アメリカ帰国者が日々の出来事・人生・世の中などを語るブログ

日本に帰国して矛盾だと感じたこと、人生における発見や日常のことなど色々語ります

無責任上司に対してノーと言えますか?~2サムエル記18章より~

2017年05月16日 | 仕事・働くことについて

旧約聖書のサムエル記を読んでいると、国家や組織のあるべき姿が見えてくる。聖書には、私達人間が正しい方向に行くためのヒントが盛りだくさん書かれているが、残念ながら国家や会社の組織でもそれを実践しているところはほとんどない。結果、今の社会・世界が混沌とした非常に政情不安定な状況になっている。

IIサムエル記18章を見ると、今の時代の無責任上司がここでも存在することが分かる。当時のイスラエルの王、ダビデの右腕の戦士として活躍したヨアブである。ヨアブは大変有能な戦士だったが、血気盛んで横暴、気が短い所があり、サウル(ダビデの前の王。ダビデに嫉妬し、殺害しようとして自ら滅びに至った。)に仕えていたアブネルを危険な人物だと勝手に思い込み、殺害した経緯がある。 ダビデはこれを知っていて後にヨアブを呪ったが、優秀な戦士だっただけにダビデは何も罰を与えなかった。後に自分の息子ソロモンに死罰を下すように伝えているが、この時点では、ヨアブが相当な力を持っていたためにダビデは何も手出しできなかったようである。

組織の中にも彼のような人物を見かけることがある。人望はないが、人脈も広く、仕事ができるがために出世し、いずれは組織の害になっていく人。トップ人達も敢えて放置し、結果、傷口がどんどん広がっていき、組織全体を駄目にしていく。そしてこのような人は部下にも好かれていない。

その証拠に、IIサムエル記18章を読んでいくと、ヨアブの部下が、ダビデを殺害しようと戦っているダビデの息子アブシャロムの頭が木にひっかかっているのを見て、ヨアブに報告した。それに対してヨアブは11節で、「いったい、お前はそれを見ていて、何故その場で地に打ち落とさなかったのか。」と、部下を叱責した。 それに対してその部下は、ダビデから殺さないように、と命令されているから、それはできない、ときっぱり断っている。しかもヨアブに対してこうも言い切っている。 「もし私が自分の命をかけて、命令にそむいたとしても、王には何も隠すことはできません。その時、あなたは知らぬ顔をなさるでしょう。」

彼は、自分がヨアブの命令に従って、その結果、ダビデからお咎めがあっても(当時は死罪だった)、ヨアブは知らん顔をする、と分かっていたのである。つまり、ヨアブは無責任上司だということを、この部下は既に見抜いていたのである。

日本の政治も会社の組織の中でも責任の所在がはっきりせず、結果、多くの無責任上司・政治家が残念ながら存在している。しかし、新約聖書のローマ人への手紙13章1節に、「人はみな、上に立つ権威に従うべきです。」という言葉通り、無謀で横柄な上司に対しても従わなくてはいけない。

けれども、この言葉はただ妄信的に従いなさいと言っているのではない。人間はあくまで最終権威者である神の命令に従うべきであって、それが神様が言っていることと食い違っていたり、人として間違っていることは、たとえ上司でも従いなさいと言っているわけではないのである。

そういう点で、このヨアブの部下は非常に勇気があり、正しい行動をとっていたと思う。果たして今の日本社会で、明らかに間違っている上司に対して彼のように勇気を持ってノーと言える人がいるのであろうか?これは、聖書にかなり深く根ざして生活をしていないと、なかなかできないことだと思う。何故なら私達人間は皆弱く、見えない神よりも目の前の人を恐れており、他人のことよりも自己保身に走る傾向を持っているからである。

このヨアブの部下が上司に逆らった後、どのような人生をたどったのか、それは残念ながら書かれていないが、恐らくは上司に逆らった多くの人が辿るように、左遷されるか、同じ地位にとどまったとしても冷遇されるか、決して良い扱いは受けなかったであろう。

カネボウ株式会社の前社長兼会長であった三谷康人さんも、彼が現役の時に上層部の人達の受けが悪かった為に3回の降格と左遷をされたが、そんな中でも神様を見出して決してくじけず、左遷先でも結果を出し続け、その結果、1992年社長に上り詰めた。 三谷氏は奥さん共々、クリスチャンであるが、神に根付いた生活を実践していたからこそ、何をも恐れず、ただ正しいと思われることを勇気をもって行うことができたのであろう。何年か前に個人的にお会いしたことがあり、三谷氏の家にお誘いを受けたことがあるが、彼と奥さんの信仰心の強さには脱帽である。

