2019年、東京の池袋で飯塚幸三被告が運転する車が暴走し、11人が死傷した事故の裁判の被告人尋問に関するニュースが今朝、目に飛び込んだ。その公判後の、妻と子供を失った松永さんとその弁護士団による記者会見を動画で拝見したが、松永さんの質問に対する飯塚被告の答えがあまりに酷いもので、見るに堪えなかった。
車には不具合がなかったことが判明していたにも関わらず、飯塚被告はシラを切り続け、自分は悪くないと主張するだけでなく、松永さんが証拠として提出した妻と子供の写真を見たか、という質問に対しても、本当は見ていないのにクリスマスや遊園地の写真を見た、というでたらめな回答だった。これは誰が見ても、飯塚被告にもはや人としての誠実性に欠けており、信憑性がもはやないことは明らかであろう。
これまで記者会見でも落ちついた様子で対応していた松永さんだったが、今回ばかりはさすがに堪忍袋の緒が切れたのか、発言の節々に怒りや諦め、失望感が見え隠れしており、かなり感情を抑えていたことが伺い知れる。本当は飯塚被告に対して怒鳴りたい、胸倉をつかんで殴り倒したい気持ちだったかもしれない。
それにしても、ドライブレコーダーやメーカーからの証言など証拠がこれだけ揃っているにも関わらず、それでも尚、自分は悪くないと無罪を主張し続ける飯塚被告に対して批判の目が向けられるのは当然と言えば当然なのである。記者会見の動画を拝見した私もそのような気持ちで見ていたが、しかし、ふと、
この様にここまで頑固で頑なな心は、何も飯塚被告だけでなく、私達人間全ての人が持っている性質なのである。
ということに気づいた。
聖書に書かれている通り、全てこの地球上で生きている人間は全員、罪があるが故に自己中心的で自分勝手なのだ。みんな、自分が正しく、自分が可愛いのだ。何か悪いことがあると全部他人のせい、周りや環境のせいにするのが私達人間の性なのである。
私の母親側の親戚は、私が子供のころからずっと争いばかりを続けているが、双方の言い分を聞くと、どちらも自分は全く悪くない、相手が悪いのだ、と言い張る。子供の頃はよく分からなかったが、大人になってから、この争いは双方に問題があり、どちらか一方が決して悪いわけではないということが分った。それを双方に知らせたが、それでも両者は全く耳を貸そうとせず、ますます頑固になり、へりくだって相手のことを考えることができなくなっている。
この固い心は、残念ながら他人が変えることはできない。
人は他人を変えられないのである。本人が自覚してへりくだらない限り、変わることは決してないのである。それが分ってからは、私は自分の母親とその母親の兄弟と少し距離を置くことにした。どちらかを見方して公平さを失わないようにするためである。
先日、たまたまYouTubeである牧師のメッセージを聞いていたら、このようなことをおっしゃっていた。
私達は、盗むから盗人になるのではなく、もともと盗む性質があるから、物を盗むのである。
私達は、ウソをついたからウソつきになるのではなく、もともとウソをつく性質があるから、ウソをつくのである。
非常に的を得た言葉だと思った。同じように、人間はもともと頑なな心があるから頑固なのであり、これはクリスチャンであるなしに関わらず、人間誰もが持っている非常にどうしようもない醜い性質なのである。
私達は全員、生まれた時から頑固で醜い性質を持っている。唯一、これに気づかせ、修正して下さるのは神様だけなのである。
従って、私達誰一人として、飯塚被告を非難する権利はないのである。
人類がいかに神に対して反抗的で頑なな心で生きて来たかは聖書の随所に書かれているので、人間の本質を知りたい方は、聖書を是非読んで頂きたい。何故なら、聖書で書かれていることは、今の私達にも十分、当てはまることだからである。