アメリカ帰国者が日々の出来事・人生・世の中などを語るブログ

日本に帰国して矛盾だと感じたこと、人生における発見や日常のことなど色々語ります

世界の平和は、まず家庭の平和から

2016年05月26日 | 社会・人生について
昨日、オバマ大統領が、アメリカの大統領として初めて広島の原爆公園を訪れ、スピーチで核廃絶を訴えられていた。このスピーチに関しては、様々な議論や憶測があるようだが、これは大変、歴史的なこと、特に原爆被爆者の方々にとって大変喜ばしいことであったと受け止めるべきであると思う。オバマ大統領のスピーチは、とても情感がこもったものであり、その後、被爆者の1人の方と肩で抱き合った姿に、人としてのオバマ大統領の温かさを感じた。

オバマ大統領 広島でのスピーチ

このスピーチを聞いた後でふと思ったが、人間は成長するにつれ、大人になるにつれ、賢くなるどころか、何て愚かなことをやるものだ、ということをつくづく感じた。原爆を落とす、又は戦争を始めるのは、大人が起こすことであり、子供はそういう判断はしない。

私達大人は、子供に対して、周りの人達と仲良くしなさい、とか、ケンカしたら仲直りしなさい、などを言うものだが、果たして当の我々、大人達はそのような当たり前のことを、一体どのくらい実行できているのだろうか?

大人になっても人をいじめたり、けなしたり、夫婦仲が険悪のままだったり、挙句の果てには気に入らないと人を殺害する、キレる、殴る、無視する、など、大人になってもなかなか正しく生きることができない人達を多く見かける。

世界の平和を訴えるのは大事なことであり、声高々に平和を訴えるのは簡単なことであるが、その前に、自分の家庭の平和はどうなのか?、友人や親戚、会社の人間関係はどうなのか?、など私たちはまず、自分の足元を見る必要があるのではないのかと思う。

子供はまず、両親から人間関係を学ぶ為、夫婦仲が悪くて家庭に平和がない所は、争いしか知らず、自分と違う人や意見の違う人とどうやって仲良くやっていくのかその術を知らない。平和でない家庭で育った子供は、人間関係構築の術を知らないので、社会に出ていっても他人と上手くやっていけない。

残念ながら、日本でもここ十数年程、離婚率が欧米並みの高さになり、また離婚しなくてもお互い無視している「仮面夫婦」のような家族が多くなり、子供のメンタルヘルスや不登校、いじめなどの問題が後を絶たない。日本の家庭の多くが、平和ではなく、争いの場になってしまっているのだ。


本当に世界の平和を実現したいのであれば、まずは社会の最小単位と言われている家庭の平和をまず、一人一人が実現しなくてはいけないだろう。夫婦が仲良くする、ということは、つまり、世界平和につながることなのである。単に家庭の平和だけで終わることではないのである。世界平和を心底、望んでいるのであれば、子供の為にも、お互い歩み寄る努力をしなくてはいけない。家庭が社会に、そして社会が世界へとつながるのである。

世界の外交においては、歩み寄り、が基本である。お互いの国が自分勝手になって自分の要求ばかりを言って、思い通りにならなかったら無視する、キレる、といったようなことをすればどうなるかは、歴史が既に教えている。

親の生き方そのものが子供の生き方になり、しいては社会、世界へ影響を与えるのだ、ということを私たちは肝に銘じておかないといけないだろう。

疑問を持たざるを得ない沖縄での元米兵による強姦事件

2016年05月23日 | 社会・人生について
先日、また沖縄でアメリカ人による強姦により、20歳の女性が殺害されるなんとも痛ましい事件が起こった。遺族の方が今、どれ程の深い悲しみの中にいるのか想像を絶するが、このような痛ましい事件はなかなかなくならない。日本政府や、アメリカ政府がその対策に未だ本腰を上げていないこともあるが、しかし、所詮、仕事の外において個人でやってしまうことに関しては、そこまでコントロールできないのが現実なので、対策を打つにも限界があるだろう。もちろん、最大限の努力をする必要はあるが。

しかし、今回のこの事件で、おや?っと感じた人は少なからずいるかもしれないが、今回の事件は、現役の米軍兵によるものではなく、「元米軍兵」によるものである。つまり、逮捕された犯人はアメリカの軍兵には属していない人だ。彼は、ローカル採用、つまり、民間企業によって採用され、米軍基地で勤務している人間なのである。にも関わらず、テレビやインターネットなどの報道の仕方を見ると、米軍による犯罪、と書かれている記載が目立ち、「またアメリカ兵か」という印象を国民に与えてしまっており、結果、沖縄県民の感情を更に煽りたててしまっているように思う。

