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夢から慈しみの世界へ

神と自然と人間の共生
神一元・善一元・光明一元の生活
人間の生命の実相は『仏』であり、『如来』であり『神の子』である

女性の天分・・・柔者は能(よ)く、剛者に勝つ。

2018年03月03日 20時28分17秒 | コラム・人文
お雛さまを見ると心が柔らくなり、

こころ豊かになり、

また穏やかになり、

母の薫りがただよいます。



古くは一月一日(元旦)・一月七日(人日の節句)・二月二日(節分)

三月三日(上巳の節句)・四月四日・五月五日(端午の節句)

六月六日・七月七日(七夕の節句)・八月八日・九月九日(重陽の節句)・十月十日

十一月十一日・十二月十二日等。

古くは十二ヵ月それぞれの月に『祓い日』を定めて、『祓いの行事』が行われていました。

その中の奇数を『陰の日』としてもろもろの『穢れ』を祓ったのです。

日本は割ることも出来ない、分割もできない、合理的でもない、

奇数を神秘な数としてあつかいました。

また一霊『ひと』・二『ふた』(陰陽)・三位『み』と

古神道で鎮魂(心を鎮めること)、身をきよめ、その場所をきよめるはたらきをする

数歌(かぞえうた)にあるように、

『根元の一霊』と『陰陽の二』が結ばれたのを(三位一体)としてあつかいました。

阿弥陀三尊とよばれるように、また天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)

高御産巣日神(たかみむすびのかみ)・神産巣日神(かみむすびのかみ)

この三柱の神を造化三神といい「独神」(ひとりがみ)というのがその例であります。


一月七日(人日の節句)・三月三日(上巳の節句)

五月五日(端午の節句)・七月七日(七夕の節句)・九月九日(重陽の節句)

