アメリカ帰国者が日々の出来事・人生・世の中などを語るブログ

日本に帰国して矛盾だと感じたこと、人生における発見や日常のことなど色々語ります

身近で突然死がありました ~自分の命をどう扱っていますか?~

2021年07月31日 | 人間について

あなたがたには、あすのことはわからないのです。あなたがたのいのちは、いったいどのようなものですか。あなたがたは、しばらくの間現われて、それから消えてしまう霧にすぎません。(ヤコブ4章14節)

これは新約聖書の1節である。3日前、友人の旦那さんで私も彼を知っているが、その旦那さんの弟さんが突然死したということを聞いた。病気らしい病気も特になく、前日までは全く元気だったのに、翌朝になっても目が覚めず、そのまま逝ってしまったそうだ。死因は分かっていない。兄である彼はさぞ計り知れないショックを受けただろう。お別れもなく逝ってしまったのだ。こんな悲劇があるだろうか。

考えてみれば、コロナが蔓延してから、急に容体を悪くして亡くなってしまうという悲劇が後を絶たない。東京都内では感染者数が3,000人を超えているにも関わらず、若い人達を中心に外出が後を絶たず、感染者は増える一方だ。東京都を出て旅行に出かける人もかなりいるようで、それが更にウィルスを地方へまき散らしている。

何故、彼らはこのような行動が彼らにできるのでしょうか?それは、

自分の命に対する高ぶり

があるからである。自分は絶対に感染しない、感染しても若い人は重症にならないから大丈夫、自分は感染していないから地方へ旅行をしても大丈夫とか、また高齢者は高齢者で、友人や親戚同士の集まりだからマスクをしなくても大丈夫とか、と心のどこかでそう思っているから、このような行動ができるのだと思う。

でも、そんな確証はどこにあるのでしょうか?政府自体も、そんな確証は全くないのにオリンピックを強行するから、国民は言うことを聞かなくなったとも言えるが、国がバカなことをやっているから、私達もやっていいという理由はどこにもない。日本政府は、国民の命が大事と言いながらも所詮は他人ごとなのである。だから、オリンピックがやれるのである。そして国民も、所詮は他人ごとと考えるから、このような軽率な行動ができるのである。

まず私達が絶対に知らなくてはいけないのは、

私達の誰一人として自分の命を支配することはできない

ということである。私達の命は、いわば神の領域であり、それを認めずに自分を誇り、神様が私達一人一人の命を支配しているという事実を認めたくない、という傲りこそ神への高ぶりであり、罪の根源なのである。そして、その高ぶりの罪に対して、神様は必ず私達を裁かれる、ということが聖書にはっきり明記されています。

また、自分たちの死後の備えに対して何も考えない、ということも命に対する高ぶりなのである。

あなたはもし明日、突然死してしまったら天国へ必ず行けるという確証がありますか?

あなたは明日も明後日も、1週間後、1年後も必ず生きているという確証がありますか?

死後の世界は永遠です。聖書にははっきりと、イエス・キリストを私達の救い主として信じない人達は神によって裁かれ、永遠の苦しみに入ると言っています。自分の命について真剣に考えない人は、自分が永遠の苦しみの中に入ってもいい、と言っているのと同じなのです。

あなたの命は、明日まで待ってくれないかもしれません。自分の命について、真剣に考えたいと思っている人は、まずは聖書を読んでみて下さい。聖書に書かれていることが真実かどうかは、読んでみて判断してください。多くの人達は、ろくに読みもしないで聖書やキリスト教を否定しています。

自分の命を決して軽視しないで下さい。自分の命を軽視する人は、他人の命も軽視します。特にこのコロナ禍においては、他人の命も考え、行動は慎重にするべきだと思います。

 

 


