まえがき
貴方は昨今の世の中、何故か映画やテレビ、
ゲームの世界に於いて
『ゾンビ』が登場するのを見たことがあるか?
大抵の人はご存知だろう。
あの『ゾンビ』とはいったい何者?
私はその由来を知って吐き気を催すほど嫌悪した。
ゾンビたちは死人が蘇り人を襲う化け物として
描かれる薄気味悪く、危険で醜悪な存在だ。
何とその発想の元となったのは、
一説によると旧日本軍の兵士たちであるというのだ。
祖国のために命を賭した英霊に対し、
あまりに不遜・無礼な発想である。
心ある日本人ならば、
そんな話題は決然と遮り、その後の会話を拒否するだろう。
しかし日本の敵だった対戦相手の立場になれば、
話は大きく変わってくる。
敵である以上、
日本の兵士に対する敬意や遠慮は無用であり、
無神経に揶揄し、不当に蔑む態度をとるのも
お構いなしである。
更に言えば相手を見くびり、
不用意に対戦したがために
小便をちびるほどの恐怖をあじあわされたとなると、
その忌々しさと口惜しさから、
一生忘れられない記憶となるのも仕方ない。
ましてや戦争を知らないその後の世代ともなると、
戦ったもの同士の畏敬の念や
価値観を共有できる筈もない。
だから、平気でゾンビのような不敬な発想を生み
自分の商売の材料として利用する。
しかし見方を変えれば、相手にとって
旧日本軍はそれだけ強烈な恐怖の存在だったと云える。
倒しても、倒しても蘇り起き上がり、
襲いかかってくる化け物『ゾンビ』。
それはまるで、戦闘中打ち倒しても、打ち倒しても
起き上がり突撃を仕掛けて来ようとする
旧日本軍守備隊に重ね合わされるそうである。
普通、どこの国の兵士も、
一度弾丸を喰らったらその場で倒れ
起き上がれないし、
起き上がろうとはしない。
何故なら自分が負傷した時点で
戦闘意欲は削がれ、再び起き上がって再度
飛び交う銃弾の餌食になろうとは思わないから。
誰だって命は惜しい。
だから退避行動をとるか、戦闘が収まるまで
その場に止まるかして、やり過ごそうとする。
そもそも機関銃などを雨あられと
銃弾を乱射してくる敵を前にして
無謀な突撃行為をしようとは考えない。
ところが信じられない事に、
日本の兵士たちは死の危険と恐怖があるにも関わらず
再び立ち上がり、突撃を敢行しようとするのだ。
眼前に自分の身を守る物は何もない。
気が遠くなるような痛みと出血で
思うように動かない身体。
それでも振りかかる銃弾に向かって
駆け抜けようとする日本人兵士たち。
過去の戦争をみると、
突撃戦法はその威力を発揮し、
多大な犠牲を払いながらも制圧に成功している。
太平洋戦争でも
各戦地でゲリラ戦法の末、
最後の手段として突撃が決行されている。
ガダルカナル然り、インパール然り、
サイパン然り、硫黄島然り、沖縄然り・・・。
迫りくる敵、そのあまりの恐怖から
火炎放射器という防御と強力な殺傷効果をもたらす
殺人兵器が誕生し使用された程である。
私は戦争を賛美する気も、
戦死を美化する気もない。
この物語を発表するにあたり
勿論あまり良く知りもしないのに
訳知り顔でその勇敢さを称賛しようとか、
興味をそそる客寄せパンダに
このエピソードを利用するつもりはない。
ただ、それぞれの時代の戦いに関与した
名も知らぬ兵士たちが
何を思い誰のために
弾丸の降り注ぐ中、
敵陣に向かって駆け抜けたのか?
わが身に弾丸を受けても
それでも尚且つ再び立ち上がり
敵陣に向かうのか?
そしてそんな史実が存在したのに
月日の流れに風化し、
埋もれてしまったままで良いのか?
私の父は海軍の一兵卒でした。
戦争体験を幾度となく聞かされていました。
父は戦地から生還できたが、
無念の戦死を遂げた仲間も数多くいた。
父から聞かされた戦地の話は
とても他人事に思えなかった。
だからこそ生きて故国への帰還を果たせなかった、
無念の思いを戦地に置いたまま
埋もれさせても良いのか?
そんな強い思いが、時の流れに埋没された記録を
再度掘り起こし、
戦後の繁栄を謳歌する世の人々に、
改めて広く認知してもらいたい。
そう思ったのが発表の動機である。
冒頭のゾンビの事も
自分の父はゾンビに喩えられるような
壮絶な戦闘地域に赴任してはいない。
でも、もしそんな戦地の当事者であったらどうだろう?