を五節句(ごせっく)として現在残っています。




流し雛


平安貴族の間に、三月上巳の日、紙や緒で作った人型を流し、

子女のもろもろの穢れ、わざわいをこの人形に負わせて流し送り、

水辺の祓いの行事とする、流し雛の風習がありました。

高松宮殿下のお雛様は昭和五年二月四日

御成婚のお支度としてお持ちになったものです。

徳川家にお興し入れなった實枝子母堂がお持ちになった

親王雛に準じて作るように京都の田中彌兵衛に御注文になりました。




女性の天分

男性に男性の道があり、女性には女性の道がある。

人生は男性と女性とによって成っているから、

女性の天分が発揮せられないとき、不幸となり暗黒となるほかはないのである。

女性の天分は、愛と美とやさしさと、純潔とで、すぐれている。

『女らしい』と云うことはその肉体と云う衣装が示していますように、

肉体の動作も、言葉も、表情も柔く温く潤いがあってゴツゴツしていない

優美な愛情のあふれた感じをもっているべきなのです。




『陽』あって『陰』を貫く、これを結びと言う。・・・陰は陽によって身を固めたものとなり、運命が定まる。

2018年03月01日 21時11分52秒 | コラム・人文
スマホが不調でしたので初期すると、

電話帳のデーターが復元できず、大変でした。

古い携帯を捨てないで残していたので助かりました。

アナグロの和紙の歴史は1600年程ありますが

デジタルでのフアイルの保存は

まだ和紙ほどの実証が為されていません。



もうすぐ、陰陽調和の日である『桃の節句』です。

宮中のお節料理に

菱葩餅(ひしはなびらもち)があります。

『歯型め』の儀式に使用されていた餅で、

女性的な柔らかい菱形の餅の中を

固いゴボウが貫いている姿をしています。

雛人形にも菱餅をお供えします。

また『花菱紋』は伊勢神宮の神紋であります。




三はミツであり、水であり、水は冷たく陰である。

陰の水は漂えるものである。

それを貫くものがなければ水は永遠に『水』は漂うていて、

一定の形にまで固定しないのです。

『陽』あって『陰』を貫く、これを結びと言う。

陰陽結ばれれば其処に『固成(かため)』を生ずる。

人間の創造も同様である。

海原(地球)を貫いて陽光射し、

其処に生物生じ、

暗黒(蔭)を貫いて光り、ただ射し万物生じたのである。

陰は陽によって身を固めたものとなり、運命が定まる。

宇宙も人間も同じ組織で出来ている。

水の上に浮かぶものあり実り(水乗り)と言う。

それは『桃の実』であり、実の核のうちに桃太郎を蔵す。

水は女性で、流れるばかりだが、

男性があってそこに中心が出来、

生むはたらきを完成する。





柔軟心の大切さ・・・柳のようにしなやかで柔らかい心で生きよう!

