平安時代の歴史紹介とポートレイト (アフェリエイト説明 / ちょっと嬉しいお得情報を紹介)

古代史から現代史に至る迄の歴史散策紹介とポートレイト及び、アフェリエイト/アソシエイト登録方法と広告掲載説明

中臣連不比等 下

2006年09月03日 | 奈良・飛鳥時代

 中臣連不比等

藤原京・律令政治

 694年、藤原京の宮、王族、貴族の邸宅が立ち並び、不比等も女帝が住む藤原宮の近くに邸宅を構えた。武智麻呂、房前を贅沢な邸宅に住まわせ、母を亡くした宇合(うまかい)は石川朝臣の邸宅で養われた。鴨姫は宮子、長我子を伴って新邸に住む。 この頃不比等は補佐役の巨勢朝臣多益須、娼子の一族の石川朝臣宮麻呂と親交を深め、律令政治の実現に向けた中心人物となっている。 そして新都・藤原京において。皇子、王族、貴族は新しい律令政治から不比等をはずすことは不可能であることを思い知らされたのである。(撮影:クロウ)

 

畝傍山、耳成山、香具山に囲まれた藤原京の跡地。ここに朱雀門があったようですが、今は何もありません。(撮影:クロウ) 

 壬申の乱で活躍した官人もほとんどがなくなり、生存しているのは石上朝臣麻呂(55歳)、大伴宿禰御行(60歳?)、阿倍朝臣御主人(60歳)などである。石上朝臣麻呂は壬申の乱では天武に通じ大友皇子の死に場所を伝えた功で重用された。 大伴宿禰御行は壬申の乱では天武側将軍として活躍した。 しかし彼らには律令政治の知識がないので、不比等が説明するのであるがやっかいである。 この制度の基本となるのが戸籍制度であるが、実現の難しさ、重要性がなかなか伝わらないのである。 因みに不比等は律令政治について、女帝、高市皇子、軽皇子に説いている。 軽皇子は十二歳で、県犬養宿禰三千代が教育係である。彼女は県犬養宿禰東人の娘で、河内飛鳥から和泉が本拠地である。不比等は軽皇子を通じて県犬養宿禰三千代としりあったのである。三千代の夫は美努王という王族であったが凡庸で、三千代には物足りない。 美努王は筑紫の太宰率に任命されたが、三千代は軽皇子の養育係を続けるとして、 息子の葛城王(橘諸兄)、佐為王とともに藤原京に残った。 こうして始まった藤原京は16年しか続かなかったが710年の平城京という形で飛躍の基となっているといえる。 藤原京の風俗で代表的なものは高松塚古墳に見られる絵である。

 

 この壁画の女人の髪は束髪であるが、天武朝にはいたって不評であった。上衣は長く膝下まであり、下の裳は縦縞模様で長く、地についている。 天平時代(平城京の時代)にくらべると、地味なようである。 高松塚古墳は遺骨、壁画の物像から天武の第四皇子刑部皇子が有力であるが、 人物群像の持っている蓋(きぬがさ)の色や房の状態から被葬者は一位(従一位・正一位)の人物であると考えられるため、当時高齢で77歳まで生きた石上朝臣麻呂(いそのかみあそんまろ)という説もある。

 

古墳といえば、法隆寺のすぐ西の住宅街にある藤ノ木古墳も有名です。蘇我氏が物部氏を倒した6世紀後半のもので、2体の人骨のほか、大刀・剣6振、金銅製装身具、鏡類、玉類などの副葬品が検出された。  古代にこのような巨大な墓にこだわったのは倭国のみで、高句麗や百済では無いらしい。 当時の王家が不安定であったが故に 誇示するのが目的であるが、当時は白い葺石で覆われ 日の光に 輝いていたものと思われるが数百年も経つと雑木林に覆われ概観は無残なものとなっていった。 日本最大の墓は仁徳天皇陵である。

