配するほどではないが、時々沈んだ表情をする事がある。
「あなた、お疲れのご様子ね。」
こういう時はビタミン剤の注射を打ってもらうのが常である。
「あぁ、大丈夫、心配ないさ。」と言って風呂に入る秀則。
唸るようないつもの鼻歌を聞くと、心なしか少しは安心する百合子であった。
1949年6月1日日本国有鉄道(国鉄)が発足、秀則は初代総裁に就任する。
本当は他にも総裁有力候補がいたが、結局生え抜きの秀則の就任で決着したのだった。
なったばかりの総裁秀則にGHQは重い重大使命を課す。
それは国鉄職員10万人の首切りである。
成立したばかりの法律『行政機関職員定員法』に従い、国鉄は9月30日までに職員を約50万人にまで減らさなければならない。
秀則は幾度もGHQと交渉した。
しかしGHQ側は具体的な交渉には一切応じず、「早く首切り合理化を実行せよ」の一点張りであった。
しかし秀則も簡単には譲れない。
新たに生まれ変わって成立した日本国有鉄道は、国の財産として、職員の生活を守る場として一本の太い幹であらねばならない。
職員が安心して暮らせる場。誰もが国鉄一家の一員として誇りと責任を持つ職場であらねばならない。
それなのに国鉄成立間もないのに大幅人員整理?
GHQの命令なら受け入れざるを得ないが、せめてその人選などはこちらに任せて欲しい。
当時国鉄はストライキが横行していた。
戦後の混乱期から抜け出す過渡期にあり、まだまだ生活水準に満足できるほど充実させることが出来ていない。
それに加え、シベリア抑留から解放されて帰国した復員兵を大量に国鉄職員として受け入れていたが、彼ら復員兵に対しシベリア抑留中、ソ連は左翼思想を繰返し刷り込み洗脳させていた。
戦前・戦中と日本政府が弾圧を繰り返してきた左翼活動勢力が復活し、世相が大きく変化してきている。
このまま放置していれば、日本が赤化してしまう。
GHQには危機感があった。
日本に左翼政権ができ、ソ連側につくようになっては大変困る。
この頃のGHQの占領政策は、本国アメリカの緊張高まる対ソ戦略に大きく影響され、日本をどのように処すべきか?に変化が現れてきた。
つまり戦前から戦中まで続く日本の全体主義から、二度と戦争を起こさないよう民主化への移行政策を進めてきたが、大きく方針を変え反共の防波堤として位置付ける方向へ方針転換する。
もしアメリカとソ連にイザコザが起きるとしたら、何処でどのように?
今極東で一番緊張が高まってきているのが、政治的空白のできた朝鮮半島である。
そこは共産主義を標榜する金日成が統率する北朝鮮共産軍を支援するソ連と、民主主義を標榜する勢力である(GHQ主導で建国された)韓国を軍事支援するアメリカが対峙する緊張地帯であった。
そこでもしソ連との軍事衝突が起きるとしたら、どのように行動すべきか?
まず考えられるのが、占領中の日本を反共の防波堤として位置付け、軍需物資輸送の拠点とする事。
そのためには日本国内の統制を強める必要があった。
日本政府に対し強権を以て命令を発するも、口では従うが場合によってはのらりくらり躱す役人たち。
この最たるケースが秀則率いる国鉄の人員整理問題だった。
次第に苛立ちを覚えるGHQ。
頻繫に繰り返されるストライキは、総て左翼活動家が扇動した結果である。
だから彼ら敵である『赤』は、排除されなければならない。
人員整理の命令を必ず従わせなければならない。それもストライキを扇動・実行する左翼活動家たちに対して。
そうして『赤』の首切りを迫るGHQに対し、秀則総裁は(人員整理の実行基準や方法を)「僕に任せてくれ」の一点張りであった。
このままでは埒が明かない。
ではどうするか?
