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インマヌエル宇都宮基督教会牧師 山田 隆・勢津子
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牧師・礼拝メッセージ「むしろ大いに喜んで」要約

2011年11月28日 09時52分13秒 | インポート
引照聖句  コリント人への手紙第2、12章5-12節(下記)

▼パウロは内憂外患を持っていた。
 神秘的な神の高揚の経験:第三の天・それはパラダイスに生きながら行かせられたこと。その啓示があまりにも素晴らしいものであったことを表に出して誇りの核心にしております。しかし同時に高ぶることのないように肉体に一つのとげを与えらえていると述べます(7節)。
  このとげは何か。確かなことは不明だが、周期的に起こる肉体的な苦痛を指すと考えられる。偏頭痛、眼病、あるいはてんかん、マラリヤではないかと思われると言われます。これは神のゆるしによるものであること、自分もそれを承知していること。三度もいやしを神に求めたが、神のお答えがあって、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである。」(9節)と言われて、承服しました。そうであれば、 その弱さを誇りましょう、キリストの力が私を覆うために、と発想を転換させられたのです。「キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじましょう。」となったのです。

1、自分自身の中で、神の愛、交わりと、おことばを頂く特権に与かっております。しかし必ずあるであろう、つきまとい、去らせていただきたいトゲがありましょう。これが、遜ることと、むしろそれを誇る理由にしましょう。それによってより一層、神と神の人に似、生来の頑張りでなく、神の恵みと許しで生きるべきことを学ぶでしょう。どちらも神の深い知恵と恵みでです。神をたたえましょう。

2、20、21節、不和はサタンがきよめられない心に働き、互いを不信におとし入れます。牧者の願うことと信徒の期待の食い違い。ある方々の争い、ねたみ、憤り、党派心、そしり、陰口、高ぶり、騒動、汚れ、不品行、好色、を悔 い改めない間はすべての善いものの汚辱となり停止となりましょう。それにもかかわらず、主は世の人々に代わっ て自らを罰しました。これによって人が各自の罪を悔い改めて赦しと永遠のいのちを得るためです。この大義と愛をなおざりしてはいけません。自ら裁きに行くことになりましょう。私たちが、主と神の民、未信者のために、十字架を担っているのは主の御苦しみの一端を担っているのですから、

▼「むしろ大いに喜びましょう。」

「このような人について私は誇るのです。しかし、私自身については、自分の弱さ以外には誇りません。
たとい私が誇りたいと思ったとしても、愚か者にはなりません。真実のことを話すのだからです。しかし、誇ることは控えましょう。私について見ること、私から聞くこと以上に、人が私を過大に評価するといけないからです。
また、その啓示があまりにもすばらしいからです。そのために私は、高ぶることのないようにと、肉体に一つのとげを与えられました。それは私が高ぶることのないように、私を打つための、サタンの使いです。
このことについては、これを私から去らせてくださるようにと、三度も主に願いました。
しかし、主は、『わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。』と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。
ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。
私は愚か者になりました。あなたがたが無理に私をそうしたのです。私は当然あなたがたの推薦を受けてよかったはずです。たとい私は取るに足りない者であっても、私はあの大使徒たちにどのような点でも劣るところはありませんでした。
使徒としてのしるしは、忍耐を尽くしてあなたがたの間でなされた、あの奇蹟と不思議と力あるわざです。」