uparupapapa 日記

今の日本の政治が嫌いです。
だからblogで訴えます。


こりゃ!退助!!~自由死すとも退助死せず~(17)

2021-01-12 13:51:28 | 日記










このイラストは私のblogの読者様であり、
イラストレーターでもあられる
snowdrop様に描いていただいた作品です。


#13イラストのリクエスト〜『板垣退助』 - snow drop~ 喜怒哀楽 そこから見えてくるもの…
 (snowdrop様のblogリンク先)

Snowdrop様
素晴らしいイラストをありがとうございました。
心から感謝いたします。









  第17話 鳥羽伏見の戦い前夜


 再婚の退助に対し、
初婚の展子は家の体面もあり、
内輪だけでも婚儀をとの希望もあり、
ささやかな式が執り行われた。

「これで退助がフラフラする事はもうあるまい。
カッ、カッ、カッ!」
再び身を固めた事を媒酌人の叔父・平井政実は
上機嫌で大変喜んだ。
 
「叔父上!」
退助は眉間にしわを寄せ、
小声でそれ以上余計なことを喋るなと
目で合図した。

 鋭い展子はすかさず
「あら、退助様、
今までフラフラなさっていたのですか?
どうフラフラされていたのでしょう?」
こちらも小声で
ひな壇の隣にいる退助に聞いてきた。
退助の過去の評判を知るにつけ
聞きたくなるのは当然である。

それに対し、脛に傷持つ退助は当然とぼけて
「ワシがフラフラなどするはずはあるまい。
あくまで独り身男の一般論として言ってみただけじゃろ。」
「そうかしら?怪しい・・・。
叔父上様ァ~!」
展子は叔父に向かって問い詰めようとするが
慌てた退助が遮る。
「叔父上、ご多忙の中、
本日は大酌人の大任、お引き受けくださり
新妻の展子共々、心から感謝申し上げます。
私は明日には登城の上、
直ぐに喫緊の仕事に取りかからねばなりません。
つきましては別途ご相談したき儀がございますので、
後程お付き合い願いとうございますが、如何?」
「フム、そうか?あい分かった。」

本当は相談など無かった。
退助は目配せで政実叔父の昔話を封じた。
「時に叔父上、云々・・・・・。」
話題を変える事に成功した退助を横目で見る展子は、
大そう不満げであったのは勿論である。
(もっと退助様の事を知りたいのに・・・恨めしや。
今夜は質問攻めにしてあげましょうぞ。)
この時展子による退助への尋問の刑が確定した。
その日の夜、退助にとって防戦一方の
最も過酷な一夜になったのは言うまでもない。





「新婚初夜だというのに、可哀そうに。 
 チ〜〜ン🙏」
(・・・・作者の独り言です)





 翌日、またしてもいつぞやの時と同様に
寝不足となった退助は、
言葉通り久しぶりに登城した。



ここで土佐藩を巡る情勢を
若干おさらいしたい。




列藩による四候会議は失敗に終わり、
政権内部での主導権争いに敗れた諸侯、
とりわけ薩摩藩の西郷隆盛は、
幕府を交えた列藩連合政権に見切りをつけ、
倒幕に大きく舵を切る決意をした。

倒幕実行の機運の高まりと西郷との密約実行要請を受け、
ベルギー製最新鋭銃
『アルミニー銃』300丁を手に入れた退助は、
それまでの弓隊を銃撃隊に組織を改編、
土佐勤王党残党、下士や郷士を加え、武力討幕部隊として
後の迅衝隊(隊員数600名)を組織した。
ここで注目すべきなのは、
町人袴着用免許以上の者に
砲術修行允可の令を布告したこと。
武士以外に門戸を広げ、兵制改革、近代式練兵を行うなど
明治維新に繋がる先進的・画期的改変を実行したのである。

(これとは別に、
上士で構成し鳥羽伏見の戦いに参戦した(後に登場する)
『胡蝶隊』という部隊も存在した。)