GHQはアメリカお得意の冷酷な強硬策に打って出るようになる。
つまり意のままにならない人物を次々に暗殺するのだ。
「邪魔者は消せ!」
丁度この時日本の世相は暗く陰湿な事件が頻発していた。
1947年(昭和22)10月14日安田銀行荏原事件
1948年(昭和23)1月19日三菱銀行中井事件
1948年(昭和23)1月26日帝銀事件
等、一連の毒殺事件が社会不安を巻き起こす。
この世相を活かし遅々として進まぬ左翼活動家の人員整理を実行させようと、GHQ の参謀部下部組織で諜報、保安、検閲を任務とする『参謀2部 G2 キャノン機関』が鉄道破壊工作に動く。
要するにテロによる恫喝である。
1949年5月4日東京 地下鉄虎ノ門 脱線
1949年5月9日愛媛 予讃線 列車転覆
1949年5月25日静岡 東海道線 追突
1949年6月10日神奈川 東海道線 列車転覆
1949年6月11日愛知 東海道線 列車転覆
1949年6月12日東京 玉電 列車脱線衝突
1949年6月25日神奈川 大船駅 列車転覆
7月1日、GHQの再三の要求に抗しきれず、ついに国鉄当局は組合側に整理基準を通告。翌2日、組合との話し合い打ち切りを宣言。4日、第1次通告で3万700人の解雇を組合に伝えた。
だがこれではまだまだ不足である。
GHQはある決断をした。
そして運命の1949年7月5日火曜日。
秀則は上池上の自宅で、ご飯を茶わん2杯、みそ汁、半熟卵、お新香で朝食を済ませる。
午前8時20分、国鉄職員の運転で公用車(米国製41年式ビュイック)に乗り出発。この朝、東京の天気は曇り。気温は24度。午前9時前には職場到着予定のいつも通りの出勤時刻であった。
車は東京駅前の国鉄本社に向かう。右折すればもう東京駅だ。
だが秀則が「買い物がしたい。三越へ行ってくれ。10時までに役所へ行けば良いから」。
そう言って迷走が始まった。
運転手が秀則の指示通り、行き先を次々に変える。
「右に曲がってくれ」
「三菱本店(千代田銀行)に行ってくれ」
「もう少し早く行ってくれ」等。
後をつけてくる怪しい車を巻こうとするかのように。
(前日、自宅前に怪しい人影の姿が目撃されている。さすがに秀則は身に迫る危険を察知し、警戒していたのかも知れない。)
銀行に到着すると愛用の手提げカバンを車内に置き、手ぶらで銀行に入る。
金庫係の窓口で鍵を受け取り地下の貸金庫に向かう。
貸金庫の中身は分らないが、何かを確認するために立ち寄ったのだろう。
20分ほどして手ぶらで戻り鍵を返却、乗ってきた社用車に乗り込んだ。
「今から行けば丁度良いだろう。大友さん(運転手)出してくれ。」と呟いた。
今度の行先は三越南口。
午前9時35分目的地に到着すると、千代田銀行の時と同じようにカバンを車内に置いたまま「5分ぐらいで戻るから待っていてくれ。」と言い残し店内に姿を消した。
因みに車内に残したカバンの中身は弁当とはし箱、国鉄関係書類だった。
自宅を出てから1時間15分後、三越南口を最後に消息を絶つ。
その翌日(6日)未明、常磐線北千住~ 綾瀬駅間の線路上にて、雨の中轢死体として発見された。
その後の捜査は難航を期し、自殺か他殺かの判断も出来かねていた。
しかし数年後、検察はついにGHQキャノン機関の指示による暗殺であったと突き止める。
ではその実行犯は誰か?
捜査により追い詰めるが、いつも直前に姿を消す。
捜査状況が参謀2部 G2 キャノン機関に筒抜けであったためである。
「大の鉄道好きの秀則が鉄道を使った自殺などするはずはない。」と百合子は他殺であると信じていた。
悲しみに暮れる家族たち。
どうして夫が、父が殺されなければならなかったのか?
ごく普通の夫であり父であったのに。
この事件は世間に大きな反響を呼び起こし、その後20年が経過しても話題が尽きなかった。
ここで言えるのは、秀則がアメリカの思惑の犠牲者のひとりであった事。
アメリカ国内で蔓延していた人種差別。
「奇妙な果実」は黒人のみならず、異様な憎悪を抱いていた日本人に対しても容赦なく実行された。
大空襲も、原爆も、戦後の占領政策も。
そしてバブル崩壊以降の現在でも、理不尽な日本支配は続いている。
同じくアメリカに現在まで続く黒人差別の軋轢同様に。
奇妙な果実~鉄道ヲタクの事件記録~
完
これにて奇妙な果実~鉄道ヲタクの事件記録~を終了します。
今までの長い間、お付き合いいただきありがとうございました。
1945年長男秀彦はこの春中学校を卒業、高校に進学するはずであったが、東京は空襲で焼け野原。
校舎はどこも授業を再開できる状態ではない。
この時実家の様子もどうなっているか分からない。
止む無く疎開先の長野で、現地の高校に入学した。
だが地元民でもない疎開者が、現地の高校に腰掛で入学して良いのか?
いや、自分は焼け野原と化した東京に戻り、一刻も早く復興に寄与すべき?