その犯人は、米軍人ではないとはいえ、米軍基地で働いている以上、日米地位協定の適用範囲内である軍属の立場とされるため、軍による犯罪と言われても仕方ないところがあるかもしれない。しかし、厳密には、その犯人は、軍とは直接関係のない人間なので、アメリカ軍には責任はない。責任を問うとすれば、犯人を雇った民間企業が責任を負うべきだろう。

通常、勤務時間内でもし犯罪・事件などが起これば、その人を雇っている会社が責任を問われることになるだろう。しかし、今回の場合は、勤務時間外で起こったことであり、採用した会社とは関係のないところで行われたことなので、その民間企業に責任が問われることはない。従って、今回の強姦事件を起こした犯人は、日本の法の下で彼は裁かれることになる。

そういうところを、日本のマスコミはきちんと報道しないで、米軍による犯罪だと言わんばかりに誇大報道しているようにしか見えない。

この犯人や、犯罪を犯したアメリカ兵を擁護する気は全くないが、よく考えてもらいたい。日本人による性犯罪は、アメリカ軍関係者による犯罪よりも圧倒的に多いのだ。犯罪白書によると、日本人による強姦事件は、年間数十件にのぼっており、警察に届けられていないものも含めるとその数はかなり多いことが推測される。しかし、その中で実際に世間で騒がれているものはごくわずかな為、日本人による性犯罪がまるで少ないように思われているのだ。

また、これは警視庁の犯罪統計資料によるものだが、在日外国人による犯罪数で、最も多かったのは、韓国・朝鮮人によるもので、その件数はなんと3,994人で、ほぼ4千人に近い(2012年統計資料による)。なんと在日全体の60%近くを占めている。その次が中国人の1,252人で、アメリカは5位でその件数は187人と、上位と大きく差が出ている。つまり、在日アメリカ人による犯罪は、全体数で考えるとかなり少ないのだ。

もちろん、人の命の重みを考えると、4千人だろうが100人だろうが、どちらも多い、多すぎる、とも思われる。しかし、何故、他の国籍による犯罪が、アメリカ軍基地関係者による犯罪に比べて、そこまで騒がれないのだろうか?人の命を考えると、どの犯罪も同等に扱われるべきであるのに、何故、沖縄の基地関係のことになると、ここまで騒がれなくてはいけないのか?

先週、テレビの報道ステーションの番組で、この事件が取り上げられていたが、男性コメンテーターがアメリカ軍基地関係者によるこれまでの犯罪数を述べていた時に、「日本の犯罪数のことを上げると、これは別議論になりますので、ここではとりあげませんが....」のような言葉を発し、正直、驚いた。何故、日本の犯罪数を述べようとしないのか?どんな理由で、米軍による犯罪と、日本人による犯罪は別物として扱う必要があるのか、まったく意味不明である。

どうも日本のマスコミは、米軍=極悪人、という図式を作りたがっているようにしか思えない。私は以前、知り合いを通じて横須賀基地に行ったことがあったが、そこで会った米軍兵の人達はとても良い人達で、初めて来た私に対して色々と親切にして下さった。おまけに、一度も会っていないのに、基地の場所が分かりにくいからと言って、あるアメリカ兵がわざわざ私を駅まで迎えに来てくれて、感激したのを覚えている。

大勢いるアメリカ軍の中で、実際に犯罪を犯す人はごくわずかなのに、少数による犯罪のせいで、彼らまでが悪者扱いにされてしまっては、彼らも居たたまれないだろう。

良い人、悪い人は、国籍に関わらず、日本人、アメリカ人、中国人、全世界の中でもいるのである。アメリカ軍だから、というフィルターを通して報道するのは非常に危険であり、また、その報道を我々がそのまま受け止めて、沖縄を理解するのは非常に危険である。

日本のマスコミは、何故、事実は事実として冷静にきちんと判断して、国民に誤解を与えないように正確に伝えようとしないのか?マスコミの役割はそもそもそういうものであり、あくまで中立の立場を貫くことではなかったのか?最近の日本の報道を見て思うのは、事実をねじ曲げて誇大報道をして、何だか日本のナショナリズムをやたら煽り立ているように感じるのは私だけであろうか...?