しかし7月8日京都から帰藩した後藤象二郎が
坂本龍馬と共に起こした策『大政奉還論』を豊信公に献策。
 藩論は振り子のように大きく動く。

大政奉還が成されると、倒幕の大義名分が無くなる。
それでも退助はあくまで武力討幕を主張。

「大政返上の事、その名は美なるも是れ空名のみ。
徳川氏、馬上に天下を取れり。
然らば馬上に於いて之(これ)を復して
王廷に奉ずるにあらずんば、
いかで能(よ)く三百年の覇政を滅するを得んや。
無名の師は王者のくみせざる所なれど、
今や幕府の罪悪は天下に盈(み)つ。
此時に際して断乎たる討幕の計に出でず、
徒(いたずら)に言論ののみを以って
将軍職を退かしめんとすは、迂闊を極まれり。」

(大政奉還論など空名無実である。
徳川300年の幕藩体制は
あくまで武力によって作られた社会秩序ではないか。
であるならば、武力によってしか覆すことはできない。
なあなあの話合いなどで将軍を退任させようなどと、
そんな生易しい策では
早々に破綻するのは必定である。)

大政奉還論を全否定した退助は、
全役職を解任され再び失脚した。



呆れ返る展子。


しかし何故か笑顔を見せてこう言った。
「見合いの席での『度々失脚』のお言葉は
本当だったのですね。」

その内心は、新婚早々多忙を極めた退助が
「恐ろしく暇になる。」と云った
退助の言葉を思い出し、
是非そうなって欲しいと願ったからである。
ようやく水入らずの
落ち着きある新婚生活ができると
喜ぶ展子であった。

しかし・・・・・
それはつかの間の糠喜びだった。


全役職を解任された退助は平然とし、
少しもしょげ返ってはいなかった。

即ち京都で合戦が勃発すれば、
薩土討幕の密約に基づき、
同士と共に脱藩、
武力討幕に加わるつもりでいたからである。


1867年(慶応3)11月9日
大政奉還成る。

1868年1月(太陰暦 慶応3年12月)
失脚中の退助を残し、土佐藩兵(胡蝶隊等)上洛。
伏見の警護に着任。
薩摩藩西郷隆盛、薩土密約に基づき、
乾退助を大将として国許の藩兵を上洛・参戦を
求めてきた。

1月27日鳥羽伏見にて開戦勃発。
土佐の山田隊、吉松隊ら
藩命を待たず薩土密約履行のため参戦する。
情勢が想定外に大きく変化した事に慌てた藩庁は、
2月2日退助の失脚を急遽解く。
更に迅衝隊の大隊司令として出陣、
戊辰戦争に参戦すべしとの命が下る。
これにより退助の脱藩計画は消滅する。
大手を振って参戦できるのだ。

展子の願望はあっけなく砕け散り、
退助の出征を見送る事となった。

最後の夜。

真冬の澄んだ夜空に浮かぶ月が
ふたりの姿を映し出す。

展子は退助の胸の中で呟く。
「浮気しないで帰ってきて。」
退助は展子の顔を覗き込み、
「どうかご無事で、とかの言葉は無いんか?」
展子が顔を上げ、退助を見据えて言う。
「あなたが無事でお帰りになるのは
間違いないと信じております。
ただ、私(わたくし)の見て居らぬところで
何をされるのか、
そちらの方が心配です。
ほら、ご媒酌の叔父上様も
言っていらしたじゃないですか。
『独身時代、フラフラしていた』と。」
「だからあれは一般論であると申したであろうが。」
「この私にそんな言葉を信じろと?
・・・無理!!」

翌朝、やはり涙の出征見送りとなった。



3月11日退助率いる迅衝隊が美濃大垣に到着。


しかしその3日前の
1868年(慶応4)3月8日和泉の国、堺港で
世間を揺るがす大事件が起きた。



   つづく


こりゃ!退助!!~自由死すとも退助死せず~(16)

2021-01-08 10:24:46 | 日記











このイラストは私のblogの読者様であり、
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#13イラストのリクエスト〜『板垣退助』 - snow drop~ 喜怒哀楽 そこから見えてくるもの…
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素晴らしいイラストをありがとうございました。
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  第16話 見合い