そうした未来を見通せない不安や焦りの中、悶々としていた。
本当は疎開なんかしたくはなかった。
だがお嬢様育ちの母一人に弟たちを任せる訳にはいかない。
父に代わって自分が疎開先の一家を守らなければならないとの使命感が、長男である自分を奮い立たせていた。
僕は父からの連絡をひたすら待っていた。
「もう大丈夫だから、東京の家に戻ってこい。」との手紙を。
一年や二年、学校に行けなくても良いではないか。
だが、いつでも戻れるように準備だけは怠らなかった。
一家の受け入れ先である遠い親戚の農家で一生懸命農作業を手伝い、少しでも肩身の狭い思いをせぬように頑張りながら。
小三の早次は活発なヤンチャ坊主で、学校の宿題そっちのけで遊び惚けていた。
ただ、遊びといっても実利を兼ねた遊びで、近くの川で魚釣りをする事が多い。
「母さん、今日の晩御飯のおかずは僕に任せて!魚をいっぱい取って来るからね!」
と宣言するが、まともに釣れた試しは無かった。
都会っ子は現地の子供となかなか親しくなれない傾向にあったが、人懐っこい早次にそんな心配は要らない。
あの手この手で遊びを編み出し、地元の子らの間で人気者になっていた。
今日も「ただいま~!行ってきま~す!」との具合で玄関にカバンを置き、踵を返すように遊びに出かけるのだった。
母百合子は母屋には住まず、納屋の片隅で遠慮がちに子育ての毎日を過ごしている。
受け入れ先の農家では食べ物は分けてくれるが決して十分とは言えない。
この戦争下では何処も窮乏生活を強いられているから。
精一杯援助してはくれるが、この辺が限界なのであった。
長男の秀彦が頑張ってくれているので何とか一家を支えられているが、持ってきた思い出の着物がその日の食べ物に変わる日が無いわけではなかった。
まだ幼い康三と識也が毎日お腹を空かしているから。
さすがに策士百合子でも身動き取れないこの状態では、如何ともし難い。
今日も夕餉の食卓はお米に麦を混ぜた御飯に大根の味噌汁、ナスやキュウリの漬物だけである。
それでもよその家庭よりずっと良い贅沢な献立であった。
「かあちゃま、御飯美味しいね。」と幸せそうに笑顔を見せる識也。
毎日同じものばかりなのに、「もう飽きた」とは言わず、食べてくれる姿を見ていると自然に涙が溢れてくる。
この子たちは、私が過ごした少女時代のような甘いお菓子や贅沢な食事を知らない。
その事が不憫に思え、何としても元の暮らしを取り戻し立派に育て上げるのだ!と固く決意していた。
今は耐え忍ぶ時。
ひたすら夫、秀則からの呼び戻しを待っていた。
今年の一月の年明け早々に疎開してから、どれくらい月日が経っただろう。
8月15日を迎え、父から手紙が来た。
「戦争が終わり空襲は無くなったが、今東京は電気・水道・ガスがまだ復旧していないし、治安も良くない。
頃合いをみてまた連絡するから、帰還はそれまで待つように。」との内容だった。
実際、罹災者や孤児で溢れ、東京は盗み等の犯罪が横行する状況にあった。
9月になると戦地から復員兵が続々と戻り、闇市や浮浪者、占領軍の兵士などが行き交う混とんとした瓦礫都市であった。
それでも日一日と復興は進み、まず道路、そして水道、電気、ガスとインフラ整備が急ピッチで進められる。
都市交通もバスや電車が復活し、都市機能の動脈が確保されると、復興の兆しが見えてくる。
実はこの時、東京だけでなく全国各地の空襲でやられた都市機能が驚くべき速さで復旧していた。
その証拠に広島原爆投下後の米軍定点航空写真を見てみよう。
原爆投下一日後、三日後、一週間後、一ヵ月後、三カ月後、半年後の写真。
そこには復旧の過程が詳細に記されていた。
一日後の写真は瓦礫が四散し、建物と道路の境界が見られず混沌とした都市が写されている。
それが三日後になると、かつては道だったであろう線がクッキリと映っている。
つまり道路の瓦礫が、たった三日で綺麗に片付けられているのだ。
そして一週間後、新たに建てたであろう建物らしきものが散見され出した。
そして一ヵ月後、三カ月後、半年後の凄まじい復旧の様子が記録されている。
どうしてそんな記録が残っている?
