◇ベルトを外す金属音がトラウマに
敗戦とともに崩壊した「満州国」では、地獄絵図としか表現しようのないほど、
飢えと暴力、そして絶望が蔓延した。
孤立無援の満洲開拓団は次々と、集団自決に追い込まれていった。
そのとき、ある開拓団の男たちは、ひとつの決断を下した。
現地の暴民による襲撃、ソ連兵による強姦や略奪から集団を守り、
食料を分け与えてもらう代わりに、
ソ連軍将校らに結婚前の乙女たちを「性接待役」として差し出したのだ。
犠牲となった「彼女たち」は、
日本への引き揚げ後もこの忌まわしい記憶をずっと胸の内にとどめていたが、
70年が経ち、その重い口を開いた――。
-現代ビジネス ノンフィクション作家・平井美帆氏の特別寄稿。-
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/52608?utm_source=yahoonews&utm_medium=related&utm_campaign=link&utm_content=related
引用に全文を載せたいところだが、
webページが前編・後編に別れ、それぞれが5ページ、4ページあり
長いので割愛した。
本当は全て載せ、広く紹介したいと心から思うほどの内容である。
興味のある人も無い人も、自分を日本人と自負するなら、
知っておくべき歴史的事実であるとわたしは進言したい。
でもこれだけだと実際の内容は全く伝わらないので、
せめて冒頭の部分と、その他一部ピックアップして紹介する。
『忘れられない詩がある。
後半のカタストロフィーと対比を成すかのように、
詩は明るい朗らかな一節からはじまる。
≪十六才の 春の日に
乙女の夢を 乗せた汽車
胸弾ませて 行く大地
陶頼昭に 花と咲く≫
「乙女の碑」と題された詩を書いたのは、
黒川開拓団の一員だった文江さん(仮名、2016年1月没、享年92)である。
1942年3月、文江さんは両親、妹、弟ふたりの一家6人で、
夢と希望を胸に新天地・満州へと向かった。
日本が戦争に負けるとは露ほども疑わずに……。
それからおよそ半世紀経ってから、
彼女は「乙女の碑」を書き残すことになる。
心の奥底に封印されていた記憶は時空を超えて、
あの日あの場所へ飛んだにちがいない。
再び苦悩を味わいながらも、
書き遺さなければならなかった魂の執念が伝わってくる。』
インタビューに登場するのは、
文江さんの他、文江さんの親友、スミさん(仮名、当時88歳)、
当時12歳だった元開拓団員のみつさん(仮名)。(彼女は風呂焚き係を命じられていた。)
豊子さん(91)、当時数え年で18歳。最年少で性接待に出さされた照子さん(仮名、88)、
綾子さん(文江さんの妹)。
ーそしてインタビュー記事終わりの締めの部分。ー
『 「戦争する人はいいですよ。好きでやってるんですから。
だけど、その残された庶民、多くの子どもも死んでいくやろうと思うと、私は胸が痛い。
ちょっと優しい心を持って、指導者が心を鎮めてくれたら、
大きな戦争にはならんかったで。
戦争の犠牲になっていく庶民がかわいそうでしかたがない」
文江さんの遺した詩「乙女の碑」は次の一節で終わる。
≪異国に眠る あの娘らの
思いを胸に この歌を
口づさみつつ 老いて行く
諸天よ守れ 幸の日を
諸天よ守れ 幸の日を≫ 』
『 満州に進駐していたソ連兵らは黒川開拓団の避難場所へやってくると、
少女らを見つけては引っ張り出していった。
-中略ー
ソ連兵は抵抗する未婚の娘たちを銃で殴り、何度失神しても連れ去ろうとした。
そうこうしているうちに、今度は上の者たちの間で「性接待」の話がまとまった。 』
『 今からさかのぼること80年余り、日本は中国の東北地帯に「満州国」の建国を宣言。
