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万葉集を編纂した大伴家持

2019年08月01日 | 奈良・飛鳥時代

 奈良盆地北部に唐の長安をモデルにして造られた平城京があった。当時の巨大な建物・大極殿は復元されて1300年前の都の栄華を今に伝えている。奈良時代の人達や平城京の様子を伝えているのが万葉集である。飛鳥時代、奈良時代に渡る130年間の歌を集めたものである。この中には天皇から庶民まで4500首以上の歌が20巻に収められている。この編纂に深くかかわったのが、貴族にして歌人の大伴家持718-785である。万葉集は古事記、日本書紀のように天皇の命令で編纂されてものではなく、自然発生的に出来上がったもののようだ。当時の時代背景はというと、多くの人材が溢れていたにもかかわらず、文字を持っていなかった時代であり、万葉集に記載されている文字は万葉かなと言って一音毎に漢字があてられている。

原寸大に復元された第一次大極殿

 

 大伴家持の父である大伴旅人は、720年に九州で起きた反乱の制圧に1万人余りの兵士を率いて大将軍として赴いた。福岡県太宰府市は、博多湾から15kmほど内陸に位置している。大宰府政庁は九州一帯の統治と大陸や朝鮮半島からの攻撃に備える重要な任務を負っていた。727年頃、大伴旅人は大宰府の長官として奈良の都から赴任した。大伴氏は軍事の要として古くから天皇に仕えてきた一族である。水城と呼ばれる土塁などは当時築かれた防衛施設である。これらの都市は百済から亡命してきた官人の指導によって作られたという。

大宰府天満宮


 この大伴旅人が令和ゆかりの宴を催した場所は彼の屋敷であったが、その跡に建っているのが坂本八幡宮である。万葉集にはその時の様子が残されている。「初春の令月にして気淑く風和らぎ 梅は鏡前の粉を披き 蘭ははいごの香を薫らす」 730年正月、この邸宅には九州各地を治める数多の役人が集まり、梅花の宴が催された。大伴の旅人が妻・大伴郎女を伴って大宰府に赴任したのが728年、赴任後すぐに妻を亡くしているから、梅花の宴と同時期かもしれない。そして梅花の宴には筑前の守・山上憶良も居たという。この時に読まれた梅の花の32首が万葉集の序文に納められている。「春になると咲く我が家の梅を一人で眺めて過ごすことなどどうして出来ようか」 憶良はこの宴を開催した旅人を称えている。この時、後に万葉集の編纂にあたる大伴家持は13歳であった。やがて大伴旅人、家持親子は奈良に戻り、政治の世界に足を踏み入れる。

 710年、平城京遷都とともに造営された巨大な宮殿・平城宮は、東西1.3km南北1.0kmの広大な敷地の北には大極殿、南の正面玄関には朱雀門が固めた。この朱雀門は代々大伴氏が守ってきたことから大伴門とも呼ばれていた。梅花の宴が開かれた730年の暮、家持は旅人とともに平城京に戻った。しかしその半年後旅人が亡くなった。家持は大伴氏の命運を一身に担うこととなった。やがて家持は内舎人といって聖武天皇の警護役に付いた。聖武天皇は藤原不比等の娘・宮子を母に、光明皇后を妻に持ち、藤原氏とは深い縁戚関係にあった。当時武智麻呂や宇合など四兄弟が絶大な権力を持っていた。奈良正倉院には光明皇后の宝物が残されている。これらは聖武天皇の遺品であり藤原氏の栄華をささえたものでもある。

 ところが737年藤原氏中心の朝廷を揺るがす事態が起きた。都で天然痘が流行り武智麻呂など四兄弟が次々と死んだ。代わって政権を担ったのは皇族出身の橘諸兄。聖武天皇を補佐し混乱を抑えようとした。しかしその政権は不安定であった。そして諸兄は大伴家持と親密な関係を築くことが重要であったと思われる。家持は諸兄の息子・奈良麻呂とも仲が良かった。738年秋、家持は奈良麻呂の宴に参加した。ここには弟の大伴書持、大伴池主が参加した。このときに詠んだ歌からは橘氏との関係を深めたい大伴氏の思いが伺える。この宴から7年後の745年、大伴家持は歌集の編纂に携わることとなった。これが万葉集である。