 退助が土佐に帰国すると
年老いた母幸子が待ち構えていた。

退助の顔を見るなり、
「お帰り。」も
「息災であったか?」の言葉も無しに
見合いの話を持ち出す。

「退助、ソチの見合い相手が決まった。
明日、勘定方勤番、中山弥平治の娘と会いなさい。
既に手筈は整っておる。」

「はぁ?明日ですか?
旅の疲れもとれぬと・・・」
 まだ言い終わらぬうちに
「良い娘です。
会ったらたら旅の疲れなど吹き飛びましょう。
四の五の言わずに身支度を整えておきなさい。」
そう言って敷居の奥に下がってしまった。

「相変わらず無茶苦茶な母よ。」
控える下男に旅の荷物を渡し、
草鞋を脱ぎ、足を注ぐ退助であった。

 その日の夕餉もそこそこに
床に就くが、「良く眠れぬ。」
身体は疲れているのに、寝不足のまま朝を迎えた。
心のどこかで、
新たに会う娘に期待する自分がいたのだろう。

(良い娘?
母は良い娘とは云ったが、
美人とも可愛いとも言っておらなかった。
その辺がどうも怪しい。)

 しかし、昼過ぎに城下の
しかるべき料亭で逢ってみると、
慎ましく俯(うつむ)く姿が楚々とし、
面を上げた顔は、
あたりをほんのり明るく照らすようであり、
退助は唖然とした表情のまま
暫しその場に言葉なく固まってしまった。

 「お初にお目にかかります。
展子(ひろこ)と申します。」
 コロコロとした音色の口笛のような美しい声が
瞬く間に退助の後頭部の
頭蓋骨内部の隙間に響きわたり、
埋められてしまった。

 一瞬にして心を奪われた?

 しかし、そんなイメージを打ち壊す会話に移る。




「退助様って思った通りのお方。
展子は安心しました。」
「思った通り?
ソチはワシをどのように思っていたのか?」
「最初、このお話をいただいたとき、
『怖い』と思いました。
第一線でご活躍される殿方と聞き、
私などのような不束者が務まるのかと
不安だったのでございます。」
「そうか、第一線とはいっても
ワシは浮き沈みの激しい男じゃが。
沈んだ時は恐ろしく暇人ぞ。
まあ、不安な気持ちは理解できるが。
では何故考えが変わった?」
「それは、退助様の風評を耳にしたからでございます。」
「風評?(嫌な予感がする)
誰から何を聞いたのか?」
「それはもう、退助様を知る者にいとまはございません。
退助様とは如何なる吾人か?と問うと、
誰も皆、一を聞くと十の答えが返ってきます。
話したくて仕方無くなるほど
話題性の豊富な方と分かりました。」
思わず気まずい顔になった退助は、
「ウォッホン!」と咳ばらいをし、
「如何なる話題か申せ。
いや、申すな。
どんな話が出たか想像できる。」
身から錆と埃だらけの日頃の行いを思い出し、
たじろぐ退助であった。
「あら、そんな悪い噂ばかりではありませんでしたのよ。
少しは良い噂も。」
「悪い噂ばかりではない?
少しは?と云う事は
殆ど悪い噂と云う事であろう。」
「勿論それはご自身が一番存じていらっしゃる事。
貴方様の武勇伝については
今更私の口からは申しません。
でも、こうも言われています。
『退助様は義のお方。
強きを挫き、弱きを助ける心優しいお方。
日頃の行いや言動に似合わず、高い志をお持ちで、
決して不正や理不尽に屈しない。
私心無く、高潔なお方である。』
それらの意見を聞き、
退助様は全体としてギリギリ立派なお方と
お見受けいたしました。」
「全体として・・・、ギリギリ?・・・かぁ。
不満は残るが、まあ良い。
都合の悪い臭い物には蓋をしておこう。
悪い評価は聞かない事にする。」
「これで私の退助様の感想は
お分かりいただけたでしょう?
それでは退助様は私をどうご覧になりました?
第一印象で結構です。
忌憚ない感想をお聞かせください。
前の奥様と比べて、私は合格?不合格?」
「前の奥のことは口にするな。
ワシも和主とお里を比べたりせぬ。
ワシはどうやら明るく気の強い女に縁があるようじゃ。
それだけは言っておく。」
「ご感想はそれだけ?
それではあんまりです。
可愛いとか、美しいとか、非の打ち所がないとか、
もっと突っ込んだご意見を。」
「何じゃ、見かけによらず図々しい要求じゃな。
和主はそういう甘い言葉が欲しいと申すか?
しかしワシはあまり調子に乗ってしゃべると、
いつも墓穴を掘るから
たいがいにしておけと言われておるでの。」
「あら、どなたに?」
女の勘とは恐ろしいもの。
お菊のアドバイスを鋭く感じ取った展子であった。
退助は「しまった!」と思った。
まだ未練を残してはいるが、
やましい事はしていない。
でも展子には、お菊の事も触れられたくない。
今は知られたくない。
「ワシを知る者からじゃ。
どうもワシはいざという時、
気まずい仕儀に陥る傾向があるそうじゃ。」
追及を煙に巻かれた展子は
「私もそのような場面を見とうございます。
尚一層の親近感が持てると思いますので。
きっと退助様にアドバイスしたお方は
余程退助様の事を良く知ってらっしゃり、
お好きなのでしょうね。」
(危ない、危ない。
この女子には下手なことは口に出せんな。)
ボーっと考えていたら、
「あら、退助様ったら!
今何をお考えだったのですか?」
「何って、・・・・日本の将来・・・。」