飯塚被告から私達が学ぶべきこと~池袋暴走事故公判について~

2021年06月23日 | 人間について

2019年、東京の池袋で飯塚幸三被告が運転する車が暴走し、11人が死傷した事故の裁判の被告人尋問に関するニュースが今朝、目に飛び込んだ。その公判後の、妻と子供を失った松永さんとその弁護士団による記者会見を動画で拝見したが、松永さんの質問に対する飯塚被告の答えがあまりに酷いもので、見るに堪えなかった。

車には不具合がなかったことが判明していたにも関わらず、飯塚被告はシラを切り続け、自分は悪くないと主張するだけでなく、松永さんが証拠として提出した妻と子供の写真を見たか、という質問に対しても、本当は見ていないのにクリスマスや遊園地の写真を見た、というでたらめな回答だった。これは誰が見ても、飯塚被告にもはや人としての誠実性に欠けており、信憑性がもはやないことは明らかであろう。

これまで記者会見でも落ちついた様子で対応していた松永さんだったが、今回ばかりはさすがに堪忍袋の緒が切れたのか、発言の節々に怒りや諦め、失望感が見え隠れしており、かなり感情を抑えていたことが伺い知れる。本当は飯塚被告に対して怒鳴りたい、胸倉をつかんで殴り倒したい気持ちだったかもしれない。

それにしても、ドライブレコーダーやメーカーからの証言など証拠がこれだけ揃っているにも関わらず、それでも尚、自分は悪くないと無罪を主張し続ける飯塚被告に対して批判の目が向けられるのは当然と言えば当然なのである。記者会見の動画を拝見した私もそのような気持ちで見ていたが、しかし、ふと、

この様にここまで頑固で頑なな心は、何も飯塚被告だけでなく、私達人間全ての人が持っている性質なのである。

ということに気づいた。

聖書に書かれている通り、全てこの地球上で生きている人間は全員、罪があるが故に自己中心的で自分勝手なのだ。みんな、自分が正しく、自分が可愛いのだ。何か悪いことがあると全部他人のせい、周りや環境のせいにするのが私達人間の性なのである。

私の母親側の親戚は、私が子供のころからずっと争いばかりを続けているが、双方の言い分を聞くと、どちらも自分は全く悪くない、相手が悪いのだ、と言い張る。子供の頃はよく分からなかったが、大人になってから、この争いは双方に問題があり、どちらか一方が決して悪いわけではないということが分った。それを双方に知らせたが、それでも両者は全く耳を貸そうとせず、ますます頑固になり、へりくだって相手のことを考えることができなくなっている。

この固い心は、残念ながら他人が変えることはできない。

人は他人を変えられないのである。本人が自覚してへりくだらない限り、変わることは決してないのである。それが分ってからは、私は自分の母親とその母親の兄弟と少し距離を置くことにした。どちらかを見方して公平さを失わないようにするためである。

先日、たまたまYouTubeである牧師のメッセージを聞いていたら、このようなことをおっしゃっていた。

私達は、盗むから盗人になるのではなく、もともと盗む性質があるから、物を盗むのである。

私達は、ウソをついたからウソつきになるのではなく、もともとウソをつく性質があるから、ウソをつくのである。

非常に的を得た言葉だと思った。同じように、人間はもともと頑なな心があるから頑固なのであり、これはクリスチャンであるなしに関わらず、人間誰もが持っている非常にどうしようもない醜い性質なのである。

私達は全員、生まれた時から頑固で醜い性質を持っている。唯一、これに気づかせ、修正して下さるのは神様だけなのである。

従って、私達誰一人として、飯塚被告を非難する権利はないのである。

人類がいかに神に対して反抗的で頑なな心で生きて来たかは聖書の随所に書かれているので、人間の本質を知りたい方は、聖書を是非読んで頂きたい。何故なら、聖書で書かれていることは、今の私達にも十分、当てはまることだからである。

 


突然死は誰にでもありえる世の中 ~死について考える~

2021年06月15日 | 人間について

ここのところ、コロナ新規感染者数が落ち着いてきており、今月17日に緊急事態宣言を解除するかどうか判断されるようだが、それでもまだ感染者数が多い状態にあるため、解除すれば再拡大するのは必須だろう。おまけに7月は東京オリンピックを強行することになり、夏という季節もあり、人出が増えるころから、第5波は避けられず、更に新たな感染者数・死亡者数が増えることは間違いない。

