アメリカ帰国者が日々の出来事・人生・世の中などを語るブログ

日本に帰国して矛盾だと感じたこと、人生における発見や日常のことなど色々語ります

いじめを見たら勇気を持って相談を!!!

2012年07月16日 | 社会・人生について
昨年自殺した大津市の中学生の話題がマスコミで大きく取り上げられているが、校長を始め、教育委員会の事なかれ主義の態度にはとても怒りを感じている。学校で行ったアンケートの結果を見ても、トイレでぼこぼこにされた、とか、大金を要求された、とか、死んだ蜂を飲まされたり、など、誰がどう考えてもいじめとしか思えないものを、かれらは何故始めからいじめと認識できなかったのか?そのような、誰が考えてもいじめと思われるものをいじめと考えられないのは、彼らには既に人間としての常識、良識、見識を失った人達で、そのような人間が教育に携わっていること自体、おかしなことで、教育者として失格である。

また、自己保身の為にそのような認めない行動を取ったとしても、そのような行動を取る事自体が人として、人格的欠陥を疑わざるを得ない。

残念ならが、これは教育界だけでなく、普通の会社の多くでもいじめは多発している。子供の世界は大人の縮図、と言われているが、まさにそうなっている。

日本人は集団意識が非常に強い為に様々な悪癖を生んでいる。一人では何もできないくせに、大勢となるとよってたかっていじめる傾向にある。それは間違っているんじゃないの?とおもっている少数派の人達は、自分達がそのターゲットになりたくない為、いじめを傍観しているか、ひどいケースは加担している場合もある。

私が中学生だった頃、既に学校ではいじめがあり、私のクラスでも容姿のことで男子生徒にからかわれている女子生徒がいた。「ウジ虫」というあだ名つけ、放課になると男子数名がその子の机の周りに集まって、ウジ、ウジ、と言い、その女子生徒が毎日泣かされている様子を私は近くで見ていた。大津市の中学校のようなひどいいじめではなく、口だけのいじめで、その子に暴力をふるったりなどはなかったが、口で言われるだけでも本人にしてみればかなり辛いものだ。その辛さを私は傍で感じていたが、周りの生徒はただ傍観しているだけだった。

その男子生徒達に非常に腹が立った私は、どうしたらよいものかと考えた結果、当時、グループで交換日記を回していて、先生に毎日提出していたのだが、それに書いてやろうと思った。日記が私の書く番になったとき、ひょっとすると今度は私がいじめられるかもしれない、という考えがふと頭をよぎったが、それよりも男子生徒に対する怒りが大きかったので、後先も考えずに思い切って書いた。

すると翌日、早速担任の先生が生徒全員に対して、いじめに関する話を持ちだした。これは先生のミスであると今でも思うのだが、その時、先生はなんと私の名前をあげて、この子がいじめられている、と言ったのだ。それを聞いた私は顔面蒼白になったが、幸いその後、その女子生徒に対するいじめはなくなった。

しばらく、その男子生徒達からは文句をさんざん言われ、私も辛い思いをしたが、さほど相手にもしなかったので、しばらくして男子達は私を相手にしなくなった。

今だから思うのであるが、この私の担任の先生はすぐに対処してくれて、本当に立派な先生だと思った。私からの密告を真剣に受け止めてくれて、クラス全体の問題として考えてくれたのだ。その先生の勇気と行動力に、今更ながら深い感謝の念を覚える。

今の大人達は悪事に対して毅然とした態度を取る事ができない人が多い。子供達はそれを既に見透かしており、大人を馬鹿にしているから、彼らの行動はエスカレートするばかりなのである。

いじめは暴行罪、侮辱罪、窃盗罪等の犯罪である。また、いじめを見ていて傍観して何もしなかった人も犯罪に当たるのだ。傍観していて何もしないのは、加害者のしていることを肯定しているのと同じことなのである。いじめを見ている人達は、勇気を持って、先生や親、警察や、NPOなどでいじめ撲滅にとりくんでいる所に相談して欲しい。被害者は言いたくても、更に危害が加わると思うと、どうしても言えないのだ。

傍観していて何もせず、被害者が亡くなった場合、傍観者は必ず後悔の念を持ち、一生悔やまれるのだ。そんな後悔の念をずっと持たない様、自分にできることは何か、小さなことでも勇気を持って行動して欲しい。

そしていじめをいじめとして認めようとしない大人達へ、あなた達はそういう行動を取る事によって、あなた達も子供をいじめている加害者である。黙っていることでいじめを助長し、子供達を正しい方へ教育するよりも、むしろ悪い方へ導いているだけである。教育者としての資質としていかがなものか?