 大伴門とも呼ばれた朱雀門の東に200mのところに兵部省という役所があり、大伴家持は兵部少輔を務めた。この時の上司は橘奈良麻呂であった。このような役所をはじめとして色々なところから木簡が発見され、当時の人々の生活ぶりを知ることができる。また木簡に記載された文字は万葉仮名で、漢字の当て字のパターンが決まっていたようである。日本語の音をどのようにして漢字に当てはめていたのかが、木簡から知ることができるのである。

 746年、大伴家持が政界に出た最初は越中の守・富山、従五位下の徐され、朝廷から大きな期待が寄せられた大伴家持は数多くの歌を詠むこととなる。越中には東大寺の荘園が数多くあり、家持はその管理に尽力することで莫大な費用がかかる大仏建立をささえようとした。この頃、弟の書持が都で急死した。この時家持を支えたのは同じく富山に赴任していた大伴池主。この頃の五年間、越中立山の大自然に触れる歌が多く残っている。

 飛鳥時代から九州の防衛に当たってきた防人、朝廷が設置した最前線部隊である。防人の多くははるばる東国から招集された農民たちである。食料も武器も自己負担という過酷な任務は3年に及ぶことから、故郷に帰ることができなかった防人も多い。越中での勤めを終えた家持は都に戻り兵部省の役人として難波の港から防人を送り出す任務に就いた。この時家持は多くの防人の歌を採取し、84首は読み手の名前まで含めて残した。つまり個人という熱い思いを受け止めようとしたともいえる。政府がとった政策に対する批判めいた歌も排除することなく纏めたことも考えさせられる。

 749年7月、聖武天皇は娘・安倍内親王に譲位した。女帝・孝謙天皇の誕生である。当時朝廷で勢力を拡大していたのは藤原仲麻呂、天然痘で亡くなった武智麻呂の次男である。仲麻呂は光明皇太后の後ろ盾を得て異例の出世をはたす。751年家持は少納言となり政界の中枢に近づいていく。その翌年聖武天皇の願いであった大仏殿の開眼供養が盛大に催された。式が終わった後孝謙天皇は仲麻呂の邸宅に長く逗留したことで仲麻呂の力を天下に示すこととなった。政権トップにいた橘諸兄の地位は次第に脅かされ、家持の立場も危うくさせる状況が近づいていた。万葉集の中にこの頃の苦悩が伺える首がある。757年、大伴の長老古慈斐が朝廷を誹謗したとして出雲の守を解任された。もちろん仲麻呂の計略によるものである。しかし家持にとって事態は悪化、やがて橘諸兄は死去、これを機に仲麻呂は行動に出る。皇太子・道祖王を廃して大炊王を新たに皇太子に立てた。さらに橘奈良麻呂を閑職に追いやり大伴氏の高官を左遷した。これに対して大伴一族の怒りは頂点に達した。橘奈良麻呂を中心に政変を起こし仲麻呂を打倒しようというのである。大伴池主も首謀者に加わった。ところが、757年6月28日、長屋王の子・山背王が仲麻呂、孝謙天皇に密告したことで露見する。そしてこのときに、奈良麻呂以下、死刑・流刑に443人が処されたが家持は免れている。家持は事態を静観するという選択を行った。「咲く花は移ろう時あり あしひきの山菅の根し長くはありけり」  

 しかし乱の影響を受けた為か758年現在の鳥取、因幡守に任ぜられた。「新しき年の初めの初春の 今日降る雪のいやしけ吉事」は万葉集4500首の最後を締めくくる歌となった。これ以降、薩摩、相模、上総など地方での勤めを重ねることが多くなった、60歳を過ぎた家持は鎮守将軍として奥州陸奥での勤務を命じられた。部門の大伴氏の名に恥じぬよう、朝廷に敵対する蝦夷と対峙し続けた。785年宮城県多賀城で生涯を閉じた。 