更に、感染力の強い変異株の脅威も加わり、今年の夏は去年よりも更に感染者数・死亡者数が多くなる可能性がある。

このコロナウィルスが世界中に蔓延してから、突然死が当たり前になり、昨日まで元気だった人が容体が急変し、家族にも会えないうちにあっけなくお亡くなりになってしまうことが多くなった。今や高齢者だけでなく、20代~50代の方でも自宅待機しているうちにあっという間に容体が急変して亡くなってしまった方もいらっしゃる。

この様に、コロナは突然亡くなることがあるという恐ろしい病気であり、それに加え、今後更に強力なウィルスに変異する可能性を考えると、もはやこの突然死は私達の日常にあり、いつも死と隣り合わせで生きることになるのだ。そのような状況の中で、果たしてどのくらいの人達が、自分たちの”死”について真剣に考えているだろうか?

私は、大学生の時にイエス・キリストを信じることを決意したが、その理由は、他の宗教と比べて、唯一聖書のみが死について、私達がどうなるのかはっきり明確に書かれているからだ。それは、

イエス・キリストを信じなければ、誰一人として天国に行けない

ということだ。つまり、信じない人は死後、神の裁きにあい、生前の行いに応じて地獄へ行くということが明記されている。どれだけ生前に周りの人達からいい人だと言われようが、良い行いをして貧しい人達を助けようが、イエス・キリストを信じない人は皆、永遠に地獄に行ってしまうのだ。これは酷だと思われ、多くの人達は認めなくないだろうが、そのような人達は、これが嘘だと断言できるだろうか?

言っておくが、これまで聖書に書かれていることが嘘であるということを証明した人は誰もいない。世界の科学者もそれを証明しようとしたが、証明しようとすればするほど、神の秩序があると考えざるを得ず、聖書が正しいという結論に至り、クリスチャンになったという話はごまんと聞く。以下は有名な科学者でクリスチャンである人達のリストだが、最も直近の人は、アメリカの物理学者でかつ1964年にノーベル物理学賞を受賞したCharles Townes氏だろう。

34 Great Scientists Who Were Committed Christians (famousscientists.org)

多くの人達、特に日本人は死後のことも普段から真剣に考えず、自分が死んだ後はなんどなく天国へ行ける、とおぼろげに考えているだけではないだろうかと思う。

そのような状態の中で、

自分に突然死が訪れた時、聖書に書かれていることが正しかったと分かっても、時は既に遅い。

何故なら、

聖書では死者に対して悔い改めるチャンスが与えられていることは一切書かれていない

からだ。

また、

多くの人々が死を恐れるのは、本人は気づいていないが、本能的に自分が死んだ後は地獄に行くと感じているから

なのである。そのような現実に目を背け、神様から目を背けて(これを聖書で言う「罪」に当たる)自分勝手な行き方をすれば、それに対する報いが死後に待っているということなのである。

私達は、自分だけは大丈夫、自分はコロナには感染しない、感染しても死なない、とどこかで思っているのではないだろうか?それは人間の傲りであり、実際、コロナで重症になった人の話を見ると、「まさか自分が...」と思っていたようだ。そのような人達は、一つの真実を忘れている。それは、

私達の命も寿命もすべて自分ではコントロールできない

ということだ。つまり、私達の命は、神によってコントロールされているということだ。、医学の進歩により、一時的に助かって寿命が延びても、それはたかが数年~10年、20年くらい伸びるだけの話で、多くの人は結局、100歳に行くまでに亡くなっていく。

私達の死後は永遠の話になるのだ。神が永遠の存在である以上、その神から出た私達の魂も永遠に生きることになり、地獄に行けば永遠に地獄で苦しまなければならない。これがどのような辛さなのかが想像できるだろうか?この世の苦しみとは比べられない苦しみで、しかも永遠と続くのだ。ましてや死にたくてももはや死ねない。そんな所へ自分が必ず行くとなったら、どうお考えになるであろうか?