そう考え、発表するか非常に悩んだ。
しかしながら、
歴史に埋もれた名も無き兵士の
青春を奪われ、愛する人を残し
家族と離れ、遠い異国の地に立ち、
まだまだ生きていたいのに
命令ひとつで死地に立ち向かった英霊たち。
わが身に課された責任を、
命を賭してまで果たした
その壮絶な最後の姿を、
私たち後世の日本国民は
知る義務があると思う。
敵が恐れを成すまでの覚悟の様を
後世の私たちは真摯に受け止めるべきであろう。
ここからが創作を含めた史実の物語である。
しかし創作は登場人物の一部に限り、
その他はできるだけ史実及び資料に添い、
誇張はしない。
ルーズベルト大統領の野望
フランクリン・デラノ・ルーズベルト
彼はアメリカ合衆国第32代大統領である。
第二次世界大戦の悲劇は
彼が引き起こした戦争と云える。
え?
第二次世界大戦はドイツナチスの
ヒトラーが引き起こしたはずでしょ?
歴史ではそう習います。
でもそれは私たちが習った教科書での話。
真実はルーズベルトが
筋金入りの日本人差別主義者だったせいで、
日本を戦争に引きずり込み
第二次世界大戦を勃発させた張本人であった。
ルーズベルトは、スミソニアン博物館の
研究者アレス・ハードリチカの言葉を引用、
「日本人の頭蓋骨は我々白人より2000年
発達が遅れている。」
「インド系、ユーラシア系、アジア人種、
欧州人とアジア人種を交配させるべきだ。
だが日本人は除外する」。
と述べている。
1943年1月イギリスのチャーチル首相と会談。
第二次世界大戦の趨勢に重大な影響を及ぼすことになる
「枢軸国との一切の和平交渉を拒絶し、
無条件降伏を唯一の戦争終結とする。」
という原則を表明した。
彼は日本を徹底的に叩き、
中途半端な降伏は許さないと云っているのだ。
彼こそが日本人に対する
危険人物そのものであった。
彼の悪意と憎悪が日本いじめを企て、
追い詰められた日本が引き起こした
『ノモンハン事件』が真の意味での
第二次世界大戦の発端と云える。
1938年(昭和13)
国際連盟加盟国による対日経済制裁が開始され、
ルーズベルト大統領は演説で
枢軸諸国への対処を訴える。
日本は国際的に一層孤立した。
ノモンハン事件
1939年5月11日
旧満州国とモンゴル人民共和国との国境紛争起こる。
この事件と呼ばれる実質的『戦争』は、
日本軍(関東軍)とソ連軍の激突であった。
歴史では日本軍の大敗とある(第23師団の全滅等)が、
決して一方的な大敗ではなかった。
しかし、敵(ソ連軍)を何の根拠もないまま侮り
綿密な計画も準備も持たぬまま
無用に多大な犠牲を出した事実は否めない。
過去に日本は日露戦争で
相手の兵力と火力の強大さと、国力の差を
身を持って経験している筈なのに、である。
奇跡的に辛勝できた日露戦争でさえ、
日本は何年も前から準備して
ようやく勝てた戦争である。
本来ならそこでロシア(ソ連)は
並々ならない相手であると学習するハズであったが、
当時の日本(特に関東軍)は全然学んでいない。
むしろ戦争に勝ったという事実だけで
驕り高ぶる姿勢を持つようになった。
だが日本の軍部の中枢である参謀本部と陸軍省は
長引く日中戦争継続で出口が見えない泥沼に喘ぎ、
当初から辺境の国境紛争などに
かまっている場合ではないと認識を持っていた。
そうした事情から事件不拡大の方針をとったが,
現地の関東軍は中央の意向を無視、
戦闘を続行し,拡大した罪は大きい。
特に後に関東軍陸軍参謀となった辻政信少佐は、
無計画で猪突猛進型の作戦ばかりを立案した。
補給も援軍も考えないまま
無謀な戦闘作戦を部隊に強い、
火器も弾丸も消耗し尽し、
援軍も無い絶望的な状態で部隊は悉く全滅した。
辻はその責任を敗残の指揮官に押し付け
自分は一切取っていない。
(彼は後にシンガポール虐殺や
インパール、ガダルカナル
バターン死の行進など、悪名高い作戦を総て立案し、
卑怯にも終戦時は逃走し、
極東軍事裁判から逃れている。)
しかし、その結果
ルーズベルト大統領の経済封鎖による
国家滅亡の危機を打破するための
日本のその後の起死回生の軍事作戦の選択肢から
対ソ戦は消えた。
しかしこのノモンハン事件と呼ばれる戦争は、
単なる地域紛争ではなかった。
日本を極度に警戒するソ連のスターリンは、
同時に西のナチスドイツにも警戒していた。
ヒトラーは信用できない。
今は手を結んでいても、必ず近い将来
我がソビエトに牙を剝いてくる。
だから日本とのイザコザは早く終結しておきたい。
