uparupapapa 日記

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奇妙な果実~鉄道ヲタクの事件記録~ 第16話 GHQ

2024-07-28 05:07:53 | 日記

 1945年長男秀彦はこの春中学校を卒業、高校に進学するはずであったが、東京は空襲で焼け野原。

 校舎はどこも授業を再開できる状態ではない。

 この時実家の様子もどうなっているか分からない。

 止む無く疎開先の長野で、現地の高校に入学した。

 だが地元民でもない疎開者が、現地の高校に腰掛で入学して良いのか?

 いや、自分は焼け野原と化した東京に戻り、一刻も早く復興に寄与すべき?

 そうした未来を見通せない不安や焦りの中、悶々としていた。

 本当は疎開なんかしたくはなかった。

 だがお嬢様育ちの母一人に弟たちを任せる訳にはいかない。

 父に代わって自分が疎開先の一家を守らなければならないとの使命感が、長男である自分を奮い立たせていた。

 

 僕は父からの連絡をひたすら待っていた。

「もう大丈夫だから、東京の家に戻ってこい。」との手紙を。

 一年や二年、学校に行けなくても良いではないか。

 だが、いつでも戻れるように準備だけは怠らなかった。

 一家の受け入れ先である遠い親戚の農家で一生懸命農作業を手伝い、少しでも肩身の狭い思いをせぬように頑張りながら。

 

 小三の早次は活発なヤンチャ坊主で、学校の宿題そっちのけで遊び惚けていた。

 ただ、遊びといっても実利を兼ねた遊びで、近くの川で魚釣りをする事が多い。

「母さん、今日の晩御飯のおかずは僕に任せて!魚をいっぱい取って来るからね!」

 と宣言するが、まともに釣れた試しは無かった。

 都会っ子は現地の子供となかなか親しくなれない傾向にあったが、人懐っこい早次にそんな心配は要らない。

 あの手この手で遊びを編み出し、地元の子らの間で人気者になっていた。

 今日も「ただいま~!行ってきま~す!」との具合で玄関にカバンを置き、踵を返すように遊びに出かけるのだった。

 

 母百合子は母屋には住まず、納屋の片隅で遠慮がちに子育ての毎日を過ごしている。

 受け入れ先の農家では食べ物は分けてくれるが決して十分とは言えない。

 この戦争下では何処も窮乏生活を強いられているから。

 精一杯援助してはくれるが、この辺が限界なのであった。

 長男の秀彦が頑張ってくれているので何とか一家を支えられているが、持ってきた思い出の着物がその日の食べ物に変わる日が無いわけではなかった。

 まだ幼い康三と識也が毎日お腹を空かしているから。

 さすがに策士百合子でも身動き取れないこの状態では、如何いかんともし難い。

 

 今日も夕餉の食卓はお米に麦を混ぜた御飯に大根の味噌汁、ナスやキュウリの漬物だけである。

 それでもよその家庭よりずっと良い贅沢な献立であった。

「かあちゃま、御飯美味しいね。」と幸せそうに笑顔を見せる識也。

 毎日同じものばかりなのに、「もう飽きた」とは言わず、食べてくれる姿を見ていると自然に涙が溢れてくる。

 この子たちは、私が過ごした少女時代のような甘いお菓子や贅沢な食事を知らない。

 その事が不憫に思え、何としても元の暮らしを取り戻し立派に育て上げるのだ!と固く決意していた。

 

 今は耐え忍ぶ時。

 

 ひたすら夫、秀則からの呼び戻しを待っていた。

 

 

 今年の一月の年明け早々に疎開してから、どれくらい月日が経っただろう。

 8月15日を迎え、父から手紙が来た。

「戦争が終わり空襲は無くなったが、今東京は電気・水道・ガスがまだ復旧していないし、治安も良くない。

 頃合いをみてまた連絡するから、帰還はそれまで待つように。」との内容だった。

 

 実際、罹災者や孤児で溢れ、東京は盗み等の犯罪が横行する状況にあった。

 9月になると戦地から復員兵が続々と戻り、闇市や浮浪者、占領軍の兵士などが行き交う混とんとした瓦礫都市であった。

 それでも日一日と復興は進み、まず道路、そして水道、電気、ガスとインフラ整備が急ピッチで進められる。

 都市交通もバスや電車が復活し、都市機能の動脈が確保されると、復興の兆しが見えてくる。

 実はこの時、東京だけでなく全国各地の空襲でやられた都市機能が驚くべき速さで復旧していた。

 

 その証拠に広島原爆投下後の米軍定点航空写真を見てみよう。

 原爆投下一日後、三日後、一週間後、一ヵ月後、三カ月後、半年後の写真。

 そこには復旧の過程が詳細に記されていた。

 一日後の写真は瓦礫が四散し、建物と道路の境界が見られず混沌とした都市が写されている。

 それが三日後になると、かつては道だったであろう線がクッキリと映っている。

 つまり道路の瓦礫が、たった三日で綺麗に片付けられているのだ。

 そして一週間後、新たに建てたであろう建物らしきものが散見され出した。

 そして一ヵ月後、三カ月後、半年後の凄まじい復旧の様子が記録されている。

 どうしてそんな記録が残っている?