日本人の多くは、老後や葬式の準備に関しては、非常に高い関心を示すが、永遠に続く死後のことについては、ほとんど関心を示さないようだ。けれども、自分の魂を決してないがしろにしてはいけない。何故なら、神様は一人一人、あなた達のことを愛しておられ、一人でも多くの人がキリストを信じて天国へ行ってほしいと願っているからである。どの魂も地獄にいって欲しいとは神様は望んでいない。しかし、人間には自由意志が与えられているため、自ら神様を拒否し、結果、自ら地獄へ行く選択をしていることをほとんどの人は知らない。

老後の資金や今後の生活などに関心を示すのも良いが、それと同時に、いや、それ以上に最も大事な自分の魂、自分の死後のことについて真剣に調べて頂きたい。聖書のことがよくわからなければ、教会の牧師やクリスチャンの友人に聞いてもいいし、また、ネットやYouTubeでも聖書を解説しているものが沢山ある。私がお勧めしたいのは、中川健一牧師の動画だが、これは聖書を全く知らない人達でも非常に分かりやすく説明している。よろしかったら、下記の動画を見て頂きたい。

Q1 聖書とはどういう本ですか?【3分でわかる聖書】 - YouTube

また、他の宗教のことについても調べてみるといいだろう。私もクリスチャンになる前はキリスト教に非常に懐疑的だったので、他の宗教についても調べてみたが、結果、聖書はウソであることが否定できない、ということが分ったのだ。あなたも是非、自分の目で調べて頂きたい。

人間の死後についてどうなるかについての詳細は、また別の機会で書きたいと思う。


女性の本来の幸せな生き方とは?~箴言31章からの考察~

2018年09月11日 | 人間について

かなりご無沙汰してしまった聖書に関するブログ、聖書を日々読むことをサボっていたわけではないのだが、何かこう、一般の人達に届くようなメッセージが思い浮かばず、今日まで随分時が経ってしまった。

旧約聖書の箴言は、先月辺りからずっと読んでいて、今日ようやく最後の章、31章に来たのだが、この章の10節以降は女性の生き方について、女性のあるべき姿について書かれている。今の現代の部分に通じる所もあるが、通じない所がむしろ多いのではないか、と、実は長年感じてきた。何故ならば、聖書で書かれている女性の生き方は、昔で言う、”良妻賢母”、つまり女は家庭を守って、男は外で働く、というイメージの方が強く、古臭い女性のイメージが拭いきれなかったからである。

ところが、今日改めてこの31章を読んで見ると、実は全くそうではないことは判明した。むしろ、聖書、特にここで書かれている女性は専業主婦よりもむしろ、家事もやって仕事でもバリバリ働くキャリアウーマンだったのです!

箴言31章13節以降にその彼女の働きぶりが記載されている。順にみていきたいと思う。

13-14節:彼女は羊毛や亜麻を手に入れ、喜んで自分の手でそれを仕上げる。彼女は商人の船のように、遠い所から食料を運んで来る。

これは、家族の衣服や食料を調達するためのものでしょうか、副業でやっているのかもしれませんが、家事の可能性が高いような気がします。

15節:彼女は夜明け前に置き、家の者に食事を整え、召使いの女たちに用事を言いつける。

これは、今の時代でも共通していますね。日本の多くのお母さん、一部ではお父さんがしている所もあると思いますが、朝早く、子供のお弁当や朝ごはんの支度をしていますよね。私の母もそうでした。家族の誰よりも早く起きて、お弁当と朝ごはんの支度をしてくれました。

しかし、次が驚きでした!