「嘘つき!」

有無を言わさず、一月後
内輪だけの祝言が挙げられた。


    つづく

こりゃ!退助!!~自由死すとも退助死せず~(15)

2021-01-04 09:58:08 | 日記











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     第15話 お菊の想いと倒幕への道


 退助はお菊の強い勧めにより
再婚する意思を固めた。

 次に縁談の話が出た時には
前向きに検討すると、国許の年老いた母に書にて告げる。

 母は歓喜し、すぐに次の縁談を用意すると伝えてきた。
母は強引に離縁させたことを
死ぬほど悔いていたのだった。

 いくらふたりの間にいつまでも子ができぬからと言って、
お里が乾家の家風に合わないからと言って、
離縁後退助が再婚を頑なに拒むとは考えていなかった。



 再会後退助は、お菊の料亭『土佐の里』に通う。

 多忙な女将の菊が
いつも時間を割けるとは限らないが、
退助と逢えるのを一番の喜びと考え、
大切にしていた。

 退助は菊に告げた。
「先日母からの返事が届いた。
すぐにでも再婚相手を探すので、
早く国許に戻ってこいとな。
 藩庁からの帰還命令が来次第
多分見合いをすることになろう。
菊、本当にそれで良いのか?」

菊が頷く。
「私も退助様の世継ぎを早く見とうございます。
もし会う機会があればの話ですが。
 もしこのまま独身の退助様と頻回に会っていたら、
誤解を招きます。
夫の定七の前では退助様との関係を
勘ぐられることなく堂々としていたいので、
是非身を固めていて欲しく存じます。」

「そうか、では話を進めよう。
本当に良いのだな?・・・な?・・な?」
「退助様、未練がましいですよ!
いつまでも私は退助坊ちゃまの
恋人や姉上の替わりではないし、
お世話係でもいられませんのですからね。」
「別に未練から云うておるのではない。
ワシは菊の気持ちを慮ってだなぁ・・・」
「ああ、そうですか!私のことはどうぞご心配なく。
それより、見合い相手に軽蔑されたり、
馬鹿にされないようにお気をつけなさいませ。」
「何故ワシが馬鹿にされる?」
「あなた様は、どうもここぞという場面で、
信じられないような奇行に走る傾向があるからです。
私は幾度もそういう場面に遭遇しておりますので。」
「ワシが馬鹿や間抜けと申すか?」
「いいえ、そうではありません。
そう云う状況に陥りやすい性格をしていると
申し上げたいのです。」
「全然フォローになっておらぬな。
馬鹿と呼ばれるのと大して変わらぬと思うぞ。」
「何をおっしゃる!!
これから大成しようという
立派な土佐男と思えぬ、何と云う細かさ!!
そう云うのどうかと思いますよ。」