 695年の藤原京遷都の翌年に太政大臣の高市皇子が倒れて全身麻痺になったというから、今の脳卒中と思われる。 この頃から軽皇子を通して不比等は県犬養宿禰三千代を親密になっていく。 そして696年に高市皇子が43歳でなくなると、翌697年に軽皇子の立太子が行われた。 この時には壬申の乱以降政界を離れていた忍壁皇子が復帰したことから、軽皇子の立太子に推したと考えられる。 また葛野王(大友皇子の長子)も壬申の乱の悲劇を避けるために立太子の正当性を述べた。

文武天皇

 軽皇子皇子は特に問題もなく15歳で皇太子となり、妃を迎える年齢である。 病弱な軽皇子が世継を作らない間に死んでしまえば、女帝の最大の望みは藻屑となってしまう。 この時不比等が考えたのは鴨姫との間に生まれた宮子を軽皇子の妃にすることであったが、不比等は天皇の臣下であるため難事である。 この時以来、不比等は三千代と深い仲になりたいと思うようになり、三千代は鴨姫の娘・宮子を軽皇子妃として手腕を振るうことになるのである。 なんといっても三千代は軽皇子の教育係で、一番気を許せる人でもあったから、その助力を得れば宮子が妃になれる可能性は高い。 ただし後に高位の皇族の女人が妃となれば、それが皇后となり、その皇子が皇太子となる。

 697年、後宮に15歳以下の女人が数名はいった。軽皇子の妃には不比等と鴨姫の子・宮子を含めて3人が選ばれた。 あとの二人は紀朝臣竈門娘(かまどのいらつめ)と石川朝臣刀子娘(とねのいらつめ)である。 軽皇子は後宮で顔色が優れない宮子よりも明るい 刀子娘を好んだというが、県犬養宿禰三千代は、皇子と宮子の仲を取り持ち、最初の閨は宮子が勤めた。 後に宮子は首皇子を産み皇子は45代聖武天皇となるのである。 一方持統天皇は譲位のことを考えていたが、皇太子はまだ15歳であり政務に就ける状態ではない。 不比等がこのときに提案したのは軽皇子を新天皇にし、女帝は太上天皇になるという案である。 これにより軽皇子を新天皇にするという野望を果たすと同時に、女帝の疲労を軽減し、最上位から政務を監督するという政治の要は女帝の采配が振るわれる。かくして697年八月に文武天皇が誕生した。 時に、女帝53歳、不比等39歳であった。

第42代文武天皇檜隈安古岡上陵

 

高松塚古墳の隣100mくらいのところにあります。この頃の天皇陵はとにかくでかい。大海人皇子が墓に民の労力を使うなとばかりに薄葬令を出したが、はやりでかい・・・・。

不比等と三千代

 不比等のみがこれまで女帝の寵愛を受けてきたが、宮子が文武天皇の妃となった頃から皇子、皇族からの敵意の目は消えようとしていた。弓削皇子でさえもである。不比等にとって残る不安といえば県犬養宿禰三千代との噂であったろう。不比等と三千代は大原での一夜以外は肌を合わせず、新天皇を支える協力者同士であると眺められている。 しかし不比等はすぐにでも三千代と結婚したいと望んでいたが三千代には美努王という夫がおり、葛城王(橘諸兄)、佐為王、牟漏女王と3人の子供まで居る。 三千代は学才がなく武術一辺倒の美努王にはなんの未練もなかったが、二人の関係が噂になり太上天皇の耳にはいれば問題である。 不比等は三千代と美努王を離婚させ、奪うことに成功している。女帝は嫉妬の念を抱いたが、15歳の天皇を一人前にするには不比等の力が必要である。 天皇の片腕である不比等を批判することは許されないのである。 それに比べて文武天皇の場合、不比等は臣下というよりも父のようなものであり、県犬養宿禰三千代はかつての乳母であったし第二の母のようなものであるから、二人が結ばれることを大いに喜んだ。 不比等は女帝だけではなく、天皇からも絶大な信頼を勝ち得、不比等に対する反抗は天皇家に対する反抗ともなりえたのである。