そうした事情から
必要以上と思われる大兵力を
ノモンハンに派遣してきたのだった。
事実、ヒトラーはこのチャンスを逃さない。
ソ連が兵力を東方(満州国周辺)に集結し、
ドイツに近い西のソ連軍が手薄になったのを見計らい、
ポーランドに侵攻、第二次世界大戦が勃発した。
だから本当の意味では
ナチスのポーランド侵攻ではなく、
ノモンハン事件が大戦の引き金だったと云える。
そうした危機的流れが加速し、
1941年(昭和16)7月
対日資産凍結と枢軸国全体に対する
石油の全面禁輸措置が発動された。
日本の滅亡の運命が眼前に突きつけたれた。
陸軍参謀本部と陸軍省は、
この事態を国家存亡の危機と位置づけ、
対策を考えた。
『対米英蘭戦争指導要綱』
これが考え抜き出した答えだった。
日本は石油の9割を輸入に頼ってきたアメリカとは
絶対に戦争をしない事。
国力差を考えたらアメリカとの戦争はあり得ない。
昭和天皇も決して許さない。
だから、アメリカとの戦争を避けつつ、
フィリピン、インドネシア、マレーシアに南進し、
(やがて、それらの諸国を日本主導で独立させ)
その後、ビルマ、インド西進する。
その最大の目的は
イギリスを屈伏させることにある。
当時イギリスはドイツと熾烈な戦いの最中だった。
かつての大英帝国。
しかしその実態、
イギリス本国の経済状況は脆弱であり、
加盟連邦各国からの援助物資輸送で
戦争が継続されていた。
だからその輸送ルートを分断すれば
イギリスの命脈を絶てるのだ。
日本の海軍はイギリスの軍艦ではなく
ひたすら輸送船を攻撃、撃沈し、物資を絶つ。
海軍がそういう動きをしている間、
陸軍はマレーからビルマに侵攻し
中国の蔣介石へのアメリカの援助ルートを絶つ。
その後陸海の日本軍はサウジアラビアに侵攻、
アメリカからソ連への物資援助も断ち
ソ連の戦闘継続能力を削ぎ、ドイツを勝利へと導く。
その結果イギリスはドイツに負ける。
そして日本は資源やエネルギー供給ルートを確保、
アメリカの依存からの独立を確立するのだ。
1941年8月以降、
何度も国家戦略会議が開催され、
昭和天皇臨席の御前会議で
『米英蘭戦争指導要綱』は決定を見た。
だがこの必勝の作戦に暗雲が立ち込める。
この年の12月1日
開戦直前の御前会議に於いて
唐突に『ハワイ奇襲攻撃』が
ねじ込められていたのである。
「何?」
誰もがそう思った。
その時ハワイ奇襲攻撃を奏上した
海軍軍令部総長 永野修身は
もうすでに連合艦隊は千島占守島沖をたち、
ハワイに向かって進撃していると
シレッとした態度で云う。
「山本五十六連合艦隊司令長官の
たっての願いである。
あいつに任せていれば、この作戦は必ず成功する」
と押し切る。
会議は騒然とする。
だがすべては後の祭りであった。
この時点で戦わずして日本の敗戦が決定した。
開戦の日
東条英機内閣総理大臣は
皇居に向けて座し、泣いて詫びたと云う。
かくしてハワイ真珠湾奇襲攻撃は決行された。
だが奇妙なことに、
肝心の空母を一隻も撃沈できないでいたにも拘らず、
ハワイ占領をせず帰還した。
そんな中途半端な作戦だったの?
それでは全く攻撃の意味を成さないではないか。
それではただアメリカを怒らせ、
ルーズベルトの企てを
成功させる結果となっただけである。
アメリカは日本の宣戦布告を勝ち取り
堂々と日本を攻撃できるのだ。
その後も山本は
本来『米英蘭戦争指導要綱』に則った作戦上では、
全く無駄で意味のない
ミッドウェー作戦、ソロモン諸島侵攻などの行動を
立て続けに実行、『米英蘭戦争指導要綱』をぶち壊し、
勝ち目のない戦争に突き進んだ。
アッツ島・キスカ島
ここである壮絶な攻防戦を紹介しよう。
舞台は太平洋北部、
アリューシャン列島の中心部に位置する
アッツ島・キスカ島の物語である。
もちろん、太平洋の北に位置する
アリューシャン列島占領も
『米英蘭戦争指導要綱』の予定にはない。
つまり一部の人間が引き起こした
無駄で無意味な占領作戦であった。
だが特に私がその死闘を紹介しようと思ったのは、
戦争全体を見た場合、作戦計画上
意味を成さない地域の占領であったにも拘わらず、
占領したその地を必死で守ろうとした日本の守備隊に
目を向けるべきと考えたからである。
だったら彼らは犬死?
馬鹿を云ってはいけない。
彼らは自分が参加した作戦の成否に関係なく
国や家族や誰かのため、そして自分のために
戦ったのだ。
アメリカの兵士たちが
死ぬほどの恐れをなした戦いぶりを
誰が侮蔑できよう?