それはアメリカの重要政策として、原爆の効果と後に続く影響を調査する事にある。
アメリカ占領軍が上陸して、現地に調査隊をいの一番に派遣向かわせたのが広島と長崎であった。
そして被爆した建物の状況を、爆心地からの距離別に調査し、被爆者の罹災状況・症状なども調査している。
但し、被爆者の詳細な調査はしたが、治療は一切していない。
あくまで調査であって救援ではない。悲惨な状況を科学的に調べ、記録するのだ。
それが米軍の本質である。
あぁ、話がまた横道に逸れてしまった。
東京の復興。
治安維持はまだまだ先だが、最低限の生活環境が整い家族を呼び寄せても大丈夫と踏んだのは、その年の10月に入ってからであった。
半信半疑ながら喜び勇んで戻って来た百合子たちが見たのは、東京駅の眼下に広がる瓦礫と復興途上の街並みである。
そこからやっと復活した都電で、懐かしい我が家に向かう。
家を目の前にして、無事だった我が家が奇跡のように思えた。
それ程空襲の被害は壮絶だったのだ。
百合子一行が家に到着する頃、秀則も早めに仕事を切り上げ待ち受けている。
およそ10か月振りの感動の再開であった。
秀則は人目も憚らず百合子を抱きしめ、「おかえり。苦労をかけたな。」と労う。
「あなた、ただ今帰りました。」と伏し目がちに涙をためて百合子が応える。
「少しお痩せになりましたか?」
「あぁ、あんな貧相な食べ物ばかりじゃ、痩せもするよ。
そのくせ、全然仕事は減らないし。」 とぼやいてみせた。
実際秀則は胃酸過多症で、必要以上に食欲旺盛であったため、食料不足にはホトホト難儀している。
だが、飢餓が理由で亡くなる人も大勢いるなか、贅沢は言えない。
「お前たちはどうだった?ちゃんと食べる事はできたか?」
「ウン!麦ごはん、美味しかったよ!」
「そうか、美味しかったか。それは良かった、良かった!
さあ、長旅で疲れたろう?早く家に入ってお風呂でも沸かそう。」
「ワ~い!家だ、家だ!」と全員で駆けるように入っていった。
秀則は今年の4月、東京鉄道局長補佐に昇進していたが、11月になって直ぐ名古屋鉄道局長に栄転、家族の再開もつかの間、単身赴任する事となった。
誠に慌しいが、ほぼひと月の同居でまた離れるのは仕事の性質上仕方ない。
僕の使命は鉄道を立て直す事。戦争でズタズタにされた建物や組織を早急に復旧させ、しいては日本の復興を後押ししなければならないのだ。
秀彦の高等学校入学については、ようやく学校機能を回復した近隣の高輪高校に編入の形で入学する事が出来た。
早次は池上小に転入。
お手伝いさんのおアキさんを呼び戻し、後顧の憂いを無くし名古屋に向かう準備をした。
「おアキさん、久しぶり!元気そうですね。」
「旦那様もお元気そうで。」
「疎開先のお国に戻られて、どうでした?」
「もう実家には私の居場所などありませんでした。
漁師稼業もすっかり兄の息子たちの代になっていましたのでねぇ。戦争に出征したものもいましたが、実家の者たち総出で稼業を続けられたので何とかなりました。そう言う訳で網代では、魚だけには事欠きませんでしたよ。お陰様で私でも何とか過ごせました。
むしろ私は旦那様の事が心配でしたよ。連日の空襲でろくな食べ物にありつけなかったでしょう?
旦那様の事だから焼夷弾の中を無事掻い潜れても、食事には難儀しているのでは?といつも思っていました。」
「それはありがとう!僕の事を心配してくれていたのだね。
さすがに間食はできなかったので辛かったけど、職場からの最低限の支給で三食は事欠かなかったよ。」
「奥様もお坊ちゃまたちも息災で何よりです。本当に良うございました。
これからは私めがまた家事を務めさせていただきますので、どうぞご安心ください。」
「ウン、頼んだよ、おアキさん!」
そう言って東京を後にした。
名古屋の空襲も凄まじく、連日の空襲で街は東京に負けないくらい瓦礫と化していた。
名古屋周辺には多くの軍需産業の工場が立ち並び、徹底的に破壊されていたのだ。
ただこちらも建物の損害は甚だしいが、鉄路自体にはあまり被害は及んでいない。
その点では非常に助かった。
ただ、この時僕は嬉しい悲鳴を上げていた。
朝鮮半島や満州などから続々と引揚者が戻って来たから。
更に戦地から兵役を解除された者たちも徐々に帰還してくる。
その中でも特に鉄道関係者を積極的に受け入れ、路頭に迷わす事態を避けなければならない。
幸いなことに、鉄道の運営は戦後の混乱期であるこの時がピークといえる程、活況を呈している。
人手がいくらあっても足りないのだ。
客車はいつも乗客で溢れ、ギュウギュウ詰めの状態。
それを捌き、円滑なダイヤの運行を保持するには、今まで培ってきた知識と経験がものを言う。
特に名古屋は東京と大阪を結ぶ大動脈の中間地点にあたり、ここを上手く立て直しできなければ日本の復活など無いのだから。
だが何でも自由闊達に仕事ができたか?と云うとそうではない。
敗戦で政治機能に空白ができた分、GHQの進出で何でも許可制となったから。
僕の仕事の半分は部下に対しての復興に向けた指示、もう半分はGHQとの折衝に当てられた。
GHQといっても東京の本部に権限が集中しているため、何事も許可がでるのが遅い。
止む無く僕が直接東京まで赴き、GHQ本部で直談判することが幾度もあった。
という訳で、その時は池上の家にもちょくちょく立ち寄る事が出来る。
これは予期していない、嬉しい役得だった。