「・・・・。」

いつも菊に丸め込まれてしまう退助であった。



    倒幕の道筋



ここからは退助にとって
怒涛の活躍が始まる。
その間、再婚という大きな出来事もあるが、
この回は倒幕の動きに絞り、時系列を追って紹介したい。
再婚話の詳細は次回に持ち越す。




 1866年(慶応2)3月7日
坂本龍馬・中岡慎太郎の仲介により
薩長同盟が成立した。

その年を境に倒幕・佐幕の面々の活動が活発化し
日本史上稀に見る激動の流れが押し迫る。
その目まぐるしい動きは実にややこしいが
どうかついてきて欲しい。




 薩長同盟成立の頃、
後藤象二郎は藩命により薩摩・長州に出張、
その後上海を視察し海外貿易を研究し
坂本龍馬と交わっていた。
当然薩長同盟の仲介時期と重なり、
佐幕派でありながら時節柄
倒幕勢力結集の様を目の当たりにしている。

7月18日,第2次長州征伐が始まる。
しかし7月20日将軍家茂急死により
幕府側は腰砕けになり、掃討は中止となった。

その事が幕府の威信低下に拍車をかけ
一気に倒幕の機運が増した。

一方薩長同盟締結仲介の功により、
中岡慎太郎、坂本龍馬の両名の脱藩の罪を免ぜられる。
藩籍復帰した両名は、
薩摩藩と土佐藩の武力討幕の密約を
藩外の土佐勤王党残党に知らせた。

一方退助は11月5日騎兵修行の命を解かれる。
12月に入り薩摩藩士吉月友実と会見、
薩摩藩の動向を確認、
1月には水戸藩急進派浪士を
独断で江戸の土佐藩邸に匿った。

井伊大老暗殺以降、
水戸藩内での藩士の跳ね上がった行動を
厳しく取り締まる風潮から
行き場を失った志士を守るための
やむを得ぬ行動だった。

退助にとってそれは死を賭けた
博打である。

もう後戻りはできない。

実質的藩主である豊信公に知れたら
切腹ものの越権行為であり、
藩そのものの存続を脅かす危険な行動だったから。

当の豊信公は5月、薩摩主導の四候会議に出席、
薩土密約を締結する。
しかし約束した舌の根も乾かぬうちに
別の盟約に翻弄される。

即ちその動きとは・・・、

退助は6月20日、
脱藩を許された中岡慎太郎の手紙を受け取り
急ぎ上洛し、中岡と会見した。
その場で倒幕を議し、西郷と会見。
退助は「戦となれば藩論の如何にかかわらず、
30日以内に必ず土佐藩兵を率いて薩摩藩に合流する」
と約束。
更に同行した慎太郎は、
自らその人質となり
薩藩邸に籠ると決意を述べた。
しかし西郷は「それには及ばず(信頼する)」
との言葉を得て、
薩土討幕の密約を結んだ。

実は西郷自身、この時点では
まだ倒幕と列藩会議による主導との間で
揺れ動いていたのだが、
土佐との盟約も絶対必要な条件だった。
それ故「それに及ばず。」との答えになったとは
退助、慎太郎は知る由もない。

6月23日慎太郎の仲介にて
豊信公を西郷隆盛に会わせるための書簡を発し、
6月24日退助、豊信公に拝謁、
1月の水戸藩浪士の独断での藩邸匿いの行為を
正直に詫びを入れた。
更に薩摩藩との倒幕の密約締結を報告し
了承を求める。