その壮絶さだけでなく、
その戦闘の様子や顛末に関わる
不可思議な、説明のつかないエピソードも
語り継がれているのを知って欲しい。
アッツ島攻防戦
1942年2月、木村 稔一等兵は
札幌に拠点を置く北の守りの要
『第7師団』(だいしちしだん)の
支隊長穂積松年陸軍少佐率いる
独立工兵一中隊に配属された。
彼は北海道小樽市出身で、
父は小樽港に拠点を構える石炭会社の搬送部門の
支店経理を担当する事務員である。
だが残念なことに、その父は無類の酒好きで、
貰った月給を総て酒に使っていた。
給料日の当日から酒場に入り浸り
3~4日金が尽きるまで家に帰らない
「ろくでなし」だった。
仕方なく彼の母ミツは港の荷役で生計を立て、
7人の子供を育てあげていた。
家計は非常に貧しく、
次男の稔は尋常高等小学校を卒業すると
家計収入の足しに国鉄に就職した。
しかし彼は生来の正義感と喧嘩っ早さから
職場の先輩と殴り合いの不始末をしでかし、
僅か2年ほどで国鉄を辞めてしまった。
兄である長男滋は病弱で、
昭和19年に肺病で亡くなっている。
そんな家庭環境であるから、
次男である稔は自分が失業したからと云って
遊んでばかりもいられない。
後には腹を空かした幼い弟や妹が控えている。
そこで彼が思いついた次の就職先が
軍隊への志願だった。
そういう訳で彼が17歳の時入隊。
彼には病弱の兄と3人の弟とふたりの妹、
そしていつも愛情をもって
自分を支えてくれた母がいた。
「ろくでなし」の父は相変わらず
「ろくでなし」だったが。
稔の学校での成績は常に中の下だったが、
割と人懐っこく、友は多かった。
イガクリ頭で先頭に立って
いたずらや些細な悪さをするような
典型的な腕白坊主だった。
北国小樽にも夏は来る。
彼は少年期、いつも自宅近くの
オタモイ海岸にて海水浴に供していた。
ただ泳ぎに夢中だったわけではない。
海の中は幸(さち)で溢れる宝庫でもある。
今では高級品であるアサリやウニやアワビが
そこいらに散らばり、
とりたい放題、食べたい放題だった。
浜辺で焚火をしながら焼く海に幸は
現代の私たちがうらやむほどのごちそうだった。
貧しい家の生まれではあったが
そうした環境にある少年たちが
日がな一日どのように過ごしていたか、
想像に難くない。
そしてそんな彼も、
その当時男の子なら誰もが兵隊さんに憧れる
軍国少年でもあった。
そんなわけで入隊の前日、
家族から心づくしのお祝いを受け、
生まれて初めて故郷を去った。
彼は札幌の第七師団(だいしちしだん)に入隊、
スタートは二等兵だったが、
一年後には一等兵に昇進していた。
1942年4月18日
アメリカ軍B25爆撃機による
日本本土空襲作戦(ドーリットル空襲)敢行
東京への空襲に日本軍は大きな衝撃を受けた。
その事件を受け、
連合艦隊司令長官山本五十六の強い進言があり、
本土空襲阻止の大義名分と、
北東アメリカ軍襲撃阻止、
ミッドウェー作戦の陽動、
米ソ連絡遮断を目的に、
1942年5月下旬、
日本軍はアリューシャン作戦を発動した。
第五艦隊、第四航空戦隊基幹の
機動部隊及び攻略部隊で進撃。
木村稔が所属する北海部隊独立工兵一中隊は
攻略部隊としてアッツ島攻略のため
独立歩兵三〇一大隊、高射砲中隊、
補助部隊約1150名が
輸送船(衣笠丸)に乗船、
第一水雷戦隊(阿武隈、若葉、初霜、初春)と共に、
アッツ島上陸、
6月8日同島を占領し「熱田島」と改称した。
その時アメリカ軍守備隊は駐屯しておらず、
少数の現地島民アリュート族とアメリカ人夫婦が
居住するのみだったので
結果無血占領となった。
同時期、キスカ島では日本海軍の陸上部隊である
舞鶴鎮守府特別陸戦隊が占領「鳴神島」と改称、
守備を担当した。
6月23日大本営は
西部アリューシャン群島の長期確保を指示した。
一方アメリカの動きは、
7月5日ウムナック島の大型爆撃機で空襲を敢行、
潜水艦にて日本軍に損害を与えた。
また8月8日アメリカ艦隊は
キスカ島に艦砲射撃を敢行、
木村の所属する北海支隊は大本営陸海軍部から
キスカ島への戦力増強を目的にアッツ島放棄、
キスカ島転進を命じられた。
その際、携帯移設不能の軍需物品、
施設を破壊、
アッツ島先住民アリュート族住民40名を同行させ
第五艦隊の協力のもと、
キスカ島への転進を完了させた。
そして転進遂行にあたり、
10月20日北海守備隊が新編成され、
第五艦隊の指揮下に入った
その頃木村稔一等兵はというと、
持ち前のヤンチャさと正義感、義侠心が災いし、
部隊の戦友のひとり三戸部勇吉と
第五艦隊乗組員とのイザコザに
巻き込まれていた。
アッツ島での一方的な空襲や艦砲射撃での被害を受け、
イライラとやり場のない怒りから、
木村も戦友も精神的に腐っていた。
そこにもってきて友軍艦船の乗組員から
理不尽な言動を投げつけられ、
双方の怒りが爆発した。
(喧嘩の詳細は軍の規約と名誉のため不公表とする)