首皇子と安宿姫の誕生

 701年、不比等が人生を賭けての念願であった大宝律令が施行された。 土台となったのは飛鳥浄御原令である。 この時不比等よりも上の階位は阿倍朝臣御主人ひとりとなった。阿倍朝臣御主人は67歳であるから実質的には不比等を凌ぐ人物はもはやいないのである。しかも階位は下であっても年長の大伴宿禰安麻呂などには丁重な挨拶をし、立てている。 また粟田朝臣真人などの有能な若手官人は引き立てた。 これらにより不比等を慕う人物が増えていった。 そんな不比等に、更なる恵があたえられた。 文武天皇と宮子妃に首皇子が誕生し、三千代には安宿姫が誕生した。 首皇子は後の聖武天皇であり、安宿姫は後に光明皇后といわれた聖武天皇の妃である。不比等の孫が天皇となり、子が皇后となったのであるから、強運の持ち主であることに間違いはない。

 文武天皇には寵愛した妃・石川朝臣刀子娘がおり、高円朝臣広世、広成の二皇子を設けていた。 首皇子がもちろん王位継承者であることは間違いないが、皇子がなくなった場合は高円朝臣広成が立太子する。 不比等と三千代は首皇子が場合でもこの兄弟に王位継承権がなくなるように、王籍を剥奪するという工作をしている。徹底した念のいれようである。

平城京遷都

 不比等をここまで持ち上げてきた女帝であるが703年崩御された。死の直前に、吉野神の命令であるとして、東国へ旅をしたのであるが、このときの疲れが原因である。 不比等にとって大きな庇護が絶たれた今、首皇子を皇太子とし、安宿姫を妃にする必要があったが、まだ10年はかかる。707年、文武天皇は風邪とも疫病ともつかない高熱に悩まされ、意識のないままに亡くなった。文武天皇が死の直前に、母皇太后に王位継承を遺言したが息子を愛していた阿閉皇太后はショックのあまり閉じ篭るようになり面会できるのは唯一三千代だけであった。 その三千代に説得され、皇太后は王位につく事を決意し、元明天皇が誕生した。即位の翌年、年号は和銅の年は疫病や飢饉が続き、国内は不安定であり、不比等は原因は藤原京にあるのではないかと感じていた。大和三山、葛城山に囲まれた飛鳥は古く、平城の地を新しい藤原氏の都にと考えている。まさに首皇子と安宿姫のための都である。

 

奈良公園の西に、平城京の朱雀門が広大な跡地にひときわそびえています。 

 708年石上朝臣麻呂は左大臣ではあるが69歳という齢のせいか政治にはあまり口出しはしない。 右大臣不比等は遷都に対しては元明天皇の承諾さえあれば良いと考えていた。気になるのは首皇子の病弱である。 草壁皇子は28歳でなくなり、軽皇子・文武天皇も25歳という短命であった。 これは紛れもなく血族結婚が原因である。首皇子に万が一のことでもあれば、石川朝臣刀子娘の皇子が王位継承の対象となる。 石川朝臣刀子娘、紀朝臣竈門娘の不貞を理由に賓の地位を奪い、皇族から外した三千代の策略は不比等を安堵させた。そして715年首皇子は皇太子となると疲労を理由に皇女・氷高内親王に王位を譲り、中継ぎの新天皇・元正が誕生し、 そして安宿姫は皇太子妃となる。 717年に左大臣・石上朝臣麻呂が亡くなったころ、不比等は養老律令の編纂に取り掛かっている。 その3年後不比等は風邪をこじらせて亡くなった。不比等の意思は藤原四兄弟に受け継がれ、後の藤原氏の繁栄をもたらすことにあるのである。

コメント    この記事についてブログを書く
« 藤原不比等系図 | トップ | 中臣連不比等 上 »
最新の画像もっと見る

奈良・飛鳥時代」カテゴリの最新記事