 それはアメリカの重要政策として、原爆の効果と後に続く影響を調査する事にある。

 アメリカ占領軍が上陸して、現地に調査隊をいの一番に派遣向かわせたのが広島と長崎であった。

 そして被爆した建物の状況を、爆心地からの距離別に調査し、被爆者の罹災状況・症状なども調査している。

 但し、被爆者の詳細な調査はしたが、治療は一切していない。

 あくまで調査であって救援ではない。悲惨な状況を科学的に調べ、記録するのだ。

 それが米軍の本質である。

 

 

 あぁ、話がまた横道に逸れてしまった。

 

 

 東京の復興。

 治安維持はまだまだ先だが、最低限の生活環境が整い家族を呼び寄せても大丈夫と踏んだのは、その年の10月に入ってからであった。

 半信半疑ながら喜び勇んで戻って来た百合子たちが見たのは、東京駅の眼下に広がる瓦礫と復興途上の街並みである。

 そこからやっと復活した都電で、懐かしい我が家に向かう。

 家を目の前にして、無事だった我が家が奇跡のように思えた。

 それ程空襲の被害は壮絶だったのだ。

 百合子一行が家に到着する頃、秀則も早めに仕事を切り上げ待ち受けている。

 

 およそ10か月振りの感動の再開であった。

 

 秀則は人目も憚らず百合子を抱きしめ、「おかえり。苦労をかけたな。」と労う。

「あなた、ただ今帰りました。」と伏し目がちに涙をためて百合子が応える。

「少しお痩せになりましたか?」

「あぁ、あんな貧相な食べ物ばかりじゃ、痩せもするよ。

 そのくせ、全然仕事は減らないし。」 とぼやいてみせた。

 実際秀則は胃酸過多症で、必要以上に食欲旺盛であったため、食料不足にはホトホト難儀している。

 だが、飢餓が理由で亡くなる人も大勢いるなか、贅沢は言えない。

「お前たちはどうだった?ちゃんと食べる事はできたか?」

「ウン!麦ごはん、美味しかったよ!」

「そうか、美味しかったか。それは良かった、良かった!

 さあ、長旅で疲れたろう?早く家に入ってお風呂でも沸かそう。」

「ワ~い!家だ、家だ!」と全員で駆けるように入っていった。

 

 

 秀則は今年の4月、東京鉄道局長補佐に昇進していたが、11月になって直ぐ名古屋鉄道局長に栄転、家族の再開もつかの間、単身赴任する事となった。

 誠にあわただしいが、ほぼひと月の同居でまた離れるのは仕事の性質上仕方ない。

 僕の使命は鉄道を立て直す事。戦争でズタズタにされた建物や組織を早急に復旧させ、しいては日本の復興を後押ししなければならないのだ。

 

 秀彦の高等学校入学については、ようやく学校機能を回復した近隣の高輪高校に編入の形で入学する事が出来た。

 早次は池上小に転入。

 お手伝いさんのおアキさんを呼び戻し、後顧の憂いを無くし名古屋に向かう準備をした。

「おアキさん、久しぶり!元気そうですね。」

「旦那様もお元気そうで。」

「疎開先のお国に戻られて、どうでした?」

「もう実家には私の居場所などありませんでした。

 漁師稼業もすっかり兄の息子たちの代になっていましたのでねぇ。戦争に出征したものもいましたが、実家の者たち総出で稼業を続けられたので何とかなりました。そう言う訳で網代では、魚だけには事欠きませんでしたよ。お陰様で私でも何とか過ごせました。

 むしろ私は旦那様の事が心配でしたよ。連日の空襲でろくな食べ物にありつけなかったでしょう?