本当のグローバル人材、リーダーシップとは何なのか?

2012年05月24日 | 社会・人生について
日本でグローバル人材、リーダーシップという言葉が蔓延してかなり久しく、企業でもそのような資質を持った人材の需要は高いが、果たして、本当のグローバル人材、リーダーシップのある人間とは何なのか?会社の企業研修や外部セミナーなどで、グローバル人材育成セミナー、などとうたって、あちらこちらでこのような研修やイベントが開催されているものの、果たして日本でそのような人材が育っているのか、はなはだ疑問である。

私自身、以前ある会社でコンサルタントとしてグローバル人材に関するセミナーを企画したり、企業にそのような研修を進める仕事をしたことがある。また大手企業に勤めていた時、社内研修でそのようなセミナーも幾つか実施しており、またダイバーシティ部門など設けて、人材の多様性などに取り組んでいたが、どうやらこれらは全て形ばかりで、実際にそのような人材が育ったとはとても思えなかった。

また、「グローバル人材」「リーダーシップ」の定義も曖昧である。英語が単に出来る人がグローバル人材なのか?海外経験がある、留学の経験がある、だけでグローバル人材になれるのか?研修を受ければ自然とグローバル人材になれるのか?社内に英語を導入すれば、海外研修を導入すれば、グローバルになれるのか?

私も長年、模索していたが、これらの答えははっきり申し上げてノ―である。

その前に、グローバル人材になるよりも何よりも大切なのは、自分自身がどのような人間になりたいのか、自分の有様を問うことが非常に重要だと感じている。どんなに英語が出来ても、たとえ頭が良くても、困難に立ち向かえない人、自分自身を冷静に見つめられない人、弱者を思いやる気持ちがない人、いつも相手の立場にたって考えられない人、など、このような人間性では、たとえ仕事ができても、周りがついていかないし、尊敬も集められないだろう。

ある本にこのような事が書いてあった。「立派なリーダーになる為に出来ることは簡単だ。その人を、到底自分では立ち向かえない困難の中で苦労させることだ。」と。

これは非常に的をついていると思った。人間は所詮、恵まれている環境の中で成長することはたかが知れている。しかし、困難な中で学び、成長することは図り知れない。人間というものは所詮、自分自身が辛い環境に置かれることで、ようやく他人の痛みが分かったり、自分自身を振り返って色々と反省できるものなのだろう。また、そういう中でしか、深みのある人間として成長することはできないのだ。

過去の偉大なリーダー達を見てみると、彼らの成功の裏には想像を絶する程の苦難や困難を経験していることが分かる。

今の日本は恵まれすぎているので、このような環境の中で本当に世界に通用するグローバル人材、尊敬されるリーダーが出てくることは難しいだろう。日本人はそういった大変な事や面倒な事に直面するよりも、とりあえず手っ取り早く、研修やある方法などでグローバル人材になろうとしている傾向があるように見えるが、そんな安易な事ばかりをしているようでは、とても育つとは思えない。

残念ながら、ピアノレッスンの現場でも似たような事が起こっているのではないかと思うことがある。今やピアノの弾き方に関する情報がインターネットやら書籍など、数限りない程あるが、残念ながらその情報どれを見ても、ピアノの「弾き方」ばかりで、その裏にある、練習に向かう心のあり方とか、レッスンやピアノに対する心構え、などといったものが書かれているものが非常に少ない。

従って、今の生徒さんはどうしても安易な方向に向かいがちで、すぐに上達しないと練習を嫌がったり、ピアノを辞めたりする。今の子供達の多くは、面倒な事、嫌な事は出来るだけ避けたいのだ。苦労して何かを得る、という価値観がなおざりにされている。しかし、ピアノの上達法は今も昔も変わらない。それは、毎日コツコツと練習することだ。方法論や教授法ばっかりが目につき、こんな単純な事実がなおざりにされている今の日本。ピアノレッスンに関するセミナーも沢山ありすぎるくらいだが、そのほとんどは方法論ばかりが多いので、私もセミナーに関しては本当に価値のあると思われるものを、慎重に選んでいる。