大和民族を頂点とする五族協和をめざすとして、
日本人を計画的に満州へ移住させた。
「拓け満蒙! 行け満洲へ!」――。旧拓務省はしきりに、
人々の愛国心や開拓精神に訴えながら、移民事業を推し進めていった。』
『 1941年4月、黒川開拓団は29名の先遣隊を満州に派遣した。
そして、翌年4月から毎年、3回にわたって計129世帯、600人余りが海を渡った。
入植地は、新京(現・長春)とハルビンの中間地点にあたる
吉林省・陶頼昭(とうらいしょう)の鉄道駅から西一帯だった。
開拓民らは複数の部落に分かれ、
豆、高粱(コーリャン)、芋などを作付けして農作業に励んだ。
しかし、「満州国」はもろくも崩れ去る。
1945年8月9日ソ連の満洲侵攻、6日後の日本の無条件降伏――。
約27万人の開拓移民らは、突如、異国となった荒野に取り残された。』
『 数名の団幹部らは、ロシア語の話せる「辻」という男の手を借りて、
ソ連軍将校側から救援を取りつけた。
日本に帰れるまで、現地民の暴徒や下っ端のソ連兵から団を守ったり、
食料を分け与えたりしてもらう約束である。
そして、団幹部らが引き換えにしたのは……生身の人間だった。』
『 まだ結婚しておらず、数え年の18歳以上。
黒川開拓団のなかから「性接待役」として、
ソ連軍側に差し出されることになった条件を満たす女性を探してみると、
生存者らの証言どおり、12人から15人の少女が該当した。
すでに亡くなった人が大半だが、3人の生存者が見つかった。』
『 そこは「接待」などとはほど遠い、強姦、重姦の場だった。
どれほど残酷だったかは、
「乙女の碑」の紙に赤でペン書きされた文江さんの文章から浮かび上がる……。
≪ベニヤ板でかこまれた元本部の一部屋は悲しい部屋であった。
泣いても叫んでも誰も助けてくれない。お母さん、お母さんの声が聞こえる≫ 』
『 豊子さんによると、駅のほうへ馬車で連れていかれ、
遅くとも翌朝には団へ返されたという。
風呂や消毒の甲斐もむなしく、犯された少女らは次々と性病に感染していった。
さらには発疹チフスも大流行し、
開拓団では毎日のように人がばたばたと死んでいった。
「皆、性病を貰ったんです。性病と発疹チフスが一緒になっちゃったから。
12人のうち、7人くらいは亡くなったんです。
『(日本に)帰りたい。帰りたい』って言いながら、向こうで死んでいった」 』
『 敗戦の翌年、1946年5月。ようやく日本への引揚船が
コロ島(遼寧省)から出港を開始した。
同年8月以降、黒川開拓団は複数回にわたって引揚げを果たしたが、
600人以上いた団員のうち、200人余りが満州や引揚げ途中で命を落とした。 』
『 スミさんには、わが娘にも打ち明けられないと思った出来事がある。
10数年前、長女と居間でテレビを見ていたときだ。
韓国の慰安婦問題のニュースが流れると、娘はとがめるような口調で言った。
「慰安婦、慰安婦って自分から言うとったら、
子どもや孫に迷惑がかかる。自分からよう言うわね」と――。』
『 性接待を決め、娘たちを差しだした男たちは、引揚げ後も、
同じ集団内のリーダーであり続けた。
文江さんは「乙女の碑」に他言無用の文言をつけ加えたが、
いまもむかしも岐阜県内で暮らすおばあさんたちから話を聞いていると、
狭い人間関係に縛られてきたことがよくわかる。
遺族会会長らをたどると、敗戦当時の団幹部らにつながり、
さらにたどれば満州への分村移民を決めた村の男衆らにつながるのだ。』
今回の日記で、私的論評は載せない。
どうかこの日記を読んでいただいた皆様が
各々で感じてほしい。
北朝鮮や中国など、日本周辺が再びきな臭くなってきた現状を見た時、
私自身は戦争に反対も賛成もできない。