人の寿命は120歳?~創世記6章からの考察~

2016年05月20日 | 人間について
今日は創世記6章について述べたいと思う。聖書は、何度読んでも、その度に違う発見があり、この様な書物は聖書以外では見当たらないのだが、それはやはり、聖書は神様の言葉だからであろう。

昨年、日本の有名なジャーナリストである池上彰氏が、あるテレビ番組で聖書は世界のベストセラーである、と紹介されていた。彼が実際、クリスチャンであるのかどうかは分からないが、聖書とは何なのかを分かりやすく説明している。先日、こちらのブログで述べたアダムとイブについても述べられているので、ご興味のある方は下記を是非御覧頂きたい。

池上彰の「聖書とはなにか。その歴史と現在」

この中で、池上氏は、聖書は欧米諸国の常識となっている、また、後半では世界情勢が聖書によって渦巻いており、現代社会においても影響を及ぼしていることを説明している。しかし、聖書は欧米諸国だけでなく、実はこの日本にも様々な影響を及ぼしている。これは日本人の間であまり知られていないが、親鸞によって始められた浄土真宗は、実はキリスト教をベースとしている。親鸞は、キリスト教を学んでいたことが分かっており、聖書を読んで、これは良い!と思った親鸞は、聖書をベースに別の宗教を作ったのである。

また、世界にある憲法も、聖書をベースにしたものが多い。また、世界情勢が聖書を中心に、現代社会まで影響を及ぼしていることを考えると、やはり聖書が本物だからであろうと思わざるを得ない。聖書が何故、何千年も、ここまで騒がれ、それによって多くの戦争や争い、虐殺までが起こるのだろうか?それは、やはり本物だからであろう。人間、本物であるかどうか分からない、「なまぬるい」ものについては、ここまで騒がないし、騒いだとしても、一過性のもので終わってしまう。

さて、前置きが長くなってしまったが、今日、創世記6章3節を読んで、ふと疑問に思った。神様は、地上に人による悪がはびこるのを見て、次のように述べている個所である。

「わたしの霊は、永久には人のうちにとどまらないであろう。それは人が肉にすぎないからだ。それで人の齢は、120年にしよう

これは、かの有名なノアの箱舟が作られる前の話であるが、しかし、ノアが箱舟を完成して、洪水が終わった後の人の寿命が即、120年になったわけではない。そこで、調べてみたら、2つの解釈があることが分かった。

①文字通り、人の寿命を表しており、寿命を120年とした
②神様が、洪水によってノアの家族以外の全人類を滅ぼすと宣言してから、実際に洪水が起こるまでの年

海外の文献も含め、インターネットで色々検索すると、①が正しい、いやそうではなくて①は間違っていて②が正しい、と記載されているのが多かったが、これは神様に聞かないと分からないので、どちらが正しいのか、決めつけるのは非常に危険であると思う。私は、どちらの解釈があっても良いと思う。

何故なら、①の場合は、洪水の後、確かに人の寿命はすぐに120歳に縮まったわけではない。しかし、創世記11章10節以降を見るを、ノアの息子の一人、セム以降の子孫の寿命がだんだん短くなっているのが分かる。その後に出てくるモーセは、120歳で亡くなっている。

②の場合、ノアに3人の息子が生まれてから箱舟を作り始めたと考えられるので、これが正しいと仮定すると、5章32節に記載されているように、箱舟を作り始めたのは彼が500歳の時、そして洪水が来たのが600歳だと記載されているので、箱舟の制作期間が100年になり、120年には満たない。これを考えると、②の可能性が低いと考える聖書学者がいるが、しかし、人の年齢も皆、きっちり120歳になっているわけではない。実際、モーセの兄、アロンの寿命は123歳で120歳を超えている。


しかし、いずれにせよ、神様は宣言してから事をすぐに起こされる方ではない。この世の終わりは、既にイエス・キリストによって宣言されているが、旧約聖書の時代でも、預言者ダニエルによっても宣言されており、あれから随分時が経っているように見えるが、実際に、今の世の中は既に終末の時代に入っており、この世の滅亡がいつ何時に来てもおかしくないのである。

ノアは箱舟を作るのに100年かかったが、神様だったら、ノアにもっと知恵を与えて箱舟を3年で作ることだって可能だったはずである。しかし、100年もかかったということは、ある意味、ノアの家族以外の人類が悔い改め、神に立ち返ることを期待していたからではなかろうか?しかし、その神様の恩恵を無視して、人々は100年経っても神に立ち返ろうとはしなかった。