興味のある人は、彼の著書、”ビジネスと人生と聖書-勝利へのマスターキー”を、読んで見るとよい。


 


国が繁栄するのに最も大事なことは、正義である

2017年05月07日 | 政治・国際情勢について

日本の政治の体たらくぶりは今更に始まったことではないが、それにしても問題が次から次へと矢継ぎ早に起こり、歯止めが利かないようである。森友学園を含めた数々の政治と金の問題、大臣の失言、女性問題にまつわる不祥事など、数えたらキリがない。またそれだけでなく、国会答弁を見ていても、防衛大臣がまともに答弁できない、どう考えてもとんちんかんな答弁しかできない法務大臣。私は仕事で通訳をすることもたまにあるが、思わず、この答弁の通訳をするとしたら、本当にバカバカしくて通訳もしたくない、日本の恥さらしをするだけの、本当に馬鹿げた答弁であると感じてしまった。

日本を引っ張るトップレベルの人間が、この様な体たらくで本当に良いのか??政治だけでなく、警察官による不祥事や事件も多く、警察自体も体たらくになっているようである。本来、批判的な観点で物事を洞察しなくてはいけないはずのマスコミもこれらの問題に関して真剣に取り上げるということもしないから、結果、政治家達は何をしても許される、と感じるようになり、国民をすっかりなめてしまっているのではないかと強く感じている。

人の前に立つこの様な大人の姿を見ていると、若い人達や子供が悪いことをしても許されるんだ、罰せられないんだ、と思い、世の中をなめるようになる。そうすると、この人達が大人になって国を引っ張る立場になると、体たらくさがますます度を増すばかりになるのである。

現在、旧約聖書の第二サムエル記を読んでいるが、ここではイスラエルの王、ダビデの王としての有能ぶりが数々記されている。このサムエル記を読んで見ると、彼は、自分の為に働いてくれた側近や部下に対しても、罪を犯した場合は、それが意図的であろうとなかろうと、死という厳しい処罰を下していたことがわかる。

今の時代だと、大変厳しい処罰だと思うのだが、この時代はイエスが来る前の、律法の時代であったため、この様な厳罰な処罰が下されていたのであろう。今の時代であれば、ここまで厳しくする必要はない。しかし、厳しくする必要がないからと言って、緩すぎる処罰(もしくは処罰がない)となると、これでは周りに示しがつかず、モラルが下がり、人々はトップについていかなくなる。これは、会社の組織でも同じことである。

ダビデが有能だったのは、第二サムエル記8章15節に記載されているように、「その民のすべての者に正しいさばきを行った。」からだ。たとえ、自分の為に命をかけて戦った部下でさえ、ダビデの判断を仰がないで勝手な行動を起こした為に、死という厳罰な処分を下していた。

同じ旧約聖書の箴言では、国を繁栄させる為の唯一大事なことが記されている。

正義は国を高め、罪は国民をはずかしめる。」(箴言14章34節)

その証拠に、ダビデは姦淫の罪を犯して以来、正しい裁きをするどころが、無実で忠実な部下を殺害するまでに至り、結果、人々はダビデから離れていき、挙句の果てには、自分の息子に追われて、国を出ていく羽目になってしまっている。この時点では、イスラエルは既に経済的にも潤っていたと思う。にも関わらず、人々の心がダビデから離れてしまったのは、このダビデの体たらくさ故だったのではあるまいか。

国を繁栄させるのは、経済政策や教育政策、軍事政策でもない。正義がまかり通っているかどうかなのである。従って、国のトップになるような人は、人格高潔でないといけないのであるが、残念ながら、今の与党も、そして野党にもそのような人物は見当たらない。(しかし、個人的には、最近は表舞台に現れていないが、私が尊敬する高潔な政治家が一人いる。その人に将来、首相になってもらいたいと思っているのだが。)

トップたる者は、自分の取り巻きや部下に甘い人であってはならないのだが、残念ながら状況を見ると、まるでお友達のように馴れ合いごっこをしているようで、緊張感がまるでない。このような環境では、正義もへったくれもなくなってしまうのであろう。