因みに陸軍と海軍は同じ国の友軍でありながら
昔から犬猿の仲だった。
取っ組み合い、殴り合いの騒動を起こし、
事件に関わった者2名(木村と三戸部)、
及びアッツ島の地理などに詳しい者3名が
後に一年の時限付き転属の命令が発令された。
転属先は占守島守備隊
北千島第89要塞歩兵隊である。
10月18日日本軍はアメリカのラジオ放送を傍受、
アムチトカ島(アリューシャン列島中央部)占領との
誤報(事実ではなかった)
を受け急遽アッツ島再占領を決定した。
誠にチグハグでもったいない話であるが、
作戦決行当初、
大本営は一貫した統一防衛方針を持っておらず、
攻略計画立案時から場当たり的側面は否めなかった。
つまり司令部である遠く離れた大本営海軍部、
連合艦隊の考えと
現場の第五艦隊と守備隊の当事者である
陸軍の考えに乖離があり、
準備すべき必要とする
守備の装備・規模、及び計画などに
大きな、そして致命的な隔たりがあった。
大本営を弁護するために少し言及すると、
平たく言えば、
ガダルカナルを中心としたソロモン諸島など
南方攻略、防衛にその勢力を注入するため、
北方への総合的戦力増援には
その余力がなかったのである。
そのことが遠因となり、
アッツ島玉砕への道に繋がっていく事となる。
そしてアッツ島への新たな守備隊は
占守島守備隊である米川浩陸軍中佐が率いる
北千島第89要塞歩兵隊(2650名)が配備された。
あの木村稔一等兵たち5名の転属先である。
彼らはアッツ島守備の経験があり、
地理や物資の調達法などに詳しく、
先遣隊の案内係として、
特に木村達2名は部隊の新しい編入先である
第五艦隊乗組員との喧嘩騒動の懲罰的意図もあり
転属が決定されたのだった。
米川部隊は第五艦隊所属の軽巡洋艦、駆逐艦にて
10月29日アッツ島に上陸した。
木村と三戸部は再びアッツ島の地に立つ事となった。
「なあ、俺たち何やってんだろうな?
来て、戻って、また来て・・・・。」
「そうだな。こんな所、寒いし、何も無いし。」
「できればもっと暖かい所が良かったな。」
「戦争じゃけん、贅沢は言えないけど、
『贅沢は素敵だ!』だな。」
「こんな所でも、住めば都になるかな?」
「お前、前、ここに居た時、そう思えたか?」
「いや。」
「そうだよな。」
「うん・・・。」
一年の大半を霧が負おうこの地は
北緯52度に位置し、ロンドンより若干北にあたる。
その気候は西岸海洋性のツンドラ気候で非常に寒く、
最高気温は夏でも10℃台前半にしかならない。
その気候的過酷さは先ほど登場した
アッツ島から約500km離れた
アリューシャン列島中央部
アムチトカ島の環境から知ることができる。
アムチトカ島は大黒屋光太夫という
江戸時代の豪商にして
嵐に会い漂流の末、ロシアに渡り帰国を果たした
歴史上の人物が漂着した島として知られる。
1783年の漂着から
6年にわたる滞在と脱出の試みの間、
17名の乗組員のうち半数以上が寒さのため死去、
貴国できたのは大黒屋光太夫ともうひとりの
2名だけだったことからもその過酷さが伺える。
アッツ島の部隊の話に戻る。
11月1日から大本営から
当該部署に陸海軍中央協定の指示あり。
以下第五艦隊による北海守備隊指揮、
キスカ島及びセミチ島に陸上航空基地を、
キスカ島、アッツ島に水上航空基地を建設
などが定められ実行された。
その結果各島に飛行場建設、陣地の強化が遂行される。
しかし地形の問題、補給の問題から
建設は当初の計画どおりにいかず
アッツ、キスカとも完成前に米軍の攻撃に晒された。
木村も三戸部も基地と飛行場の建設に駆り出され
毎日土木作業に明け暮れていたが、
濃霧や途絶えがちの補給により栄養失調者が増加、
更に魔弾なく続く空襲、艦砲射撃にストレスから
精神疾患に悩まされる者が続出する中、
割と元気に過ごせていた。
彼らは幼少期からの生活習慣から、
自給自足が得意で、
主に海苔や他の海藻を積極的に口にしていた。
ほぼ毎日時化(しけ)で波打ち際が荒れる中、
命がけで獲ってきた海藻は
部隊の仲間の貴重な食料となり
栄養源になっていた。
そんな立ち位置にいたため、
木村たちは、食料調達係に任命?され
やがて土木建設作業も途中で切り上げ
食料調達に明け暮れるようになった。
そんなある日も
いつものように時化の中海藻を採ってきて
焚火を囲みながら濡れた衣服を乾かし、
つかの間の他愛ない会話をしていた。
「なあ、俺たち、いつまでこんなことやってんだろうな?」
「知らねえよ!アメ公に聞きな!!」
「寒くてやってらんねえよ。」
「ああ、餅が食いてぇ!」
「あああ、おふくろが作ってくれた
けんちん蕎麦が食いてぇ!」
「けんちん蕎麦ぁ?」
「けんちん汁に蕎麦を入れたおふくろ特製さ、美味ぇぞ!」
「ああ、そうかい、そうかい。」
「ああああ、暁食堂の美代ちゃんに会いてぇ!」
「誰だそれ?」
「故郷の小樽の坂の下にある店の娘よ!