ただ男の無力さを感じるのみである。
敗戦とともに崩壊した「満州国」では、地獄絵図としか表現しようのないほど、
飢えと暴力、そして絶望が蔓延した。
孤立無援の満洲開拓団は次々と、集団自決に追い込まれていった。
そのとき、ある開拓団の男たちは、ひとつの決断を下した。
現地の暴民による襲撃、ソ連兵による強姦や略奪から集団を守り、
食料を分け与えてもらう代わりに、
ソ連軍将校らに結婚前の乙女たちを「性接待役」として差し出したのだ。
犠牲となった「彼女たち」は、
日本への引き揚げ後もこの忌まわしい記憶をずっと胸の内にとどめていたが、
70年が経ち、その重い口を開いた――。
-現代ビジネス ノンフィクション作家・平井美帆氏の特別寄稿。-
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/52608?utm_source=yahoonews&utm_medium=related&utm_campaign=link&utm_content=related
引用に全文を載せたいところだが、
webページが前編・後編に別れ、それぞれが5ページ、4ページあり
長いので割愛した。
本当は全て載せ、広く紹介したいと心から思うほどの内容である。
興味のある人も無い人も、自分を日本人と自負するなら、
知っておくべき歴史的事実であるとわたしは進言したい。
でもこれだけだと実際の内容は全く伝わらないので、
せめて冒頭の部分と、その他一部ピックアップして紹介する。
『忘れられない詩がある。
後半のカタストロフィーと対比を成すかのように、
詩は明るい朗らかな一節からはじまる。
≪十六才の 春の日に
乙女の夢を 乗せた汽車
胸弾ませて 行く大地
陶頼昭に 花と咲く≫
「乙女の碑」と題された詩を書いたのは、
黒川開拓団の一員だった文江さん(仮名、2016年1月没、享年92)である。
1942年3月、文江さんは両親、妹、弟ふたりの一家6人で、
夢と希望を胸に新天地・満州へと向かった。
日本が戦争に負けるとは露ほども疑わずに……。
それからおよそ半世紀経ってから、
彼女は「乙女の碑」を書き残すことになる。
心の奥底に封印されていた記憶は時空を超えて、
あの日あの場所へ飛んだにちがいない。
再び苦悩を味わいながらも、
書き遺さなければならなかった魂の執念が伝わってくる。』
インタビューに登場するのは、
文江さんの他、文江さんの親友、スミさん(仮名、当時88歳)、
当時12歳だった元開拓団員のみつさん(仮名)。(彼女は風呂焚き係を命じられていた。)
豊子さん(91)、当時数え年で18歳。最年少で性接待に出さされた照子さん(仮名、88)、
綾子さん(文江さんの妹)。
ーそしてインタビュー記事終わりの締めの部分。ー
『 「戦争する人はいいですよ。好きでやってるんですから。
だけど、その残された庶民、多くの子どもも死んでいくやろうと思うと、私は胸が痛い。
ちょっと優しい心を持って、指導者が心を鎮めてくれたら、
大きな戦争にはならんかったで。
戦争の犠牲になっていく庶民がかわいそうでしかたがない」
文江さんの遺した詩「乙女の碑」は次の一節で終わる。
≪異国に眠る あの娘らの
思いを胸に この歌を
口づさみつつ 老いて行く
諸天よ守れ 幸の日を
諸天よ守れ 幸の日を≫ 』
『 満州に進駐していたソ連兵らは黒川開拓団の避難場所へやってくると、
少女らを見つけては引っ張り出していった。
-中略ー
ソ連兵は抵抗する未婚の娘たちを銃で殴り、何度失神しても連れ去ろうとした。
そうこうしているうちに、今度は上の者たちの間で「性接待」の話がまとまった。 』
『 今からさかのぼること80年余り、日本は中国の東北地帯に「満州国」の建国を宣言。
