アメリカ帰国者が日々の出来事・人生・世の中などを語るブログ

日本に帰国して矛盾だと感じたこと、人生における発見や日常のことなど色々語ります

子供の犯罪に親が責任を取る必要はない

2016年08月30日 | 社会・人生について

先日、女優の高畑淳子さんの息子さんが、性的暴行容疑で逮捕され、マスコミ関係をにぎわせているが、母親の子育ての仕方についてやり玉に挙げられている。息子がこのような重大な犯罪に手を染めたことだけでも、母親としては辛く大変なことなのに、それにさらに追い打ちをかけるかのように、この母親を責め立てている。

日本では何故か、子供が何歳になっても、子供の不祥事は親が責任を取らないといけないようで、親の人生にまで影響を及ぼしてしまう。アメリカでは、有名人の子供が何か事件を起こしたり、不祥事を起こしても、その親が公の場に出て謝罪したり、責任を取ることはない。アメリカに長く住んでいた私にとっては、日本の、この執拗とも言える親への容赦ない攻撃は、とても異様に感じる。

現在アメリカに住んでいる日本人の夫婦が以前、私に言っていたが、子供は、親がどれだけ正しく育てたとしても、悪い方向へ行く可能性は十分ある、と。だから、私たちは子育てについても神様の助けを必要としているんだ、とこんなことを言っていた。

確かにそうである。どんな親でも100%完璧に子育てができる親は誰もいない。だから尚更、神様の助け・知恵が必要であることを、この友人はひしひしと感じているのである。どの人間も完璧な人は存在せず、不完全だからこそ、神様からの助けが必要なのである。

どの親も、子供をちゃんと育てようとして日々奮闘していると思う。誰も、子供を間違って育てようとする親はいない。しかし、成人になった子供は、親の監視から離れ、自分の責任で生きていかなくてはいけないのである。そのような子供に対して、親がいつまでも責任を持たなくてはいけない、ということは、子供に対して責任や自立心を持つな、と言っていることと同じではなかろうか?子供が自分の意志で起こした行動は、あくまで本人が責任を負うべきであり、罪は子供自身で償わせるべきである。でなければ、子供は間違いを犯しても親が責任を負ってくれることを覚えてしまい、いつまでたっても精神的に親に依存し続け、同じ過ちを繰り返してしまう。

どの親も子供を不幸にさせようとして育てている親はいないと思うが、一方で、不幸にも身勝手な親の元で育ち、不幸な環境の中にあった子供達も大勢いると思う。しかし、その全員が犯罪を犯しているわけではない。不幸な環境に育っても、罪を犯さない子供達も沢山いるのである。

つまり、成人した子供の不祥事に対して、家庭環境や親の育て方を理由にするのは間違っているのである。間違っているのは、不祥事を起こした子供自身なのである。幸であれ不幸であれ、どんな家庭環境の中に育った子供でも、皆、悪い方向へ行ったり、罪を犯す可能性を持っているということを私たちは知らなくてはいけない。そして、過ちを犯すかどうかは、その子供自身の意志で行っていることであり、親がそこまでコントロールできるわけではない。親の責任の及ばない所で、親の責任を問うのは、明らかに間違っている。

聖書では、子供が犯した罪の為に親が罰せられることはない、またその逆に、親が犯した罪のために子供が罰せられることはない、とはっきり述べています。

「罪を犯した者は、その者が死に、子は父の咎について負いめがなく、父も子の咎について負いめがない。正しい者の義はその者に帰し、悪者の悪はその者に帰する。」(エゼキエル書18:20)

勿論、子供が犯罪を犯したのは、育てられた環境も要因があることは否めないケースもあるとはいえ、親が責任を負う必要はないと聖書でははっきりりと述べている。自身が犯した罪は、その人自身が非を受けないといけないのである。親ではない。また、親は子供可愛さに、子供の代わりに罪を償ったり、かばったりしてはいけない。親自身も、精神的に子供から自立する必要があるだろう。