2018年02月20日 23時02分51秒 | コラム・人文
一日たりとも普段の心(現在意識)の思い通りに過ごしたことが無い。

しかし実は隠れている心(潜在意識)が計画した通りに過ごしているのです。

思い通りに為らない事実を謙虚に受け止めねばならない。

その事実を基とにして再び立ち上がらなければならない。

よそ見をしないで、つまずいた処から出発しなければならない。

そのつまずいた処に、立ち上がる為の大いなるヒントがある。

すべてのことは神が導き給う知恵である。




草の庵に ねてもさめても まをすこと 南無釈迦牟尼仏 あはれびたまえ 

道元禅師の悲願の歌であり、一心で貫き通し、すこしもよそみをしない歌である。



にほの海や 矢橋の沖の 渡し船 おしても人に あふみならば

道元法師(道元禅師) 恋の歌

十三歳で出家して以来、只管打座(座禅)の生活をした聖僧道元に恋の歌があるというこの不思議さ。

親鸞ならエロスの神とも大いに交渉があったのだから納得できるけれども

道元ではそのことは考えれられないのです。

人に逢うという言葉は、道元が口ぐせのように使った言葉なのです。

人に逢うとは、

道を伝える人、

道を継ぐ人、

道を求める人、

即ち真実の人に逢うということである。

人に逢うことは道元の生涯の悲願であったのです。

真に道を求める友にめぐり逢いたい、

真に仏法を得た師にめぐり逢いたい、

真に仏法を伝えるべき弟子にめぐり逢いたい。

これが発心、修行、正悟の時期を貫いての生涯の願いであった。

この願いは人を『恋ふる』ことである。

その恋の対象が必ずしも異性でなく、

男にせよ、

女にせよ、

百歳の老人にせよ、

十歳の童児にせよ、

万難を超えてその人に逢わずにはおかないという切なる思いなのです。

『正法眼蔵』の『礼拝得髄(らいはいとくずい)』にこのことを情熱ももって書き残しているのです。

恋の歌という言葉を前にして、昔の坊さんが当惑した様子が目に見えるようです。

禅師の徳を傷つけんことをおそれた気持ちも理解できます。

道元法師はそんな『固い心』の持ちぬしではなかったのです。

宇治興聖宝林寺の開堂に『柔軟心』とある。

『恋ふる』とは魂と魂が一層高い立場で一体となる精神の動きである。

本居宣長は『もののあはれ』を『まことごごろ』にあるとし、

その『まことごごろ』が一番よく現われるのが『こひ』であるとした。

僧たる者は『人情を捨つべし』とあれほど説いた、

大悟の道元禅師が悲しさや嬉しさを歌に詠んでいることは、

道を求める人にとっては例えがないほど重要なことである。

                                            田中忠雄

                          
濁りなき 心の水に すむ月は 波もくだけて 光りとぞなる 

                                                     道元禅師

私はこの歌を、心を浄まして、奥深いに処に既に存在している実相心(本当の姿)で観ると、

波で荒れ果てている世界も

その奥に只ただ光り輝く真実の世界である仏(ほとけ)の姿が現われてくる。

と理解したいと思います。



『注』

宇治興聖宝林寺・・・道元禅師創建の日本曹洞宗最初の寺院。
正悟(しょうこ)・・・正しい悟り。








お墓参り・・・南無阿弥陀仏をとなうふれば、梵天帝釈帰敬(ぼんてんたいしゃくききょう)す、諸天善神ことごとく、よるひるつねにまもるなり。―親鸞上人

2018年02月17日 13時58分16秒 | コラム・人文
お墓参りに出かけると、

週末で天気が良いので沢山の人がお参りに来ていました。

『公営墓地』、『寺墓地』は便利ではあります。

直ぐ側まで車で横付け出来ます。

水、桶、柄杓、廃棄物の篭もあります。

共有通路は定期的に清掃が為されています。

そして『寺墓地』はお坊さんからお参りもして頂きます。

月一回の目標でお墓参りをしています。



家の仏壇の位牌、祖霊舎の霊璽(れいじ)、御霊代(みたましろ)等に

鎮まる『幸霊(さちみたま)』の前で礼拝、お参りするように、

お墓に鎮まります波動が粗大であり荒々しい『荒霊(あらみたま)』にも

お花等を手向けてお参りするのがよいとされています。


また悟りを開いている叡智の奇霊(くしみたま)は肉体を脱した時、

実相の霊である『直日霊(なおひのみたま)』に還る。

『和霊(にぎみたま)』は天界に昇って天界を拠点として社会国家のために活動する。

古神道ではこのことを『一霊四魂』と説いていて、

一霊が四っに分化してそれぞれのはたらきを為していると云います。


墓はよく清掃して、合掌礼拝して経等を読誦して、

供花等を怠らないようにするのがよいとされています。

墓の納骨堂は雨期に水浸しにならないほう良いのです。

また納骨堂の地面はコンクリートではなく、自然の土がよろしい。

骨は速やかに大地に還したのが良いのです。

そうすることにより速やかに生まれかわりを促すことになります。

それは愛と尊敬と感謝の表現であるからです。










日本女性の美しい伝統

2018年02月11日 21時04分53秒 | コラム・人文
30年ぶりに図書館に行きました。

美しい文体をしている尾崎紅葉の作品集を妻が読みたいと言いますので岩波書店の本を借りました。

私が図書販売をしていた頃は、古典文学、明治、大正時代の作品集は揃っていました。

岩波書店の尾崎紅葉全集(当時の定価80600円)も25年も前に出版されました。

このような本は現在殆ど出版されません。

殆どの全集ものはその頃出版されたものです。

Amazonでも当時の本は見当たらないようになりました。

私も当時は本を買える経済状況ではなかったので

諫早図書館、県立図書館、森山図書館等の館内で複写し、又は借りて読んでいました。

当時の高価な本が現在オークションで手軽に手に入るようになりました。

図書販売を経験したことが本に対しての知識が蓄えられ、今それが役にたっています。

現在はSNSに適した、法律的な文体、又は白黒と色分けした直情的な表現が発達していて、

日本語特有の細やかな、また言い換えると曖昧な微妙な表現が失われているようであります。


自然な紙に表現された書籍と液晶画面で見る文体とは、違いがあります。


これは致しかないことでもあります。

川端康成氏は新聞雑誌のものをお書きになるときには新仮名遣いでお書きになるのだが、

随筆集の序文は時に歴史的仮名遣いで書かれている。




『その人一人のものとは限らぬ日本の女性なるもの』
                         川端康成  
    


私たち西洋人は西洋のものを真似た日本の映画には興味はない。

『羅生門』のような日本映画がグランプリを得たのは、

それに日本的なもの、日本でなければ見出されないものが表現されているからだ。

                 哲学者ブリエル・マルセル









 