だがそんな事が続くとさすがに非効率と悟った鉄道局は、僕を東京に呼び戻すことにする。
つまり半年足らずで名古屋鉄道局長から東京鉄道局長に栄転、我が家に戻ることができたのだ。
「あら、あなた。お早いお帰りで。」と百合子が出迎えてくれる。
「あぁ、意外と早く戻れてラッキーだったよ。
これで百合子や子供たちとまた一緒に暮らせると思うと、帰りの汽車で胸が高鳴って仕方なかったよ。」
「まぁ、あなた、名古屋に行ってから、口がお上手になられたわね。」
「まあね、敵さんのGHQと丁々発止のやり取りをしていたら、口も上手くなるさ。」
「あらまぁ、何という事でしょう!私に面と向かって堂々とお世辞とお認めになるなんて、随分肝がお座りになりましたのね。局長サンにおなりになられたからかしら?」
「まあね。愛する切れ者の妻と渡り合うには、対GHQ並みに腰を据えなければ立ち合いできないからね。」
そう言って優しく百合子を抱きしめた。
「イケずなお方・・・。」
東京鉄道局長として元の職場に返り咲いた僕は、精力的にGHQと交渉した。
その過程で岸信介・佐藤栄作兄弟などの官僚とも折衝の下準備として調整し合い、次第に太いパイプを形成する。
元々岸は企画院時代、様々な形で接触していて面識がある。
だから僕らはそれらのパイプを最大限生かし、日本側連合軍として対処しなければ、何事も上手く回らない。
GHQの思惑というか、アメリカの対日政策はご存じの通りだが、こと鉄道行政に対しては特別な利用価値を認め、将来の企てを持っているようだ。
と云うのも、第二次世界大戦が終了し、世界秩序に変化がみられてきたから。
それまで対ドイツ戦、日本戦でソ連と手を携え勝利してきたが、ここにきて敵が居なくなると関係に軋みが現れ始めた。
今度はソ連と世界の派遣争いに発展しそうなのだ。
もし近い将来アメリカとソ連が激突したら、日本はどうなるか?
これまでの占領政策を軌道修正し、将来を見据えたアメリカにとっての日本の利用価値を推し量るようになる。
アメリカにとって御し易い日本。
アメリカの意向に素直に従う日本。
そのためには日本側の人選に神経質になる。
度々交渉に出てくる秀則に関心を寄せるGHQであった。
つづく
はじめに
第12話 『近衛文麿首相』が公開停止になっています。
これはGoo blog編集当局から
『現在この記事は公開を停止させていただいております。
この記事の投稿は以下の行為に該当しまたは該当する恐れがあり(詳しくは「gooブログサービス」利用規約第11条をご確認下さい)、又はこの記事に対してプロバイダ責任制限法等の関連法令の適用がなされています。
- 【理由1】差別表現などの不適切な表現
一部のお客様には、「ブログIDの連絡先メールアドレス」 または 「gooメールアドレス宛」にgoo事務局から お知らせをお送りしている場合がございますので、併せてご確認をお願いします。』
とのメッセージ(通知)が届いたからです。
ですが私はこの回を改めて読み返して見ても、どの箇所が『差別表現などの不適切な表現』なのか判断できません。全くの青天の霹靂な事態と思っています。
また私には差別表現などの不適切な表現をした覚えもありません。
まぁ、私がこのblogにて投稿を続けるのには、『社会を扇動する』意図と動機があるからであり、その刺激的な表現及び内容がgooblog編集部の趣旨にそぐわないと云うのであれば仕方ないと思っています。
だから、この問題回を修正して再投稿するつもりはなく(何処をどう修正したらよいのかも 分からないし)今回(第15回含め)今後、わたしのblogの複数個所が追加で公開停止処分を喰らっても私の姿勢を変えるつもりはありません。
故にこの物語『奇妙な果実』は残り2話で終了する予定ですが、その後の新たな投稿はどうするか未定です。
多分私はこのアカウントを閉鎖はせず、そのまま放置でいると思います。(私の日記全部が公開停止になってもです。)
ですが少なくとも新たな投降ペースは確実に減少するでしょう。
取敢えず。この問題回(第12話 近衛文麿首相 )はこのblogと平行して投稿している『小説家になろう』と同一内容なので、もし読み返してみたいとお思いなら、そちらでご確認ください。
奇妙な果実〜鉄道ヲタクの事件記録〜 - 第12話 近衛文麿首相 (syosetu.com)
今のところ『小説家になろう』のサイトではまだ公開停止にはなっていないので。
それでは第15回 空襲 本文です。
公開停止処分になる前に【お早めに】お読みください。
1942年日米開戦を知った翌年の1月、再び百合子の妊娠を知った。
次の子で4人目。
今間借りしている借家が手狭になり、かねてから考えていた自宅を建てる計画を実行に移す。
場所は今住んでいる場所から直ぐ近く、大田区池上の端正な住宅地に決めている。
土地は数年前から抑えていたし。
そこは白金にある僕の実家である影山家にも、百合子の実家の藤堂家にも近いから。
百合子の出産に間に合わせるように大急ぎで大工を選定、ギリギリの工期で間に合った。
二階建てで、当時は珍しい2階にお風呂がある。
つまり薪で湯を沸かすのではなく、2階までガスを通し湯を沸かす画期的な最新式の風呂ではない『バス』なのだ。
これは僕の自慢であり、友人・知人に大いに自慢するつもりである。
これで出産後の向かい入れは万全。毎日赤ちゃんをお風呂に入れられるぞ!