大和民族を頂点とする五族協和をめざすとして、
日本人を計画的に満州へ移住させた。
「拓け満蒙! 行け満洲へ!」――。旧拓務省はしきりに、
人々の愛国心や開拓精神に訴えながら、移民事業を推し進めていった。』
『 1941年4月、黒川開拓団は29名の先遣隊を満州に派遣した。
そして、翌年4月から毎年、3回にわたって計129世帯、600人余りが海を渡った。
入植地は、新京(現・長春)とハルビンの中間地点にあたる
吉林省・陶頼昭(とうらいしょう)の鉄道駅から西一帯だった。
開拓民らは複数の部落に分かれ、
豆、高粱(コーリャン)、芋などを作付けして農作業に励んだ。
しかし、「満州国」はもろくも崩れ去る。
1945年8月9日ソ連の満洲侵攻、6日後の日本の無条件降伏――。
約27万人の開拓移民らは、突如、異国となった荒野に取り残された。』
『 数名の団幹部らは、ロシア語の話せる「辻」という男の手を借りて、
ソ連軍将校側から救援を取りつけた。
日本に帰れるまで、現地民の暴徒や下っ端のソ連兵から団を守ったり、
食料を分け与えたりしてもらう約束である。
そして、団幹部らが引き換えにしたのは……生身の人間だった。』
『 まだ結婚しておらず、数え年の18歳以上。
黒川開拓団のなかから「性接待役」として、
ソ連軍側に差し出されることになった条件を満たす女性を探してみると、
生存者らの証言どおり、12人から15人の少女が該当した。
すでに亡くなった人が大半だが、3人の生存者が見つかった。』
『 そこは「接待」などとはほど遠い、強姦、重姦の場だった。
どれほど残酷だったかは、
「乙女の碑」の紙に赤でペン書きされた文江さんの文章から浮かび上がる……。
≪ベニヤ板でかこまれた元本部の一部屋は悲しい部屋であった。
泣いても叫んでも誰も助けてくれない。お母さん、お母さんの声が聞こえる≫ 』
『 豊子さんによると、駅のほうへ馬車で連れていかれ、
遅くとも翌朝には団へ返されたという。
風呂や消毒の甲斐もむなしく、犯された少女らは次々と性病に感染していった。
さらには発疹チフスも大流行し、
開拓団では毎日のように人がばたばたと死んでいった。
「皆、性病を貰ったんです。性病と発疹チフスが一緒になっちゃったから。
12人のうち、7人くらいは亡くなったんです。
『(日本に)帰りたい。帰りたい』って言いながら、向こうで死んでいった」 』
『 敗戦の翌年、1946年5月。ようやく日本への引揚船が
コロ島(遼寧省)から出港を開始した。
同年8月以降、黒川開拓団は複数回にわたって引揚げを果たしたが、
600人以上いた団員のうち、200人余りが満州や引揚げ途中で命を落とした。 』
『 スミさんには、わが娘にも打ち明けられないと思った出来事がある。
10数年前、長女と居間でテレビを見ていたときだ。
韓国の慰安婦問題のニュースが流れると、娘はとがめるような口調で言った。
「慰安婦、慰安婦って自分から言うとったら、
子どもや孫に迷惑がかかる。自分からよう言うわね」と――。』
『 性接待を決め、娘たちを差しだした男たちは、引揚げ後も、
同じ集団内のリーダーであり続けた。
文江さんは「乙女の碑」に他言無用の文言をつけ加えたが、
いまもむかしも岐阜県内で暮らすおばあさんたちから話を聞いていると、
狭い人間関係に縛られてきたことがよくわかる。
遺族会会長らをたどると、敗戦当時の団幹部らにつながり、
さらにたどれば満州への分村移民を決めた村の男衆らにつながるのだ。』
今回の日記で、私的論評は載せない。
どうかこの日記を読んでいただいた皆様が
各々で感じてほしい。
北朝鮮や中国など、日本周辺が再びきな臭くなってきた現状を見た時、
私自身は戦争に反対も賛成もできない。
ただ男の無力さを感じるのみである。