あなた自身の神秘を讃えよ。・・・アメリカインデアンの聖なる言葉

2018年02月05日 22時02分03秒 | コラム・人文
小学生時代には佐世保に住んでいました、所謂基地の町でした。

朝鮮戦争後の間もない時でしたので、

子供目線で見るとアメリカの海兵隊の存在が圧倒していました。

子供にとっては恐れと緊張感がありました。

しかし大きな航空母艦、セーラー服など格好が良いなと思う一面もあり複雑な気持ちでした。

この頃父親のコネで沢山の洋画(アメリカの西部劇、チャップリン主演等)を見ていました。

しかしフランスなどのヨーロッパの洋画は白黒が多いのと、

画面が暗いイメージがあり、また理屈ぽいところが有り、あまり見ませんでした。

全てが日本語の字幕スーパーでした。

今、思うと西部劇等の英語は学校で教える英語とは違っていたようです。

歴史は繰り返すと言われますが、現在その時と同じような状況に佐世保が置かれているようです。

基地は人間の欲望が渦巻いている状況でありながら、

ある意味で人生を背水の陣をひいて生きている人間の覚悟と純粋さが見られ、真剣さがあります。



『アメリカインデアン』も大自然と共に生き、

その大自然から学びとった知恵は

イエスの愛と仏陀の慈悲とも同じであり素晴らしい言葉の力であります。



心配ごとは未来にあるのだから、

あなたがなすべきは

現在に立ち戻ること。

あなたが未来にいることに気がついたら

心配ごとのスイッチを切って

『今』に生きなさい。


自己のざわめきをしずめ、

人生の枕に頭を休めよ。

耳をすませば

創造者の鼓動が聴こえる。

あなたの魂の

洞穴や洞窟を探って

あなた自身の神秘を讃えよ。


                   アメリカインデアンの聖なる言葉






『永遠を今に生きる』温泉の優しさと神秘。

2018年02月03日 21時59分59秒 | コラム・人文
地球の地下の深いマグマと作用して

600万年という気の遠くなる時間をかけて、地中を潜り抜け

『今』此処に噴出す有馬温泉の神秘の源泉。

まだ氷河期以前のことであり、

人類がまだ地上に登場していな600万年前のホットな時代を味わえる温泉。

世界に稀にみる温泉。

今眺めている星雲の輝きは、何億劫万年前に発した光を

『今』此処に見ていることと同じであります。

まさに久遠を『今』に生きている、温泉の優しさ、星雲の神秘です。

人間も此の温泉、星雲に決して劣ってはならないのであります。

人間も久遠の『今』を生き続けているのです。





時間・空間を超えた無量無辺の無限の世界の真理を説かれた。

法華経の最大最勝の如来寿量品。



然るに善男子よ、われは実に成仏してよりこのかた、

無量無辺百千万億那由他劫なり、

譬(たと)えば、五百千万億那由他劫阿僧祇の三千大世界を、

仮使(たとい)、人ありて抹(す)りて微塵となし、

東方五百千万億那由他劫阿僧祇の国を過ぎて、

乃ち一塵を下し、かくの如し。

                      
                           法華経 如来寿量品十六















月、常に生じて、固(もと)より、性出没すること無きなり。(涅槃経) ・・・それ故に吾々は肉体の死を、悲しむにはあたらないのである。

2018年02月01日 19時51分52秒 | コラム・人文
次女の誕生日であります。

生まれた当時は南国にしては稀にみる大雪であり、

早朝に産気づいて慌ててタイヤチエーンを取り付けましたが、

確りと装着出来ていなかった為に新車のタイヤの周辺が傷だらけになりました。

若い時であり焦りました!

明治五年12月までは太陰暦であり、

それまでは『月』は現在より身近な存在であり生活にも定着していました。

また『月』の存在は日本人特有の詫び寂びの繊細な心に通じていて、

ロマンチックでもあり万葉集などの歌にもよく取り上げられています。

科学が発達して月のイメージがメカニックな見方で捉えられようになりましても、

やはり宇宙の神秘である月の存在は人々には魅力的であり感銘を与えるようであります。


天の海に 雲の波立ち 月の舟 星の林に 漕ぎ隠る見ゆ

                              万葉集7-1068 柿本人麻呂

久方の 月夜を清み 梅の花心開けて 我が思える君

                                万葉集8-1661紀小鹿女郎(きのをしかのいらつめ)
 