16-17節:彼女は畑をよく調べて、それを手に入れ、自分でかせいで、ぶどう畑を作り、腰に帯を強く引き締め、勇ましく腕をふるう。

なんと彼女は、自分で不動産屋を回って自分で土地を購入して畑を作ってしまったのですね!しかも勇ましく働いていて、何て行動力のある女性なのだろうと思います。

18節:彼女は収入がよいのを味わい、そのともしびは夜になっても消えない。

ここで明らかなように、彼女が畑を購入したのは、ビジネスをするためだったのです!旧約の時代でも、女性がお金を稼ぐことに何の問題もなかったわけです。

日本では儒教の影響から、男尊女卑という考え方がなかなか抜けず、女性がバリバリ働くことへの抵抗感が、欧米諸国などと比べて非常に高く、未だに男性の多くにこのような考え方を持っている人達が存在します。ましてや、女性が男性よりも収入が多いなんて許せないわけです。悲しいかな、日本の男性の多くは、女性よりも男性の方が収入が多くないといけない、という固定観念にしばられています。けれども、聖書ではそんなことは一言も書かれていません。

そして、彼女がやっていることはこれだけに留まりません。

20節:彼女は悩んでいる人に手を差し出し、貧しい者に手を差し伸べる。

家事をやって、ビジネスをしているのであれば、自分や家族のことで精いっぱいのはずなのに、なんと困っている人達にも手を差し伸べているのです。自分のことだけでなく、他人のことも顧みて助けてあげているなんて、なかなかできないことです。

そんな彼女に対して、彼女の夫は彼女に抵抗感を感じるわけでも、嫉妬するわけでもなく、むしろ大絶賛しています。

28-29節:...(前文省略)夫も彼女を褒めたたえて言う。「しっかりしたことをする女は多いけれど、あなたはそのすべてにまさっている」と。

何て懐が大きい、素敵な旦那様なのかと思うのですが、彼はこのような妻の生き方に喜びを感じて下さっているわけです。

こうして見ると、本来、女性というものは多彩な才能を持った人間だということが分かります。にも関わらず、今の日本、特に関東に住んでいて思うのですが、

今の日本の女性達は仕事ばかりに邁進していて、キャリヤや仕事の能力向上ばかりを求め、他にあるかもしれない才能を潰しているのではないか、お金には直結しないが、素晴らしい才能や能力も潰してしまっているのではないか

とふと感じました。

男性とは違って、女性は複数の仕事を一度にできる能力があるといわれており、この箴言の女性を見ているだけでも、多彩な能力を持っていることが分かります。けれども当時は、今の日本社会のような長時間残業や長時間労働がなかったでしょうから、仕事もして、かつ他人のことも顧みる余裕があったのだと思います。

残念ながら、今の日本の働き方は女性や母親には全く優しくなく、未だ残業が多く、人生のほとんどが仕事で埋もれる人生を送っている人達が多い、というよりは、送らざるを得ない、と言った方がいいのかもしれない。

結果、まだ小さい子供を保育園に預け、夜遅くまで働いて、親も子供も毎日ぐったり、の生活を送り、食事は近くで買ったスーパーの総菜で済ませてしまう。こんな人生が、本当に女性にとって、そして子供や家族にとって幸せなのだろうかと感じてしまいます。

仕事で女性の能力を開花するのは大変良いことなのですが、それが今の日本の働き方では、

逆に仕事でした能力を発揮できない、仕事でしか自分のアイデンティティーを見いだせない、つまり、仕事によって逆に自分の首を絞め、自分の能力が狭められてしまう状態になっている

のではないかと感じています。

今の日本の女性達は本当に幸せなのでしょうか?