ここに、人間の頑なさを見ることができるが、神様を知らない人間は皆、こうなのだということを聖書が示しているように思う。神様を信じる前の私もそうであったが、しかし、神様を信じているからといって、自分の頑なさが全部消えたわけではない。聖書から正しいことを学んでも、古い自分がまだ残っており、その古い考えがなかなか捨てられず、現実と神様の言葉の狭間で苦しむこともある。人間は肉として生きている以上、全ての人が罪を背負っているのであり、それはクリスチャンも同じなのである。

この世の終わりが預言されてからすぐに事が起こらないのは、それは一人でも多くの人達が神に立ち返るように、悔い改める為に神様が与えている期間であり、これが当たり前の様に、しかもずっと続くと考えてはいけない。また、この世の終わりが来る前に、私たちの命が突然、奪われることもある。その日が来る前に、死というもの、また、自分は一体何に向かって生きているのかを真剣に考えないと、その時が来た時に後悔することになるのではなかろうか?



原罪から、男女の違いを考える~創世記3章からの考察~

2016年05月17日 | 人間について
このブログをしばらく休んでいましたが、この度、新しいタイトルに変更し、日々聖書を読む中で気づいたことを書いていこうと思います。私も人間なので、間違った見方や解釈があるかもしれませんが、その際はご意見・ご指摘頂けますと幸いです。(念のため、これはエホバの証人(ものみの塔)・モルモン教・統一教会とは、全く関係ありません。)

さて、今朝、旧約聖書の「創世記」の3章を読みましたが、これまで湧いてこなかった疑問が湧いてきました。それは、何故、蛇がアダムではなく、女性のイブに、禁断の実を食べるようにそそのかしたのか?でした。

この蛇は、新約聖書の黙示録12章9節に記載されていますが、悪魔だということが分かっています。つまり、悪魔がこの蛇に入り、神様が創造されたアダムとイブを神様から引き離そうと試みます。悪魔の目的は、人間を神様から引き離すことであり、彼の目的はアダムとイブ、共に神様から引き離すことでした。

では、何故、この蛇はアダムとイブ2人に対して同時にそそのかさなかったのか?また、何故アダムではなく、イブにターゲットを置き、彼女をそそのかそうとしたのか?

悪魔は元々は神に仕える天使でしたが、堕落してしまったために、神から離れてしまった者です。従って、他の天使達と同じような能力を持っている為、どのようにしたらこの2人をそそのかすことができるのか、よく知っていました。悪魔とは言え、神様から創られた者ですから、相当に知恵があり、悪賢く、人を欺くのに長けています。2人の性質を良く知っていたこの蛇(悪魔)は、2人同時にアプローチ、又はアダムだけに直接アプローチする方法ではなく、イブにアプローチする方法を取りました。

では何故、イブがターゲットにされたのか?創世記の2章から読んで見ると想像できますが、神様はまず、アダムを創造しました。そして、神様はアダムに対して直接、善悪の知識の木からは取って食べてはならない、と言っています。つまり、アダムは神様を直接見ており、神の声を直接聞いていました。

一方でイブは、アダムのあばら骨を取って、後から創造されました。神様が直接、イブに対してその木を食べてはならない、と言っている個所がないため、彼女はアダムから聞いて食べてはならないと聞いていたことが想像できます。つまり、イブは、神様の言葉をアダムを通して間接的に聞いていた、つまり、また聞きをしていたということになります。

このような状態になった時、勘の良い方は既にお察しかと思いますが、また聞きの場合、その情報が100%正確に伝わることはあまりありません。特に女性の傾向として、男性と比べるとうわさ話やゴシップ好きが多いことを考えると(全ての女性に当てはまるわけではありませんが)、理解できるかと思います。うわさ好き、おしゃべり好きのおばちゃん、は良く聞きますが、うわさ好きのおじさん、はあまり聞かないですよね?