 旦那様の事だから焼夷弾の中を無事掻い潜れても、食事には難儀しているのでは?といつも思っていました。」

「それはありがとう!僕の事を心配してくれていたのだね。

 さすがに間食はできなかったので辛かったけど、職場からの最低限の支給で三食は事欠かなかったよ。」

「奥様もお坊ちゃまたちも息災で何よりです。本当に良うございました。

 これからは私めがまた家事を務めさせていただきますので、どうぞご安心ください。」

「ウン、頼んだよ、おアキさん!」

 そう言って東京を後にした。

 

 

 名古屋の空襲も凄まじく、連日の空襲で街は東京に負けないくらい瓦礫と化していた。

 名古屋周辺には多くの軍需産業の工場が立ち並び、徹底的に破壊されていたのだ。

 ただこちらも建物の損害は甚だしいが、鉄路自体にはあまり被害は及んでいない。

 その点では非常に助かった。


 ただ、この時僕は嬉しい悲鳴を上げていた。

 朝鮮半島や満州などから続々と引揚者が戻って来たから。

 更に戦地から兵役を解除された者たちも徐々に帰還してくる。

 その中でも特に鉄道関係者を積極的に受け入れ、路頭に迷わす事態を避けなければならない。

 幸いなことに、鉄道の運営は戦後の混乱期であるこの時がピークといえる程、活況を呈している。

 人手がいくらあっても足りないのだ。

 客車はいつも乗客で溢れ、ギュウギュウ詰めの状態。

 それを捌き、円滑なダイヤの運行を保持するには、今まで培ってきた知識と経験がものを言う。

 特に名古屋は東京と大阪を結ぶ大動脈の中間地点にあたり、ここを上手く立て直しできなければ日本の復活など無いのだから。

 

 だが何でも自由闊達に仕事ができたか?と云うとそうではない。

 敗戦で政治機能に空白ができた分、GHQの進出で何でも許可制となったから。

 僕の仕事の半分は部下に対しての復興に向けた指示、もう半分はGHQとの折衝に当てられた。

 

 GHQといっても東京の本部に権限が集中しているため、何事も許可がでるのが遅い。

 止む無く僕が直接東京まで赴き、GHQ本部で直談判することが幾度もあった。

 という訳で、その時は池上の家にもちょくちょく立ち寄る事が出来る。

 これは予期していない、嬉しい役得だった。

 だがそんな事が続くとさすがに非効率と悟った鉄道局は、僕を東京に呼び戻すことにする。

 つまり半年足らずで名古屋鉄道局長から東京鉄道局長に栄転、我が家に戻ることができたのだ。

 

「あら、あなた。お早いお帰りで。」と百合子が出迎えてくれる。

「あぁ、意外と早く戻れてラッキーだったよ。

 これで百合子や子供たちとまた一緒に暮らせると思うと、帰りの汽車で胸が高鳴って仕方なかったよ。」

「まぁ、あなた、名古屋に行ってから、口がお上手になられたわね。」

「まあね、敵さんのGHQと丁々発止のやり取りをしていたら、口も上手くなるさ。」

「あらまぁ、何という事でしょう!私に面と向かって堂々とお世辞とお認めになるなんて、随分肝がお座りになりましたのね。局長サンにおなりになられたからかしら?」

「まあね。愛する切れ者の妻と渡り合うには、対GHQ並みに腰を据えなければ立ち合いできないからね。」

 そう言って優しく百合子を抱きしめた。

「イケずなお方・・・。」

 

 

 

 東京鉄道局長として元の職場に返り咲いた僕は、精力的にGHQと交渉した。

 その過程で岸信介・佐藤栄作兄弟などの官僚とも折衝の下準備として調整し合い、次第に太いパイプを形成する。

 元々岸は企画院時代、様々な形で接触していて面識がある。

 だから僕らはそれらのパイプを最大限生かし、日本側連合軍として対処しなければ、何事も上手く回らない。

 

 GHQの思惑というか、アメリカの対日政策はご存じの通りだが、こと鉄道行政に対しては特別な利用価値を認め、将来の企てを持っているようだ。

 

 と云うのも、第二次世界大戦が終了し、世界秩序に変化がみられてきたから。

 それまで対ドイツ戦、日本戦でソ連と手を携え勝利してきたが、ここにきて敵が居なくなると関係に軋みが現れ始めた。

 今度はソ連と世界の派遣争いに発展しそうなのだ。

 

 もし近い将来アメリカとソ連が激突したら、日本はどうなるか?

 

 これまでの占領政策を軌道修正し、将来を見据えたアメリカにとっての日本の利用価値を推し量るようになる。

 

 アメリカにとって御し易い日本。

 アメリカの意向に素直に従う日本。

 そのためには日本側の人選に神経質になる。

 

 度々交渉に出てくる秀則に関心を寄せるGHQであった。

 

 

 

 

 

         つづく 

 



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