話が少しずれてしまったが、私自身も今の自分では、とても足りず、立派な人間などとても程遠いが、足元をしっかり見つめて、今できることを精一杯やっていきたいと思う。日本人の中で、世界で活躍したいと思っている人、根性のある人、今の日本に疑問を感じ、変えたいと思っている人は、ぬるま湯状態から飛び出し、どんどん海外に出て、色々苦労をし、経験を積んでいってもらいたいものである。

大災害時に文句を言うべきではない!-東北沖地震について

2011年03月14日 | 社会・人生について
金曜日に発生した東北地方の大地震は、関東に住んでいる私達の生活にも影響を与えているが、政府の対応に文句を言う人が出ているのは残念だ。私は管総理を支持するわけでも、かばうわけでもないのだが、この急遽起った大災害時に、彼は彼なりに懸命に対応していると思う。確かに、情報に関しては、特に原子力発電所に関する状況説明が悪いことも含めて全て明らかになっているとは思えず、計画停電の対応等も感心するものではないが、彼も所詮はただの人間だ。何もかも完璧にこなすことを期待するのは間違っている。

文句を言う人は、もし自分が彼の立場だったら全て完璧に対応できるのかどうか、自分自身に聞いてみるが良い。一国の総理とはいえ、スーパーマンでも、神様でもないのだ。彼の足らないところを周りが補佐し、また私達国民は、特に被害に合わなかった人達は、こういう時こそ政府を支え、自分達でできることをしてあげるべきではないか?

被災地の人達の事を考えると、被害に合わなかった私達は、むしろ、この状況に感謝すべきだ。電車が止まり、停電も起るかもしれず、今後の生活にも何らかの不自由が生じるかもしれないが、被災地の現状を考えれば、こんなことは何でもないことだ。朝、電車が動かなかったから怒鳴ったり、停電の情報が紛らわしい、と小さな事で騒ぎ立てるのは、全く恥ずかしいことだ。

通常の生活がほぼできる私達にとって、多少の辛抱は辛抱のうちに入らない。被災地の人達はそれの何倍も、何十倍、何百倍もの辛抱を強いられているのだ。自分達に不自由が起ったからと言って、声荒げたり、不満を漏らすのは、自分勝手極まりない行動である。

京都大学のカンニング問題について一言

2011年03月10日 | 社会・人生について
京都大学入試試験中のカンニング問題で、仙台の予備校生が逮捕される騒ぎになった。しかし、一方で「周りが騒ぎすぎ」とか、「試験監督こそ問題」という意見が相次いでいる。

確かに、たかがカンニングくらいでマスコミが騒ぎすぎもあるだろうし、試験監督の職務怠慢が今回の事件を引き起こしたとも言える。試験監督がしっかり監督して、本人に注意して携帯電話を取り上げるなどの処置をすれば、公にまで発展はしなかっただろう。これは大いに反省すべきところである。

しかし、「たかがカンニング」とは言うが、「されどカンニング」なのである。今回の事件は、張本人が初めから正々堂々と試験に向かっていれば、起らなかった問題で、あくまでも悪いのは、カンニングをした本人なのである。悪いことは、たとえそれが小さいことであれ、大きいことであれ、悪いことなのである。周りのせいでこうなった、と非難するのは、それは自分の起こした不始末を他人のせいにするのと同じである。それを頭にいれて、主張してもらいたいものである。


大人になれない日本人

2010年09月20日 | 社会・人生について
日曜日の朝、テレビを見ていた時のこと。40代のタレントが3人集まって対談する様子を何気なく見ていた。結婚や家庭のこと、人生のことなどを話していたが、その話す内容は、とてもいい歳をした大人の会話とは思えないのはものもあり、また何よりも彼女達の話し方や仕草に違和感を覚え、毛嫌いさえ感じてしまった。