豊信公は眉間にしわを寄せ、
「困った奴よのう。
どうしてお前はそういつも過激に先走るのじゃ?
少しは余を立てて自重したらどうじゃ?」
「殿、世は風雲急を要しております。
時節はもう倒幕に急加速で走り出しました。
私は殿と我が藩をその時流に
乗り遅らせる訳にはまいらぬと考えます。
何としても殿が先頭を切って藩内を結束させ、
我が藩がこの国の行方を先導すべき時と思います。
新しい世を作り出さねばならぬのです。
殿の了承を得ぬまま
勝手な行動をしでかしたことをお詫びいたします。
殿から死を賜りますれば、
見事腹を掻っ捌く所存でございます。
しかし私が死を賭してでも
成すべき事を殿に承知していただき、
我が屍を乗り越えてゆく志士たちの先頭には
常に殿がいて欲しく思います。


殿、ご決断を!!」

豊信公は深く考え込むのだった。
そして「ふむ。」と頷き、
退助を許した。
豊信公は先に列藩四公会議にて約束を取り交わした手前、
自分の考えと退助の行動は異なり矛盾が生じるが、
さりとて退助という人材をを失うつもりもない。
今こそ退助が活躍しべき時であるとも確信していた。



密約に基づき退助は谷千城、中岡慎太郎に
当時の最新鋭アルミニー銃300挺購入を命じ、
その後も揺れ動き、煮え切らないままの豊信公は
退助と共に土佐帰国。

そして事態は更に動く。
7月23日、京都三本木料亭「吉田屋」において、
薩摩の小松帯刀、大久保一蔵(利通)、西郷吉之助、
土佐の日野春章、後藤象二郎、福岡孝弟、
中岡慎太郎、坂本龍馬との間で、
大政奉還の策を進めるため、薩土盟約が締結された。

薩摩・土佐間の倒幕の密約、
同じ藩同士の別の勢力による大政奉還の密約と盟約。

実に複雑で分かりにくいが、
同じ年に同じ藩の別勢力によるベクトルの異なる
約束が交わされた。

倒幕派と佐幕派のせめぎ合いが、
土佐藩内でも活発化する。

その結果、9月17日土佐藩論は大政奉還に決す。
(11月9日大政奉還成る)

そんな流れの中、遅ればせながら
退助の水戸藩浪士を匿う越権行為の情報を掴んだ
国家老などの守旧派は、
倒幕論者退助の完全追い落としを図る。
即ち7月3日、国許に帰国したばかりの豊信公に
退助の越権行為を告げ口し、処罰を求めたのだ。
その時豊信公は、
「その件はすでに承知しておる。
しかし退助は暴激の擧(きょ)多けれど、
毫(すこし)も邪心なく私事の爲に動かず、
群下(みな)が假令(たとへ)之(これ)を争ふも
余は退助を殺すに忍びず。」
と擁護した。

退助は命拾いし豊信公の命により公に復権した。

7月14日大監察(藩内大目付)となる。

7/17、町人袴着用免許以上の者に
砲術修行允可の令を布告。
8/16銃隊設置の令を発す。
8/21、古式ゆかしい北條流弓隊は
儀礼的であり実戦には不向きとして廃止。
8/23、参政(仕置役)へ昇進し
軍備御用兼帯・藩校致道館掛を兼職。
銃隊を主軸とする士格別撰隊を組織し
兵制改革・近代式練兵を行った(迅衝隊の前身)。
9月3日 退助、東西兵学研究と騎兵修行創始の令を布告。

9月17日、退助、土佐藩より
アメリカ合衆国派遣の内命を受ける。
しかし後に中止となる。
9月18日乾退助、守旧派の圧力により、
再び土佐藩軍備用兼帯致道館掛を解任される。
10月3日、大監察に復職。
退助は薩土討幕の密約をもとに
藩内で武力討幕論を推し進め、
佐々木高行らと藩庁を動かし、
土佐勤王党弾圧で投獄されていた
島村寿之助、安岡覚之助ら
旧土佐勤王党員らを釈放させる。
これにより、諸国に散らばっていた勤王党の志士たちは
土佐七郡(全土)に集結した。
そして勤王党の幹部らが議し、
退助を盟主として討幕挙兵の実行を決断。
武市瑞山が起こした土佐勤王党を、
乾退助が事実上引き継ぐこととなる。

ここに退助による土佐藩の軍事力結集が成った。

ついに鳥羽伏見に続く武力討幕の道筋が整う。




     つづく