それよりも、この様な報道をするのではなく、女性を暴行すればどういうことになるのか、被害者がどのように悲惨な状態になってしまうのか、被害者立場での報道をもっとするべきである。日本は性犯罪の厳罰化に向けて刑法を改正しようとする動きが出ているようだが、諸外国と比べて対応が遅すぎる。そもそも性犯罪に対する認識が非常に甘いのだ。マスコミは、世の中を正す、という役割も持っているはずである。視聴率を稼ぐためだけのくだらない謝罪会見や親を非難するような報道は即刻辞め、性犯罪を犯すとどうなるのか、なくすにはどうしたらよいのか、その観点からの報道をもっとすべきであろう。





人生において重要なことは、成功することではなく、努力することである

2016年08月22日 | 社会・人生について
リオのオリンピックが終わり、4年後はいよいよ東京オリンピックになりますね。ところで、1964年の東京オリンピック時に以下の名言が表示されていたことを初めて知りました。

「オリンピックは、勝つことではなく、参加することに意義があるとは至言である。人生において重要なことは、成功することではなく、努力することである。根本的なことは、よく戦ったかどうかにある。」

英語では、このようになります。

"The most important thing in the Olympic Games is not to win but to take part, just as the most important thing in life is not the triumph but the struggle. The essential thing is not to have conquered but to have fought well."

これは、1904年のロンドンオリンピックの際に、イギリスの教会の大主教が語った言葉ですが、当時、アメリカとイギリスの仲が大変悪く、アメリカの選手が散々嫌がらせを受けていたそうです。そこで気分転換にアメリカの選手が教会の礼拝に参加したところ、大主教からこの言葉を聞き、大変励まされたということです。

日本は今では多くの会社で成果主義が導入され、何かしらにつけ、結果を求められる時代になり、勝ち負けにこだわる人が増え、お金や名誉、出世など、人間が勝手に作った尺度に基づき、「勝ち組」「負け組」などを決めつけるようになった。一昔前の日本は、努力が大切だ、ということが良く言われていたが、今一度、この言葉をよく思い起こすべきであろう。

努力したから、頑張ったからといって、自分の思うような結果が必ずしも出るとは限らないし、どちらかと言えば、上手く行かないことの方が多いだろう。人生において最も大事なことは、勝つことではなく、困難の中で努力する過程において成長する私達自身の人としての成長なのです。つまり、何をしたか、何を成し遂げたか、なのではなく、人としてのあり方なのです。

会社での成功や出世、肩書や名誉はもちろん、お金やオリンピックのメダルは、私達がこの世を去った後、持っていくことはできません。私達は皆、生まれてきたのと同じ状態で、死ぬときも、何も携えていくことはできない、と聖書でははっきり述べています。つまり、私たちは皆、裸の状態でこの世を去るわけですが、唯一、持っていけるのが、私達自身そのものだけなのです。私達がどのような人間なのか、それだけが死後において問われるわけです。

従って、勝ち負けにこだわるだけの人生は、自身に破滅をもたらします。何故なら、神様は私達人間をそのように創造なさっていないからです。

大事なのは、自分がどれだけ努力したのか、どれだけ真剣だったのか、毎日精一杯生きているのか、それによって人間的にどれだけ成長したのかが、私達の生涯において問われます。従って、メダルが取れなかった、志望校に合格できなかった、希望する就職先に入れなかった、ということは、それが実現できれば素晴らしいですが、人生そのものにおいては、さほど重要なことではありません。大事なことは、今置かれている場所で、全力投球しているのか、どれだけ真剣に努力しているのか、ということが私達の人生において問われるのです。