以前、安倍総理が「一億総活躍社会」を謳っていましたが、それこそ生き方の押し付けではないかと思います。本来、女性は多彩な生き方ができる人間であり、それができる多彩な働き方を実現させるべきではないかと思うのですが、日本は未だに、フルタイムの正社員、もしくはパートか派遣、という2つの働き方しかできず、欧米諸国にあるような週3日の正社員の仕事、フレックスタイム制、在宅勤務制度の導入が非常に低い。低すぎる。先進国の中では最低レベルになっています。

そういう意味で、日本という国は何て女性にとって生きにくいのだろう、と感じざるを得ず、海外滞在を経験した私としては、できれば一刻も早く日本を脱出したい気持ちに常に駆られています。

 

 

 

 


人としてどうあるべきかを教えない今の日本の子育て・教育~日大アメフトの問題を通して思うこと~

2018年06月03日 | 人間について

今、日大アメフトの悪質なタックルがマスコミで取り上げられ、大きな社会問題となっている。先日、関東学生アメフト連盟から除名処分を受けた内田監督がやり玉に挙げられているが、厳しいことを言うと、関西学院大学のアメフト選手に怪我を負わせた、という点では、実際に怪我を負わせた日大の宮川選手も同罪である。

宮川選手が、まだ20歳未満の未成年であれば別だが、彼の年齢を調べてみると既に20歳になっており、もう立派な成人である。犯罪を犯せば、実名であげられてしまうのである。会社における不正もそうだが、上司から言われたから、とか、監督から言われたから、とかの理由で犯罪に手を染めてしまっても、罪は免れないのである。

しかし、その後でこの2人に大きな違いが見られたのは、宮川選手は自分の行いを心から悔い改めて、勇気を持って報道陣の前で真実を告白したことだ。これによって、ようやく日大の長年染みついてしまった古い体質、暗闇の部分が暴かれることになったのだ。そして何よりも、彼自身が自分のしてしまった過ちについて責任を感じており、盲目的に監督に従ってしまった自分を反省している。

一方で、元監督の内田氏の対応はどうなのか?最も責任を負うべきはずの立場の人間が、いつまで経っても自分の非を認めようともせず、自分に正直になることもできないで、逃げてばかりの印象を受ける。

日本は残念ながら、日大だけでなく、他の企業や組織、学校においても、程度の差こそあれ、内田監督のような上司、そして宮川選手のように上の人に対して何もモノが言えない日本人が多い。学校で誰かがイジメにあっても、「やめろよ!」と止めてくれる人がいないように、面倒なことには関わりたくない、臭いものには蓋をする、という日本人の悪しき習慣が根深くはびこっており、正義感のある日本人がいなくなっているのである。

これは今の日本の政治家を見ても良く分かる。本当に日本国民のことを思い、正義感あふれる政治家が、今の日本のどこにいるのだろうか?日本国民一人一人を見た場合は、そのような人間が少なからず存在はするが、数があまりに少ない。今の日本の親の多くは、子供に勉強や習い事を押し付けるだけで、人としてどうあるべきか、きちんと教育をしていない。結果、頭が良くても挨拶さえきちんとできなかったり、コミュニケーションさえまともに取れない人達が本当に多い。

人としてやって良いことと悪いこと、人としてどうあるべきか、ということは、子供を躾する上で最も重要なことなのである。この、人としての教育というのは、子供のうちにしっかりやっておかないといけない親の任務なのである。事の善悪を小さいうちからしっかり教えておく必要がある。勉強をすることによって、沢山習い事をすることによって、人として良い人間に成長するのではないのである。

先日、ある企業の社長さんと話をする機会があったが、今の日本人は人として堕落しており、また、急速な少子化に向かっていることから、日本民族というものは近いうちに滅びるだろう、とおっしゃっていた。人口減少を食い止めるには、もはや外国人を沢山受け入れるしかない、と。

昔、栄華を誇ったローマ帝国が衰退したように、日本がまさにその道を歩もうとしている。ローマ帝国の衰退時期を調べてもらうと分かるが、政治の混乱など、今の日本と大変良く似た状態になっていることが分かる。またビジネスの世界でも、東芝の様に、昔、日本を代表する企業が外資に飲み込まれたり、衰退する企業が増え、たとえ生き残ったとしても、トップが外国人になっていたりするのを見ると、いかに日本人が駄目になってしまっているか分かる。そのうちに、外国人が日本の首相になる日も来るかもしれない。