何故イスラム教が繁栄したのか??。信者数はキリスト教20億人、イスラム教16億人、仏教4億人というから世界第二位の信者を有する宗教である。イスラム教の創始者・ムハンマドは570年頃に誕生した。610年ヒラー山の洞窟で瞑想しているときに、天使ガブリエルと出会い神の啓示をうける。そして預言者となってアラビア半島にて布教活動を行い、イスラム共同体を形成する。これが後にイスラム帝国へと発展するのである。当時、7世紀の初めの頃(聖徳太子の頃)、世界を征服していたのはユスティニアヌス王朝率いる東ローマ帝国であった。現在のシリア・アラブ共和国およびレバノン、ヨルダン、パレスチナ、イスラエルを含む地域で、西は地中海に面し、北は現在のトルコの一部、東はゴラン高原をはさんでイラクと接し、南は紅海およびアラビア半島に通じ、人類文明が早期に芽生えた土地のひとつである。また、もうひとつはササン朝ペルシア王国、イラン(ペルシア)の王朝で、226年にパルティア王国を倒して、アルデシール1世が建国した。ゾロアスター教を国教とし、中央集権制を確立して西アジアの広大な地域を領有。ホスロー1世の時代に最も栄えた帝国である。
かくして東ローマ帝国とペルシャ王国はたびたび戦っていたが、突如現れたイスラム帝国は、サーサーン朝ペルシャへの攻撃を開始し、カーディスィーヤの戦いではメソポタミアからサーサーン朝を駆逐。そして間もなく、東ローマ領のシリア地方へも侵攻すると、636年にヤルムークの戦いで東ローマ軍は敗北し、シリア・エジプトなどのオリエント地域や北アフリカを支配したのである。641年、東ローマ帝国のヘラクレイオスが死亡すると、コンスタンティノス3世とヘラクロナスとの間で後継者問題が起き、コンスタンス2世が即位して落ち着いた。東ローマ軍は、655年にアナトリア南岸のリュキア沖での海戦でイスラム軍(正統カリフ)に敗れた後は東地中海の制海権も失うこととなった。
東ローマ帝国やペルシャ王国に比べるとイスラム帝国は極めて軍事力規模は小さく、勝利するには程遠い状況であったが、この時に流行ったのが「ペスト」である。何故かは不明であるが、東ローマ帝国とペルシャ王国の兵士はペストに感染して死んでいくが、イスラム帝国の兵士は死ななかったという。それは何故だ・・・イスラム教を信じれば助かる・・・となって東ローマ帝国とペルシャ王国の人々の多くがイスラム教に改宗したという。嘘のような話であるが、感染ウイルスに強い民族、弱い民族というのは有るようである。