人間は理念であるが故に常に死滅することはない。

機縁に触れてより一層その『理念』の内容を完全に表現し、

機縁に触れて病み、かつ傷づけるが如く現われる。

釈迦は仏性に滅不滅なきこと、『其の月常に生じて、固(もと)より、性出没すること無きなり』と言っている。

                                        涅槃経 月喩品第15
それ故に吾々は肉体の死を悲しみにはあたらないのである。








『そのまま、有るがままを幼児のように素直に生きる』・神の意思はある瞬間にフラッシュする。

2018年01月28日 19時54分12秒 | コラム・人文
月1回の研修会でした。
長崎と諫早間をインターネット回線を利用しての勉強会です。

『そのままを生きる』ことを体験された方のお話がありました。

その方は何年も欠かさず神想観(瞑想)を毎日午前3時から実習され、

日頃から『そのままを生きる』にはどのようにすると得られのかと思い悩まれていました。

毎日色々な事に関心を寄せ、懸命に精進なされていましたがある時、

ふと静かな雰囲気に誘われ、深い『静寂な世界』を体験されました。

その体験を機会に『そのままを生きる』ことの意味が直感的に理解でき、

物事を素直に受けとることが出来たそうです。

それまでは常に何事も比較して、相対的な意識の世界に住んでいて葛藤があったそうです。

その方が毎日午前3時から欠かさず『神想観(瞑想)』という禅定を厳修なされた功徳ではないでしょうか。

相対的な意識の世界を脱することにより、

相手、又は自分自身をも縛ることなく全てのものを捨て去り、

自由に放つことが出来、

その結果自分自身をも『真』に自由自在で素直な『そのままの自分』を

生きることが出来たのではないでしょうか。

素晴らしいお話でした。

ありがとうございました。




『かな文字』ほど日本人に大きな恩恵を与えている文化財はないのです。

漢字が大陸から仏教およびその経典が伝わった頃に伝来しましたが、

それを理解し使用したのは古事記、日本書記、風土気の編纂の頃と思われています。

記紀も今まで口承されてきた歴史的な事柄を漢文体に翻訳した歴史書であります。

最初に万葉集にみられるように、漢字の音訓(よみ)を利用して

倭歌謡(やまとうた)そのままを写した『万葉がな』 が発明されました。

そうした経過をへて知識人や僧侶の間に、

漢字を借りるよりより自由自在に自国語が表現される文字を考案しようとする気運が芽生え、

かな文字が創り出されることになったのです。

『カタカナ』は吉備真備(きびのまきび)また『ひらがな』は弘法大師空海が創ったといわれています。

もともと表意文字である漢字から本質的に違う表音字母の『かな文字』創りだしたことは、

日本人の素晴らしい発想であり、すぐれた創造力であります。

かな文字の創案により、この『かな文字』を麹(こうじ)の種として日本文化の発酵が進み、

源氏物語、竹取物語等世界に誇れる文学作品が生まれ出だすことになりました。


      日本の古代・・・海神の伝統








足下から生命尊重を・・・身近に在る生命に愛を

2018年01月27日 21時39分26秒 | コラム・人文
八重の椿、仏の座(ホトケノザ)が寒風にさらされ、

紅色に染まり始めました。

風光る春も、もうそこまで近づいています。




生命尊重の喪失から、

動物性たんぱく質の摂取に何らの抵抗も感じられないようになりました。

食生活にもその影響が広がっています。

歯も野菜等の繊維を噛み切る為の門歯が8枚、

穀類を押しつぶす臼歯が20枚、犬歯が4枚、と

大体自然に定められた食物の割合が決まっているのです。

穀物食が3分の2、副食が3分の1、

その副食の3分の2が菜食、残りの3分の1が魚類、肉食であります。

このように人間の歯も食物をどのような配分で食べたら良いかということが歯並びに現されています。

天が与えた知恵であります。

これにそって穀物、野菜を主食にして摂取なされば健康にもよく、

大地に恵まれた穀物、野菜主体の食生活は自然環境にも貢献することができます。

