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インマヌエル宇都宮基督教会牧師 山田 隆・勢津子
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牧師・礼拝説教(要約)

2016年04月18日 06時30分59秒 | メッセージ
【先週の礼拝説教回想】 4月10日
・説教者 山田 隆牧師
・引照聖句 コリント第二の手紙12章7~10節
・説教題  「弱いときこそ強い」
12章9,10節、しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。
ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。

▼この世では、まともに生きて、辛いことだけなら大変で、「弱い」一方でしょう。因みにパウロは以前は、強い一方の、誇ることのできる生き方をしていました。しかし、キリストを知るに及んで、以前の誇るべきものを損と思うようにされました。キリストを知ったがゆえに、ちりあくたと思うに至りました(ピリピ3:4~8)。
 キリスト者にとって、どんな立派な背景や生い立ち、学位や功労があったとしても、パウロのような精神で生きていたら、何と偉大で素晴らしいことでしょう。だれでも、主に会って、望みと模範と身近さを感じるでしょう。
▼「道であり、真理であり、いのち」のゆえに私たちは、一見、そして真実、「弱い」はずですが、実は強くされていると言えましょう。みなさま、こうして生きておられるでしょうか。
▼これらの大敵は「高ぶり」です。高ぶりは、そうでない者が、そうだと思いこむ、言わばこっけいな人のことを指します。ただし、だれにも神から授かった尊厳があります。それを自覚なしに、粗末にすることは、正反対であることぐらいはわきまえて。
 肉体、精神、経済、生活、社会的に悩みや弱さをまとっていないキリスト者はないでしょう。否。人はだれでもそうでしょう。罪からの贖いのゆえにうめいているのだからです。
▼であるならば、キリスト者は、悟り、開き直って、私の弱さを誇りましょう。「弱いときこそ強くされるからです。」