モーセの十戒「殺してはならない」は、全ての殺人に当てはまるのではない~出エジプト記20章から

2016年08月09日 | 人間について
よく、キリスト教では「人を殺してはならない」と教えられているのに、昔の十字軍やイスラエルの様に何故人殺しをするのか?ということを良く聞く。私もこれまで、日本やアメリカの教会のあちこちで礼拝に参加していたが、これに関して、はっきり説明してくれる牧師にお目にかかったことがなかった。中には、どんな場合でも、戦争においても人を殺してはいけない、と教える人も多く、特に日本人クリスチャンの多くは、「戦争は何が何でも絶対にダメ!」と信じている人も多い。

この「人を殺してはならない」という個所は、旧約聖書の出エジプト記20章13節に記載されているが、英語では"murder"と翻訳されており、これは明らかに不法に人を殺害したこと指す。また、聖書の原文のヘブル語では、「ラツァック」という言葉が使われ、これは人が故意に、又は計画的に、不法に人を殺害した場合だけを指している。

つまり、自分の身を守ろうとする正当防衛や、他国からの攻撃に対して自国を守るための反撃、また殺人を犯した罪による死刑は、これらに該当しないのだ。

もちろん、戦争や死刑制度などは神様が望むはずはないのだが、人間に罪がある以上、悪がはびこることは避けられず、この世に悪が増殖するのを防ぐための抑止力として神様が用いられることがある。人類全ての人達が、人々の罪を贖うためにイエスを遣わした神様を信じればこのようなことをする必要は全くなかったのだが、アダムとイブが罪を犯してしまったために、私達人間は神様なくして生きることに慣れてしまい、自分勝手に生きるようになった結果、今のような、どこへ行っても殺人やテロが多く100%安全な場所はない、混沌とした時代になってしまったのだ。

もうすぐ日本は終戦71年目を迎えるが、日本は今、中国と北朝鮮の脅威にさらされている。世界で唯一の被爆国である日本としては、核を決して保有してもらいたくないのだが、もし北朝鮮からのミサイルが日本に墜落した、もしくは中国から攻撃された場合、日本は一体、どうやって自分の国を守らなくてはいけないのだろうか?

残念ながら、そのことを真剣に考えなくてはいけない時代に入ってしまっている。アメリカの大統領選の行方が気になるが、いざ、日本と中国が戦争になった場合、どちらの大統領になっても、アメリカは助けてくれないだろう。ある情報によると、ヒラリー・クリントン氏は、長年、中国から金銭的支援を受けており、陰で深い関係にあると言われている。一方でトランプ氏は、朝鮮半島で戦争が起こっても米軍は手を出さない、とはっきり言っている。つまり、どちらが大統領になっても、日本はやはり、自分達で国を守るしかないのだ。

先日、第3次安倍内閣の大臣が発表されたが、その中で、極右のタカ派と言われる稲田朋美氏が防衛大臣に起用された。これを聞いた時、なんとなく虫唾が走り、嫌な予感がしたが、これもきっと現在の中国や朝鮮半島での情勢を踏まえて、敢えて彼女を起用したと考えられる。

全ての国や他の権威は、神によっておかれたものであり、たとえそれらの人達が神様を知らない人達でも、全てのことは、神によって働かれていることを常に覚えておく必要がある。それが、たとえ間違った方向にいっても、悪がさらにはびこっても、神様がそれをしばらくお許しになることもある。しかし、地球最後の日、神がこの世に再臨する時は、全ての悪が打ち砕かれ、勝利するのである。

神を信じる人は、この世に希望を置いているのではなく、神に希望をおいているので、世界がどんな状況に陥っても希望がある。また、神といつもつながっていれば、この困難の多い世の中においてどう生きていけばよいか、何をするべきかを知ることができるので、たとえそれが辛くても決して失望することはない。

希望はこの世ではなく、キリストにある、と新約聖書でイエス様がおっしゃっていたが、その希望は、この世が与える希望とは違う、とはっきり聖書では述べている。今のこの混乱の多い世の中で不安を感じる人は、まず聖書を読んで頂きたいと思う。