可愛かったなぁ、あの娘。」
「何だ、お前の彼女かよ。」
「違う!遠くから眺めるだけの高嶺の花よ。」
「へ、そうか、そんなんだったら
俺だっていっぱいいるよ。
佳代ちゃんだろ、久美ちゃんだろ、
ユリちゃんだろ・・・。」
「はいはい、そうかい、そうかい。
そいつは良ぉござんした。
この寒空にお盛んなこった!」
「お互いしけたはなしだねぇ。」
「この戦(いくさ)が終わったら内地に帰って
嫁さんでも貰わんとな。」
「生きて帰れたらな。」
「もし俺が死んだら、お前、骨を拾ってくれよ。」
「分かった!お前もな。」
「骨だけでも家に帰りてぇなぁ。」
「そうだなぁ。」
「・・・・。」
「・・・・。」
「腹が減ったし、そろそろ部隊に帰るか?」
「そうだな、皆も飯を待ってるだろうし。
今夜も海藻汁かぁ、飽きたなぁ。」
「贅沢言ってんじゃねぇ!
諦めるか、我慢するかどっちかにせい!」
「って、どっちも同じじゃないかよ!」
「まあ、そう言うこった!」
こんな会話と空襲で一日が過ぎていった。
次第に輸送船への攻撃が増し、
水上戦闘機の準備が遅れたため、
11月25日を最後に輸送作戦は
セミチ島攻略は中止、部隊配備も遅れ、
仕舞には日本軍艦船の撤退に追い込まれ
アッツ島、キスカ島への補給路が絶たれてしまった。
1943年アメリカ軍の攻勢が増し、
航空機、潜水艦、水上艦艇による攻撃が激しくなった。
1月6日アッツ島目前に「琴平丸」撃沈、
キスカ島でも増援部隊乗船の「もんとりーる丸」撃沈。
1月24日アメリカ軍アムチトカ島進出、
2月同島飛行場の使用開始。
制空権を奪われる。
2月5日北部軍司令部を改変、北方軍司令部を編成、
北海守備隊は第五艦隊指揮から北方軍に編入された。
これにより西部アリューシャンは北方軍、第五艦隊、
千島方面は北方軍、大湊警備府が負う事となった。
2月11日の守備隊改変を経て、
3月10日アッツ島最後の増援輸送の成功をみた。
3月27日第二次増援輸送がアッツ島沖海戦にて
旗艦「那智」小破、撤退。増援作戦中止となる。
4月18日潜水艦「伊31」にて山崎大佐アッツ島到着。
4月下旬アッツ島飛行場完成。
戦闘機一個大隊配備が計画されたが実現せず。
アメリカ軍アッツ島攻略部隊最高指揮官
トーマス・C・キンケード海軍少将のもと
ロックウェル海軍少将とブラウン陸軍少将が
上陸部隊を指揮する事となった。
当初はキスカ島が目標だったが、
攻略部隊の兵力不足、
アッツ、キスカの守備力を勘案し、
上陸の標的をアッツ島に変更した。
アッツ島上陸作戦は5月7日に決定。
アメリカ海軍省が西部アリューシャン奪回を公表した。
アッツ島上陸作戦
4月27日アッツ島砲撃。
ランドクラブ作戦
5月4日 戦艦3隻、護衛艦6隻、護衛空母1隻、
駆逐艦19隻、輸送船5隻が
アラスカコールド湾出発。
海軍機動部隊指揮官 フランシス・W・ロックウェル海軍少将
陸軍上陸部隊指揮官 A・E・ブラウン陸軍少将
5月12日 天候回復を待って上陸開始。
主力は北海湾、別動隊は北部海岸に上陸。
海岸に橋頭保確保。
日本軍の動き
5月10日
伊31潜水艦にて第五艦隊参謀江本弘少佐到着、
海軍部隊指揮。
アッツ島守備隊からのアメリカ軍上陸の報を受けて
守備隊司令部からの電文
「全力を揮つて撃摧すへし
隊長以下の検討を切に祈念す
海軍に対しては直ちに出動
敵艦隊を撃滅する如く要求中」
12日の上陸初日はアメリカ軍艦隊からの
艦砲射撃にて上陸軍を援護したが
霧に遮られ効果を得られず。
散発的応酬に終わる。
13日 北海湾に上陸していた
アメリカ軍北部隊が移動。
周囲を一望できる芝台にある日本軍陣地に接近。
濃霧のため包囲に成功。
一個中隊が陣地を急襲。
日本軍は機関銃と小銃射撃にて撃退。
しかし陣地の正確な位置が露見し、
野砲、艦砲射撃、航空機による
銃爆撃などの集中砲火を浴び
日本軍芝台守備隊から約100名の戦死者が出る。
よって芝台陣地を放棄、西浦南の舌形台に転進、
芝台を奪われる。
高地争奪で激しく争い、15日まで死闘は続いた。
旭湾に上陸したアメリカ軍南部隊も前進。
平地に霧は晴れるが、
高地の日本軍陣地の霧は未だ晴れず。
この時の戦闘でのアメリカ軍兵士の証言。
「戦艦ネバダの14インチ砲が火を噴くたび、
日本兵の死骸、砲の破片、
手や足が山の霧の中から転がってきた」
米南部隊は虎山と臥牛山などの
三方を山地に囲まれ日本軍と遭遇、
十字砲火を受け第17連隊長アーノル大佐戦死、
部隊が混乱状態となる。
後にこの谷は『殺戮の谷』と称される事となる。
その後北部隊と合流すべく、臥牛山日本軍陣地に
一個大隊で攻撃、日本軍は迫撃砲、機銃などで防御、
アメリカ軍を海岸際まで撃退する。
15日 アメリカ軍砲撃。
日本軍陣地が多大な損害を受ける。
この機にアメリカ軍北部隊前進。
日本軍は舌形台陣地蜂放棄、前線を熱田に定め後退。
山崎部隊長はこの時、武器弾薬の補給と
一個大隊の増援を要請。
この要請は20日、大本営から増援計画の中止を通告、
北方軍司令部は衝撃を受ける。
一方18日アメリカ軍は戦果の勢いに乗じて
後方陣地に転進した日本軍を追撃した。
次第に追い詰められてきた日本軍は、
将軍山、獅子山に拠り必死に抵抗、
寡兵をもってアメリカ軍を撃退した。
「なあ稔、アメ公の奴ら、
何であんなに銃弾(たま)を撃ってこれるんだ?