僕は新たな家族と新築の家を手に入れ、今こそ幸せの絶頂だと心から思う。
愛する妻と順調な仕事。これ以上、一体何が必要だというのか?
戦争一色の時節柄、大っぴらに幸せそうな顔はできないが。
妻とは未だにラブラブであり、子供達もヤンチャでうるさい分、将来が頼もしく人一倍父としての幸せを噛み締めている。
仕事は確かに忙しくなかなか構ってやれないが、充実した仕事をこなす様子を肩越しに見せられる分、父に誇りをもってくれそうだし。
企画院事件の影響など、一編のやましいところの無い自分には関係ないし、むしろ技師としての力量を発揮するには、この戦時中の環境が合っているのかも知れない。
スピードと合理性と整合性を一挙に解決・実現するのは、今が一番求められる。
軍も公安もライバル技師も関係ない。
自分の描くやり方を推進できる環境に出会い、水を得た魚のような気分である。
その年の10月、百合子はまたしても男子を出産した。
言葉には出して言わないが、今度こそ女の子であろうと期待していた自分は、男の子と聞き一瞬顔が引きつった。
だって、今はもう既に我が家は男の子だらけの野戦場であり、けたたましい雄叫びや野獣のような奇声の嵐、家中バタバタ走り回る状態なのだから。
ここにきてもうひとり加わる?
先が思いやられた。
でも直ぐに思いなおす。先に生まれた3人の男の子たちは皆可愛く、健やかに育った掛け替えのない息子たちではないか。
僕にとって彼らは妻百合子と共に、生きるための縁であり希望なのだ。
四人目の子も個性的な顔立ちで、不思議な事に兄弟それぞれ違った表情をしている。
百合子もさすがに四人目の出産という事で、産後の表情に余裕すら伺えた。
「あなた、ほら、この子の耳は福耳なのよ。きっと立派な大人になると思うわ。
そう思いません?」
「そうだな、こりゃ立派な耳だ!オイ、識也すくすく育ってくれよ。
将来が楽しみだな。」
「え?父さん、もう名前を考えていたの?
識也?識也ってつけたの?」
「そうだよ、博識の『識』を『ひろ』と読んで識也だ。
な、良い名だろ?」
「どうして生まれてくる子が男の子だと分かったの?」と秀彦。
「それは・・・、いくら父さんでも分からないさ。
ただ、男の子だったら『ひろし』か『ひろや』。
女の子だったら『ひろこ』か『ひろみ』にしようと決めていたんだよ。
その時の『ひろ』は博識の『識』を『ひろ』と読もうとね。」
「どうして『識』なの?
「それはね、これからの世の中、他人に流されちゃいけない。
自分で考え、自分の判断に責任をもって生きなきゃならないんだ。
特にこの戦争のような世の中ではね。
だから、ただぼんやり他人に与えて貰っただけの情報や知識に惑わされず、広く自分で取り込んでいく気持ちを持って貰いたいんだ。
『あっちの水は甘いぞ』に釣られて唆されたり、流されてしまっては身の破滅を招くこともある。
お前たちにはそうなって欲しくないからね。分かるかい?
自分で考え、自分の責任で正しいと思う行動を貫ける大人になるんだよ。」
「よく分からないけど、分かった!」
いかにも秀彦らしい、頼もしい返答だった。
「あなたらしい命名の理由ね。」と百合子。
「そうだよ。それにね、もうひとつ命名の理由があるんだ。」
「それは何ですか?」
「百合子のように賢く優しく聡明であって欲しいと思ってさ。」
「アラ、私ってそんなじゃなくってよ。」と恥ずかしそうに伏し目になる。
「そして(百合子のように)策士になれ!ってさ!」
「アラ、本音はそっちね?あとで怖いわよ、」
首を竦める僕だった。
それにしても遡ること半年前、新しい我が家を建てる地鎮式の日。
幸先(?)悪い出来事があった。
1942年(昭和17)4月18日、 B-25双発爆撃機ミッチェル16機が航空母艦ホーネットから発進、東京・横須賀・横浜・名古屋・神戸等を空襲したのだ。
日中戦争が勃発してからもう5年、空襲なんて一度も無かった。
それなのに日米戦争になって僅か5カ月。もう空襲?