蘇我稲目                 天智天皇
 ┣ 小姉君                      ┃天武天皇631-686       
 ┣ 石寸名郎女                       ┃┃┃┃┗ 刑部皇子665-705(忍壁) 
 ┣ 境部臣摩理勢(蝦夷が滅す)         ┃┃┃┣但馬皇女-708      
 ┃  ┗ 蘇我倉麻呂               ┃┃┃氷上娘-682(鎌足娘)
 ┃  ┗ 蘇我倉麻呂               ┃┃┃氷上娘-682(鎌足娘)
 ┃     ┣ 蘇我倉山田石川麻呂 ━━━━━┓ ┃┃┣長皇子-715
  ┃     ┣ 蘇我日向             ┃ ┃┃┣弓削皇子-699  
  ┃     ┣ 蘇我赤兄623-          ┃ ┃┃大江皇女-699(天智皇女 川島妹) 
  ┃     ┃ ┣常陸娘              ┃ ┃┃         長屋王
 ┃   ┃ ┃  ┣山辺皇女             ┃ ┃┃         ┣膳夫王-729
 ┃   ┃ ┃天智天皇                 ┃ ┃┣ 草壁皇子662-689 ┣葛木王
 ┃   ┃ ┗大蕤娘669-724            ┃ ┃┃ ┣ 吉備皇女683-707 
 ┃   ┃    ┣紀皇女              ┃ ┃┃ ┣ 軽皇子683-707(42文武) 
 ┃   ┃    ┣田形皇女             ┃ ┃┃ ┣ 氷高皇女  (44元正) 
 ┃   ┃    ┣穂積親王   大伴宿奈麻呂┃ ┃┃ 阿閉皇女661-721(43元明) 
 ┃   ┃    ┃ ┃┗但馬皇女┣ 二嬢 ┃ ┃┃  
 ┃   ┃    ┃ ┣今城王   ┣ 大嬢  ┃ ┃┃  
 ┃   ┃    ┃┏大伴坂上郎女-750?┃ ┃ ┃┃ 
 ┃   ┃    ┃┣稲公       ┃  ┃ ┃┃  
 ┃   ┃    ┃大伴安麻呂         ┃  ┃ ┃┃  
 ┃   ┃    ┃┗旅人           ┃  ┃ ┃┃  
 ┃   ┃  天武天皇┗━━━ 大伴家持 ┃ ┣41持統天皇645-703 
 ┃   ┗ 蘇我連子                   ┃ ┣健皇子649-658 
 ┗ 蘇我馬子(嶋大臣)551-626             ┣蘇我遠智娘-649 
      ┗ 蘇我蝦夷587-645               ┗姪娘

 万葉歌人であり、恋多き女性・大伴坂上郎女は、大伴安麻呂と石川郎女の子で、稲公の姉である。母・石川郎女は天武天皇の子・大津皇子と草壁皇子との三角関係の末、大津皇子と結ばれたことで有名な御方である。全てにおいて秀でていた大津皇子に嫉妬の念を抱いて、草壁皇子を溺愛した豊御食炊屋姫(後の推古天皇)は、息子の草壁皇子を皇位につけるべく、大津皇子を謀反の罪で落としいれ誅殺したのである。大伴坂上郎女の異母兄には旅人がおり、大伴家持の叔母であり、姑にあたり、 大伴宿奈麻呂との間にうまれた大嬢は大伴家持の正妻と云われている。初め、穂積皇子(天武天皇皇子。万葉集巻二によれば高市皇子の宮にいた但馬皇女と密通し、同じ頃勅命により近江志賀寺に派遣されている。)に嫁すが、715年に皇子の薨去後、一説に宮廷に留まり命婦として仕える。この頃首皇太子(のちの聖武天皇)と親交を持ったらしく、後年個人的に歌を奉っている。養老年間、藤原麻呂に娉われたこともあり、724年頃 宿奈麻呂は卒し、のち、旅人を追って大宰府に下向する。帰京後は佐保邸に留まり、一家の刀自として、大伴氏を支えた。額田王以後最大の女性歌人であり、万葉集編纂にも関与したとの説が有力で、万葉集に長短歌84首を所載。女性歌人としては最多入集であり、全体でも家持・人麻呂に次ぐ第三位の数にあたる

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