その会話の様子を書くのさえも馬鹿馬鹿しいので、ここでは割愛するが、いわゆるぶりっこ言葉や赤ちゃん言葉をなどを使い、挙句の果てにはお互い誉め合う場面で、キャーキャー、と騒ぎ、なんとも薄っぺらな軽薄な対談内容だった。 そうえば以前、ハロウィーンの仮装をしてディズニーランドを歩いている人達の紹介があったが、私が見て非常に違和感を感じたのは、いい歳をした大人までもがキャラクターの身をまとってはしゃいでいる様子であった。「ルンルン♪嬉しいですぅ~!」と大の大人が、女子高生さながらに騒いでいるのだ。それをテレビ側は、微笑ましい光景として報道していたようだが、私の様に、呆れた思いで見ていた人も多かったのではなかろうかと思う。(そういう風に思って見てくれている人がまだ多いことを祈るが…)

この日本人の幼少化は一体、何なのか…? アメリカから帰国して数年たったが、私が帰国して真っ先に違和感を感じたのは、日本人男性はロリコンが多いのではないかということだった。テレビを見ると、「女子アナ」と言われる20代の人達が圧倒的に多く、ちやほやもてはやされ、また会社の受付をみると、全てが若い受付嬢ばかりだった。また、会社に入ると、仕事が出来てきびきびしている女性よりも、可愛い子ぶりっ子する女子社員が重宝されるという現象が、特に日本の会社では今だ横行している。

「ぶりっ子」という現象は、共依存症の症状で、いわゆる自分自身をさらけ出せない為に、仮面をかぶった状況らしい。日本人は「個」として確立していない人が多く、周りの評価によって自分の評価が決まるので、ぶりっ子をすることによって可愛がってもらおうという、一種の甘え現象だ。

また、甘え現象のもう一つの例としては、親は自分の面倒を子供に見てもらうのが当たり前だと思っていること。これは日本における特異な現象だ。日本では、介護をしない子供は親不幸だと周りに思われる為、通常の限度を超えた介護が行われ、親子共に共倒れになるケースが増えている。

ずっと前に、ある年配のタレントによる自分の母親の壮絶な介護の様子がテレビで放送されていたが、それをまるで美しいことの様に報道されていたのだ。しかし、これこそ共依存症による悲劇だと私は思う。このタレントさんのように、体力もあり、気力もある人はそう沢山いるわけでもなく、またそれを介護する側に求めるのは間違っているからだ。

人間には全て、自分の出来る範囲というものがある。それを越えて無理すると、自分が不幸になるばかりでなく、周りの人も不幸になる。最近、介護疲れで子供や親を殺すケースが増えているのが良い例だ。そうなる前に、周りに助けを求めるとか、親には施設に入ってもらうようにする、とか健全な対応策を打てない未熟な大人が多い。

最近問題になっている不在高齢者も、根本の原因はよく分からないが、共依存症がもたらしたものだと思えるものもある。高齢者がわがままになり、子供に面倒を見てもらって当たり前だと思っていると、一緒に住んでいる子供も人間なので、たとえ親でも嫌になるだろう。また、それを我慢してちゃんと話し合おうとしない子供にも責任はある。

また、会社においては仕事の責任範囲を明確にしないまま、上司の仕事なのに部下がやったり、正社員が怠けて派遣社員に正社員並みの仕事をやらせるケースが増えている。やらせる側にも問題はあるが、やらされる側も、これは自分の責任範囲を超えている、と主張できない人達が多い。

日本人の多くは、自分と他人の境界線がひきにくい。それは生まれた時から「個」として育てられていないからだ。しかし、時代は変化し、日本では今や外国人やハーフの日本人が沢山住むようになった。今までの価値観では、これからの日本は到底やっていけない。

自分と他人の境界線がひきづらい、人間関係が煩わしいと感じている人には、うってつけの本がある。「境界線(バウンダリーズ)」だ。アメリカの精神医学者が書いた本だが、この著者のうちの一人、ジョン・タウンゼント氏には、私自身、東京でお会いしたことがある。彼はクリスチャンであるが、とても尊敬できる、立派な精神医学者だ。共依存症が比較的少ないアメリカで、このような本が書かれたのは意外であったが、逆にアメリカだからこそ出来たことなのかもしれない。 日本語でも既に出版されているので、全ての日本人に読んで頂きたい一冊だ。