僕は無意識に戦争慣れしてしまったのだろか?
まさか東京が空襲に晒されるなんて!迂闊なことに、実は全く想定していなかった。
いくら相手が国力に圧倒的な差のある米英だからって、さすがに動きが早い!早すぎる!!
きっとこれはまぐれ?例外だよね?まさか帝都がそう何度も空襲に遭うなんて有り得ない。そう、あってはならない。
卑しくも僕は技師として企画院の端くれにいる身。
あまり詳しくはないが、『帝国国策遂行要領』の概要くらい聞かされている。
南部仏印を侵攻するはずが、何故か真珠湾を攻撃してしまったとは言え、国策の作戦に遺漏や過ちがあろうはずはない。だから大丈夫。
そう!きっともう大丈夫さ!だから、今家を建てても何の問題もない。
そう思い込もうとしている自分がいた。
その時は気づかずにいたが、不吉な暗雲は天空の半分以上を覆っていた。
新しい子が生まれる!その明るい希望が僕の目を曇らせていたのかもしれない。
真珠湾攻撃から目覚ましい進撃を続けていた連合艦隊は、そこでやめときゃいいのに調子に乗って更に太平洋西海岸にまで展開、12月20日から約10日間で航行中のタンカー及び貨物船を5隻撃沈、5隻大破させ、西海岸沿岸の住宅街のわずか数キロ沖で、貨物船を撃沈、 1942年(昭和17年)2月24日 伊17大型潜水艦にてカリフォルニア州サンタバーバラのエルウッド石油製油所を砲撃、一連の本土へ先制攻撃をした。
これらの日本軍による一連の本土への先制攻撃は大きな衝撃を与える。
ルーズベルト大統領は日本軍の本土上陸は避けられないと判断、ロッキー山脈で阻止する作戦を指示、日系人の強制収容を断行。
次いでアメリカ政府は日本軍の本土攻撃及び国民の動揺と厭戦気分を防ぐべく、マスコミに対する報道管制を敷く。
にも拘らず、その後も日本軍の上陸や空襲の誤報が相次ぐ。
更に砲撃作戦の翌日、どういう訳か日本軍がロサンゼルスを空襲したと誤報が有りそれを信じた軍がなのを誤認したか、高射砲にて見えない敵(存在しない敵)に対し応戦、その結果民間人に6人の死者を出した。
アメリカの国内はその恐怖によるパニックから、大きな混乱をまき起こしたのだ。
真珠湾で止めときゃアメリカの本格的参戦のペースを遅らせられたのに、ルーズベルト大統領ならずとも、アメリカ国民を完全に怒らせ本気にさせてしまった。
それからは歴史が示す通り、死にもの狂いで体制を立て直したアメリカは、ミッドウェー海戦で連合艦隊をうち負かしてから、日本は連戦連敗となる。
前話で紹介した通りアメリカはオレンジ計画に沿ってその後の大まかな作戦を実行した。
つまりハワイを拠点にミクロネシアの日本軍守備隊を一つ一つ潰し占領、フィリピン・グアムを奪回、日本本土に迫るというものである。
実際日本はアメリカとどうしても直接対決したいとの野望を持った山本五十六と彼が率いる海軍・連合艦隊の一連の抜け駆け暴走により、『帝国国策遂行要領』の計画外の負担を強いられ、それらの島嶼に多数守備隊を配置。
日本は満州への関東軍、中国戦線、南太平洋と戦線を拡大した事により、当初考えていた大東亜戦争の目的から大きく外れる事となったのが仇となり、どの戦線も十分な戦力を配置する事も、兵站供給も中途半端となった。
それに加え次第に日米間の国力差が現れ、その後の史実が示す通りサイパン島・ペリリュー島など、マリアナ・パラオ諸島の戦いに勝利したアメリカはそれらの島に大規模航空基地を建設、日本本土の大半がB-29の攻撃圏内となり、日本本土への本格的空襲が可能となる。
1944年(昭和19)11月24日以降本土への空襲が本格化。
一般市民を含む大規模な無差別爆撃が実行され、その結果東京を始め、大阪、名古屋など日本の主要都市はほぼ総て焦土と化した。
連日空襲警報が発令され逃げ惑う国民。
アメリカの空襲は執拗且つ残忍であった。
特にアメリカが空襲に使用したのは、日本向けに新たに開発した油脂焼夷弾と、マリアナ諸島から日本全土を空襲のため往復可能にした長距離爆撃機B-29である。
特に油脂焼夷弾はヨーロッパ戦線での炸裂弾とは違い、木造建築が多い日本で極めて強い殺傷能力を発揮した。
1945年3月10日の東京大空襲では、この日から焼夷弾による絨毯爆撃が実行され、夜間低空飛行で正確に目標地点を捕捉、1665トンもの油脂焼夷弾を軍の施設や軍需工場が殆ど無い江東地区や神田、築地などの他、東京・上野駅などの鉄道を標的に爆撃が実行された。