俺が一発一発撃つ間、
あいつら20発も30発も撃ってきやがる。
弾が勿体ないと思わないのかな?」
「お前、何で5発同時に装填できるのに
1発づつしか装填しないんだ?」
「だって勿体ないじゃないか。」
「でも何時でもすぐに撃てないと
イザという時、自分がやられるぞ。」
「俺は貧乏性だからな。
弾が勿体ないだろ?
それに5発も装填していたら
沢山撃っちゃって直ぐに無くなりそうだし。」
「お前残りあと何発だ?」
「20発。お前は?」
「25発。」
「さすが貧乏性!物持ちがいいなぁ。」
「褒めたらあかん。照れるがな。」
「何で関西弁?褒めとらんし。」
*彼ら守備隊の持つ銃は『九九式短小銃』で
5発同時に装填できる簡易カートリッジ式であった。
特筆すべきは荒井山の林中隊は一個小隊で
アメリカ軍二個中隊を撃退した。
三日で攻略する予定だった制圧作戦の
16日 思わぬ苦戦からブラウン少将解任、
ユージーン・ランドラム少将が後任に就く。
21日 北方軍司令官は
「中央統帥部の決定にて、
本官の切望せる救援作戦は現下の状勢では不可能となれり。
との結論に達せり。
本官の力のおよばざること、
まことに遺憾にたえず、深く陳謝す」と打電。
山崎隊長は
「戦闘方針を持久より決戦に転換し、
なし得る限りの損害を与える」
ここで注目すべきはこの言葉。
『成し得る限りの損害を与える』
との意思は、その後思わぬ形で大いに発揮した。
「報告は戦況より敵の戦法および対策に重点をおく」
「期いたらば将兵全員一丸となって死地につき、
霊魂は永く祖国を守ることを信ず」と返電した。
23日 札幌の北方軍司令官は
アッツ島守備隊へ次のような電文を打った
「軍は海軍と協同し、
万策を尽くして人員の救出に務むるも、
地区隊長以下凡百の手段を講じて敵兵員の燼滅を図り
最後に至らは潔く玉砕し、
皇国軍人精神の精華を発揮するの覚悟あらんことを望む」
命令電中、はじめて玉砕の言葉を使用、
事実上の玉砕命令であった。
21日 アメリカ軍の砲爆撃により
南部の戦線も突破される。
主力は北東のかた熱田に追い詰められる。
日本軍は大半の砲を失い食料はつきかける。
兵力は1000名前後までに減り、
日本軍は各地でアメリカ軍の攻撃に対し激しく抵抗、
白兵戦となり奮闘したがとうとう力尽き
28日までにほとんどの兵力が失われ陣地は壊滅した。
29日 戦闘に耐えられない重傷者が自決し、
山崎部隊長の命令で生存者が熱田の本部前に集まった。
山崎部隊長各将兵の労をねぎらった。
そして最後に東京にある大本営へ宛て
最後の打電をした。
「一 二十五日以来敵陸海空の猛攻を受け
第一線両大隊は殆んと壊滅(残存兵力約150名)の為
要点の大部分を奪取せられ辛して本一日を支ふるに至れり
二 地区隊は海正面防備兵力を撤し
之を以て本二十九日攻撃の重点を
大沼谷地方面より後藤平敵集団地点に向け
敵に最後の鉄槌を下し之を殲滅
皇軍の真価を発揮せんとす
三 野戦病院に収容中の傷病者は
其の場に於て軽傷者は自身自ら処理せしめ
重傷者は軍医をして処理せしむ
非戦闘員たる軍属は
各自兵器を採り陸海軍共一隊を編成
攻撃隊の後方を前進せしむ
共に生きて捕虜の辱しめを受けさる様覚悟せしめたり
四 攻撃前進後無線電信機を破壊暗号書を焼却す
五 状況の細部は
江本参謀及び沼田陸軍大尉をして
報告せしむる為残存せしむ
「五月二十九日決行する
当地区隊夜襲の効果を成るへく
速かに偵察せられ度 特に後藤平 雀ヶ丘附近」
辰口信夫曹長の日記
「夜二〇時本部前に集合あり。
野戦病院隊も参加す。
最後の突撃を行ふこととなり、
入院患者全員は自決せしめらる。
僅かに三十三年の命にして、
私は将に死せんとす。
但し何等の遺憾なし。天皇陛下万歳。
聖旨を承りて、
