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沖縄-糸満-3 ひめゆりの塔と陸軍病院第三外科職員之碑

2015年05月10日 | 太平洋戦争

 ひめゆりの塔はあまりにも知られた慰霊碑であるが、私的には沖縄陸軍病院第三外科地下壕跡という名称のほうが沖縄戦跡にはふさわしいと思っている。沖縄陸軍病院第三外科地下壕に学徒隊として従軍していた沖縄県立第一高等女学校の「乙姫」と沖縄師範学校女子部「白百合」を合わせてひめゆりと名づけられた。地下壕巡りが今回の旅のテーマであっただけに、その歴史の悲惨さを思うと感慨深い。1945年3月24日米軍が上陸する一週間前、「乙姫」と「白百合」女子生徒及び職員総計240名(生徒222名)は、南風原にある沖縄陸軍病院に看護要員として従軍した。しかしその後激しい戦闘により日本軍の防衛戦が前田高地附近に撤退、5月25日には負傷兵・学徒を置き去りにして陸軍病院山城本部壕に撤退した(山城壕についてはすでに紹介済)。戦局が絶望的になった6月18日、学徒隊は解散を命じられるが、それは死を意味したともいえる。最も被害を受けたのは第三外科壕の学徒隊で、翌日手榴弾攻撃を受けて壕中の96名のうち87名が死亡、さらに生存者8名のうち3名は壕脱出後に銃撃され死亡した。実は、ひめゆり学徒隊だけではなく県立首里高等女学校のずゐせん学徒隊などそれぞれ所属校にちなんだ名称がついた学徒隊などもほぼ同様の運命をたどって非業の死を遂げていることも忘れてはいけない。

 また、陸軍病院山城本部壕から脱出したひめゆり隊の学徒達は沖縄陸軍病院第三外科地下壕ではなく、沖縄本島最南端の荒崎という岬にたどり着いたが絶望のあまり軍から支給された手榴弾で自爆する。この慰霊塔については追って紹介したい。

ひめゆり学徒隊だけではなく、陸軍病院第三外科職員にも慰霊

 ひめゆり学徒隊の一員であった本村つるさん(1925年生まれ ひめゆり平和祈念資料館館長) は山城陸軍病院壕にて撤退命令が出たときに沖縄陸軍病院第三外科地下壕ではなく、やや被害が少なかった第一外科地下壕に移ったことで生き残ったという。以下は解散命令が出されたときの状況を本村つるさんが語ったもの。

 「西平先生はですね、「軍から解散命令が出た」と。そのわけは、「もうそこにアメリカの兵隊が来てる」と。「それでこの壕にみんな一緒にいると壕にもう弾が一発入れられたら、みんな全滅するんだ」と。「だからこの夜でね、今日の夜でこの壕からは脱出しなければいけない」と。「だけどみんなで一緒に脱出すると目立つから、グループを作って出なさい」とおっしゃったんですよ。「それには、上級生は下級生を連れて出なさい」と。「だいたい4、5名ずつのグループ。そのグループの中には、北部、中部、南部といって、その各部の人が入るようなグループを作りなさい」と。「ここから出るときには南部の人が道を知ってるだろう」と。「中部に行ったら中部、北部に行ったら北部の人が道知ってるから、そういうようなグループ作りをして、出て行きなさい」と。なるべく、何て言うんですかね、危険でないところを探して行きなさい」、とおっしゃったんですよ。ですから先生は、「自分は東の方へ行きたい」と。だけど、「僕はそう思うけども、だけど今はどこにどうしているか、どこが正しいっていうことは自分には言えない」と。「言えないけれども、一応みんなで相談してなるべく危険でないところを探して行きなさい」という話をしておられました。そして地図をですね、上級生を集めて、ここに行ったらこうなる、こうなる、という地図を見せて話をしておられたんですけど。「それはどこへ行っても、どこが安全でどこが危険ていうことは、もう僕には言えない」という話をしておられて。「相談して出なさい」と。その時に、ひとりでも生き残って、何て言うんですかね、「自分たちがいわゆるひめゆりの学徒隊は、こういうことをしたんだ、ということを伝えるようにしなさい」と。「もしそのグループの中でひとりでもケガしたら、戦だから仕方がない」と。「ケガしたらもう置いてけ」と。「その人ひとりをあれするために、みんながまた犠牲になってもいかんから、これはもう戦争だから仕方がない、置いて行け」と言って、先生おっしゃってました。「だからみんなよく危険でないところを探して出て行きなさい」と。

 私はですね、もうそこに、何て言うんですか、その兵隊が来ているのは、斥候を見たという人も聞きましたのでね、「ああ、本当にそこまで来てるんだな」と。やっぱり出ないといけないんだなと。これはもう出て行ったら死ぬかもしらん。もう死ぬ覚悟をして出て行ったんですけどね。いったん出たらもう私は死ぬかもしらん。とにかくもう、出なさいとうか、出ないといけないと。それで本部の人たちは、私たちは上級生ですから、私と石塚さん、本科2年生は2人いましたから、「どうする?」と。で石塚さんも那覇の人なんですよ、私も那覇だし。その辺何も分からないんです。それからあとひとり比嘉さんが北部の人で、与那嶺さんも北部の人で、あと予科の1年、大舛さんは八重山だし。それから1年生も八重山で、その辺のこと何も分からないから、「どうする。この壕で残って、もうそこに残っておこうか」と、最終的にはそんな話をしたんですよ。だけど先生は「早く出て行け、出て行け」するし、「もうすぐかね」と言って、みんなでそれぞれあるんですね。私の友達に新垣キヨさんっていう人がいるんです。この人は首里の人でね、女学校から師範一緒だったものですから、「私も家帰ろうか」というぐらいしていたんですけど。あの人第一外科に行って、私は本部壕に行って、それから全然会わなかったんですよ。だけれども先生が「出て行きなさい、出て行きなさい」って、みんな出たくないけども、この新垣さんがね、「先生、出て行きます」と言って、何名か連れて出て行ったんですよ。外はもう弾は来るし、弾の閃光と言うんですかね、それが壕の入口にビーン、ビーンって入って来るんですよ。だから本当に出て行くのが怖いんですけど、もう夜が明けると、出なければいけないといったときに、その新垣さんがですね、大変大人しい人なんですけど、「先生、出て行きます」と言ったから、この人が出て行ったからですね、みんなそれぞれにつられて、みんな出て行ったんですよ。で私たちグループはもう出きれない、「もうもうここでいよう」と言っていたんですけど、最後に出たんです私たちは。そのときに先生と、岸本先生と西平先生とね、それから岸本先生の弟(妹)の津波古(ヒサ)さん、津波古さん本当は第二外科だったんですけど。お兄さんのとこに来ていて、私たちと一緒になったんですけど。最後にいて、私も「私たちも連れてってください」と言って先生を追って行ったんですよ。だから「先生」と追って行ったから生き残ってると思います。多分途中で死んでいたかもしれません。でも手りゅう弾なんか持っていませんので。死ぬと言ってもね、なかなか死なないんですけど。手りゅう弾持ってなかったですよ。 」

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