その方法はまず目標地区の外周を火の海で囲み、その後中の標的をくまなく絨毯爆撃を徹底する、明らかに一般市民を目標とした皆殺し作戦であった。
しかもこの空襲では折からの強風に煽られ、目標地区を超え、本所、深川、城東、浅草、神田、日本橋、下谷、荒川、向島、江戸川等、下町と呼ばれる地域が消失。
犠牲者95000人、罹災家屋27万、罹災者100万人もの被害を出した
その後も東京を標的にした空襲は続けられ、4月、5月には山の手が空襲された。
この時の爆撃規模・消失面積は3月10日の下町空襲を上回っている。
犠牲者の数は約8000人で3月10日空襲を大幅に下回っているが、それは疎開が進み強風に煽られた罹災が少なかったためである。
影山一家も秀則を残し、妻の実家である藤堂家の伝手を頼り、遠い親戚の居る長野に疎開した。
秀則はひとり新居に残り、日増しに多くなる空襲を耐えた。
その都度上空に展開するB29を恨めしい表情で睨みつけ、自宅庭に設置した防空壕に避難する。
いつ自宅が焼失するか分からない。
しかし、それを言っても始まらない。
僕の家以外にも夥しい家屋が焼失し、多くの犠牲者が出ているのだから。
僕は多くの犠牲者に手を合わせながら、仕事に向かう。
自分には空襲で被害を受けた鉄道や駅の再建に全力を挙げて再建しなければならない使命がある。
今ここで踏ん張らねば、いつやる?
被害を受けた鉄道は東京以外の各都市にもたくさんある。
それらの再建にも陣頭指揮をとらねばならない。
幸か不幸か僕が所属していた企画院は1943年(昭和18)10月31日に廃止され、僕は1944(昭和19)鉄道監に任ぜられていたから。つまり鉄道業務に全力で取り組めるのだ。
僕はこの時、そういう立場になっていた。
僕は東京だけでなく、その他の罹災都市を回り陣頭指揮をとったり、手の廻らないところは部下に直接指示を出し迅速な復興に力を注いだ。
自分で言うのも何だが、その復興させるスピードは目を見張るものがあり、国家の流通動脈を幾度も寸断されながらも何とか支え続ける事が出来た。
広島と長崎に原爆を投下された時も、信じられない短期間で鉄道運行を再開させている。
それにしても、米軍の空襲には疑問が残る。
軍需工場や軍関係施設の破壊は当然として、空襲の主眼が一般市民を標的にしている事。
油脂焼夷弾では一般家屋の火災は引き起こせるが、鉄道駅舎や鉄道施設、線路への効果は限定的だから。
ヨーロッパ戦線と比べると、あちらでは鉄道、橋梁などの破壊が極めて重要であり、真っ先に狙われていたが、日本では(何度も言うが)標的が一般市民であった事。
一般市民を攻撃する事は戦時国際法で禁じられ、戦争犯罪に該当するハズなのに、である。
敢えてそうした作戦を実行したところにルーズベルト大統領や、その後を引き継いだトルーマン大統領の日本人への憎悪が見て取れる。
彼の国の黒人差別が奇妙な果実を生んだように、その差別と憎悪・嫌悪の感情がこの戦争で日本人にも向けれられていたのがよく分かる。
白人至上主義者が、その考えと立場を打ち砕こうと挑戦した有色人種の代弁者『日本人』を徹底して潰そうとする強固な意思を実行したのだ。
僕はこうした背景の中、こうして度重なる空襲を受け自宅の消失を覚悟していたが、何と!奇跡的に罹災を免れた。
近所の家々がいくつも焼失していたのに拘わらず、である。
戦争が終わり暫くして、ようやく家族が戻って来た。
そして焼け野原の中、数件の焼け残った家の中に我が家を見つけた時は、一同が飛び上らんばかりに驚いた。
何故我が家は助かったのか?
それは自宅一帯が人口過密地帯ではなかったのが幸いしたから。
家が密集していたら、油脂焼夷弾の威力が最大限発揮できたが、山の手地区の比較的広い庭のある家が一般的な地域では、類焼効果が低いのが大きな原因であった。
自分の家が無事に残ったからといって、多くの被災者・犠牲者たちを前にして手放しで喜ぶ訳にはいかない。
一家の無事を感謝しながら、ただひっそりと慎ましく暮らす影山家であった。
つづく
「日本人、死なないで欲しい」アフリカから全身全霊で訴える理由 「世界はとても広い。アフリカに来い」(withnews)