精神の平常なるは我が喜びとすることなり。
十八時総ての患者に手榴弾一個宛渡して、
注意を与へる。
私の愛し、
そしてまた最後まで私を愛して呉れた妻耐子よ、
さようなら。
どうかまた会ふ日まで幸福に暮して下さい。
ミサコ様、やっと四才になったばかりだが、
すくすくと育って呉れ。
ムツコ様、
貴女は今年二月生れたばかりで
父の顔も知らないで気の毒です。
○○様、お大事に。
○○ちゃん、○○ちゃん、○○ちゃん、○○ちゃん、
さようなら。
敵砲台占領の為、
最後の攻撃に参加する兵力は一千名強なり。
敵は明日我総攻撃を予期しあるものの如し。」
同じ突撃前夜、木村と三戸部は野営地で
寒さと空腹と無数の傷に耐えながら
最後の休息をとっていた。
「なあ三戸部、俺たち死んだら、
魂は何処に行くんだろうなぁ?」
「そんな事知るか!坊さんじゃないからな。」
「お前は恐くないんか?」
「何も考えんようにしとる。」
「少し震えとらんか?」
「寒いからだよ!」
「俺も魂がぬけそうなくらい寒いよ。」
「お前の魂は何処にあるん?」
「ここさ!」
そう言って股間を指した。
「プッ!(笑)ちんちんか?
そうか、お前ならそうかもしれんな。」
「お前、弾丸(たま)はあと何発残ってる?」
「あと一発さ。」
「捕虜にならないよう、
自決用に1発残しておかんとな。」
「お前は?」
「俺も同じさ。」
「腹減った・・・。」
熱田島守備隊は無線機を破壊。
日本軍残存部隊は
夜陰に乗じ米軍の拠点を討つべく台地に移動、
山崎部隊長を陣頭にして最後の突撃を行った。
弾薬は尽き、銃剣による突撃であった。
意表を突かれた突撃によりアメリカ軍は混乱に陥る。
日本軍は大沼谷地より、アメリカ軍陣地を次々突破、
この時の様子をアメリカ軍は
「生物はもちろん無生物までも破壊した」
と伝えた。
まさに鬼神の様相であった。
日本軍の進撃は止まらず、
遂には第7師団本部付近にまで肉薄したが、
雀ヶ丘でアメリカ軍の猛反撃を受け全滅。
最後までアメリカ軍の降伏勧告を拒否して玉砕した。
米軍のある中尉は
「右手に軍刀、左手に国旗を持っていた」
という証言を残している。
「自分は自動小銃をかかえて島の一角に立った。
霧がたれこめ100m以上は見えない。
ふと異様な物音がひびく。
すわ敵襲撃かと思ってすかして見ると
300~400名が一団となって近づいてくる。
先頭に立っているのが山崎部隊長だろう。
右手に日本刀、左手に日の丸をもっている。
どの兵隊もどの兵隊も、
ボロボロの服をつけ青ざめた形相をしている。
手に銃のないものは短剣を握っている。
最後の突撃というのに皆どこかを負傷しているのだろう。
足を引きずり、膝をするようにゆっくり近づいて来る。
我々アメリカ兵は身の毛をよだてた。
わが一弾が命中したのか先頭の部隊長がバッタリ倒れた。
しばらくするとむっくり起きあがり、また倒れる。
また起きあがり一尺、一寸と、
はうように米軍に迫ってくる。
また一弾が部隊長の左腕をつらぬいたらしく、
左腕はだらりとぶら下がり
右手に刀と国旗とをともに握りしめた。
こちらは大きな拡声器で“降参せい、降参せい”と叫んだが
日本兵は耳をかそうともしない。
遂にわが砲火が集中された…」
稔は右足を撃ち抜かれ、
銃を杖替わりに震える身体を支え、前に進もうとする。
10m後方の三戸部は、既に左肩と腹部に致命傷を負い
立ち上がることはできない。
かすれる声で
「おい・・・ミノル・・・。」
意識が薄れていった。
その時稔の胸に弾が命中。
だが辛うじて倒れない。
また命中。
とうとう仰向けに崩れ落ちた。
「かあちゃん・・・。」
これが最後の言葉だった。
日本軍の損害は戦死2638名、捕虜29名、
アメリカ軍損害は戦死約600名、
負傷約1200名であった。
キスカ島編に続く