その証拠に、創世記3章3節でイブは次のように蛇に言っています。「しかし、園の中央にある木の実について、神は『あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない』...と仰せになりました。」

しかし、創世記2章を見ると、神様が「それに触れてはいけない」とは一切、言っていません。これは、イブによる明らかな誇張なのです。イブが勝手に付け加えてしまいました。蛇にそそのかされた彼女は、きっと不安になって、神様が言ってもいないことを、あたかも神様が言ったかの様に、自分で付け加えてしまったのでしょう。非常に計算高いその蛇は、イブがそのような状態になることを予め分かっていたため、彼女の弱みに上手く入りこむことができたわけです。

これは私達人間にもよくあることです。特に自分が何かに、誰かに対して不満を持っていたり、また、職場で自分では難しいと思われる仕事をやるように言われたり、何か困難に遭った時などは、私たちはありとあらゆる理由をつけて、本来の事実とはかけ離れたことを言って、言い訳をしようとしたりします。特に人間関係、夫婦関係や職場の人間関係、家族関係に問題を抱えている人達は、まるで自分が全て正しく、相手が全て悪い、という話方をされる人達を多くみかけます。

その性質が既に、アダムとイブから現れています。神から、あの木の実を食べたのか、と問いただされた時、アダムはイブがそそのかしたと言い、その責任を彼女になすりつけました。また、イブは蛇がそそのかしたと言い、その責任を蛇になすりつけています。ここに、既に人間の原罪(神様から離れ、自分勝手に生きること)が始まりました。


この世的な観点から見ると、悪をそそのかした蛇が最も罪が重いでしょう。そして、蛇にそそのかされたとはいえ、それに応じたのはイブです。聖書を読む限り、蛇が無理矢理、イブに禁断の実を食べるように無理強いしたわけではありません。「食べない」という選択もあったわけです。けれども、イブは蛇の言葉に揺り動かされ、自分の意志でその木の実を取って食べ、更にそれだけでなく、アダムにもそれを勧めたので、彼女の罪は蛇の次に重いと判断されるでしょう。そして、イブの勧めに応じてしまったアダムも、結局は自分の意志で食べてしまったので、彼も罪に定められました。これを見ると、一般的に男性は女性の誘惑に負けやすい、というのはここから発生していることが分かります。

人間的観点から罪の大小はあるとはいえ、神から見れば、罪の大きい小さいは関係ないので、それぞれに罰を下されました。私たちが生きている間に受けなければいけない罰です。女性には産みの苦しみを、男性には生涯、額に汗を流して糧を得るという労働を課し、そして2人共に下された最も重い刑が、死でした。

ここでふと思ったのが、世界的に見ても、男性よりも女性クリスチャンの方が多いのは(特に日本では残念ながら未だ女性が圧倒的に多いですが)、イブが蛇(悪魔)に直接そそのかされた分、女性は意識的、無意識であれ、その罪の重さ、自分の弱さをより自覚しているからではないだろうかと思うのです。その罪深さ故、神様は女性に多くの恵を与え、多くの女性達が救われたのではないでしょうか。

一方、アダムは、木の実を食べてしまったのその罪はもちろん、大きいですが、蛇(悪魔)から直接そそのかされたわけではないので、罪の意識がイブ程ではなかったのではないかと思います。男性は女性に比べてプライドが高いと言われがちなのは、この様な所から来ているのではないかと推測されますが、プライドが高いと、なかなかありのままの自分を見つめたり、自分の弱さを認めることが難しいので、結果、神様の言葉がなかなか受け入れ難くなります。女性よりも男性のクリスチャンが少ないのは、このような理由なのではないかという気がします。しかし、アダムは直接神様を見て、神様の言葉を聞いているわけですから、男性が一旦、神様を信じるようになれば、素晴らしいクリスチャンになれるような気がします。(実際、世界の有名なクリスチャンリーダーを見ていると、女性よりも男性の数の方が圧倒的に多いです。しかしこれは、女性が男性よりも劣った者であるということを言っているわけではありません。女性でも素晴らしいクリスチャンリーダーは数多くいます。聖書では、男性も女性も同等の人間として扱われています。)

しかし、中には、理性的で合理的に考える女性や、男性でも自分の弱さを認めることができる方もいらっしゃるので、一概にこうである、とは言い切れません。しかし、男女の傾向として、創世記からこの様な事実があると知ることは、自分自身を深く理解すると共に、男性や女性ご、夫や妻を理解する上で大切なのではないかと思います。

これを見ると、男女共に罪を犯した者であるものの、神様は両者それぞれに多くの恵を下さっていることが分かります。そして更に、イエス・キリストをこの世に送り、彼が十字架にかかって下さったことによって私たちの罪を帳消しにして永遠の命が与えられた、という最も大きい恵を下さいました。

この世の中がどうであれ、自分が置かれている状況がどうであれ、聖書の言葉を歪めないで、自分で理屈を付けないで、ありのままにいつも受け入れることの重要性を思い知らされた気持ちになりました。