日本の懐石料理等は本を正せば寺院の質素な『僧坊料理』から発展したものであり、

長い歴史のなかで積み重ねられ、考案料理され安全性等の裏打ちが確りしていますので

世界に『和食文化』が広まったのではないでしょうか。




科学文明が発達して、人間が唯物論的になり、物質で何でも支配出来るような錯覚を持って来て、

物質で生命がつくられると考えて、生命を霊的なものと考えないで、

ただ『物質の生産物』だという考えから、生命尊重ということが失われています。

もっと科学が発達したら、人間に必要なたんぱく質を、生きている鶏を使わないで、

食用になる良質なたんぱく質を化学的に製造するということもでてくるのであり、

科学の進歩は人生にとって悲観すべきことではないのです。

科学の進歩に人間の道徳性の進歩が伴わないところに問題がある。

科学の進歩と道徳の進歩とが並行的にもっと進歩すると、

生き物を殺さないでも、おいしい食物がどんどんできて来て、

食物を奪い合い争うことをすることなどが必要でない世界が出てくるのだと思います。




生命尊重から有情、非情全ての生物、植物等が仲良く共存することが出来き、

平和な時代が必ずやって来ます。












THE ANIMALS  (どうぶつたち)・・・広大無辺なる愛に恵まれている有り難さよ!

2018年01月23日 20時16分07秒 | コラム・人文
THE ANIMALS  (どうぶつたち)・・・広大無辺なる愛に恵まれている有り難さよ

皇后さまの和歌50首をボン大学名誉教授の日本学者、ペーター・パンツァーさんがドイツ語に翻訳して

歌集『その一粒に重みのありて』が17日、ドイツで出版されるそうです。

美智子皇后陛下の歌集が初めてドイツ語で紹介されるそうです。


以前も児童文学のノーベル賞とも云われている国際アンデルセン賞を受けられた『まど・みちお』の作品の中から

最も公務、多忙な時期である1989年に美智子皇后陛下が選択され、

そして英文に翻訳なされた20篇の英詩が『THE ANIMALS  (どうぶつたち)』というタイトルのもとに

書き上げられ、お手作りの小冊子にまとめられ、

アンデルセン賞国際審査委員の数だけ複製され、

海外に送られました。

日本の子どものための詩が、世界の児童文学者の脳裏に刻み込まれることになったのは、

これが初めてのことでした。

後にマーガレット・マッケルダリー女史により安野光雅氏の装丁で日米同時出版されました。



私もこのTHE ANIMALS  (どうぶつたち)という絵本を知ることによって

初めて『美智子皇后陛下』が日本の文化を世界に向けて、

広めて頂いていることをおそまきながら知りました。

有り難いことです。


美智子皇后陛下の英文は簡素な英文であり素晴らしい翻訳でありました。



ひとこと
                         まど・みちお


この地球のうえには、無限といいたいほどのさまざまな生き物が生かされています。

なんと素晴らしい有り難いことでしょう。

その中の一ぴきである人間も、夢つきない、命かがやく日日を、ここでおくることができています。

またこのことから私たちは、間違いなくはっきりと天の声を聞くこともできています。

この地球は人間だけのふるさとなのではなくて、

その無限といいたいほどの生き物たちみんなにとっての、

かけがえのないふるさとなのだという天の声です。

そしていま私は、過分の恩恵につつまれて世に出ようとするこの貧しい声たちが、

その天の声に響き合いますようにと、図に乗って、念じている次第です。


1992.2.10



以前、妻が『子どもの句集』を高齢であられる『まど・みちお』さんに送ったことがあります。

すると丁寧な愛深い優しい言葉で書かれたご返事を頂きました。

2014年〈平成26年〉2月28日に心優しい『まど・みちお』さんはお亡くなりになりました。










先祖供養祭・・・霊魂の浄化。其の一

2018年01月16日 21時09分02秒 | コラム・人文
もう直ぐ一年の中で一番寒い『大寒』ですが、

今日の先祖供養祭は温かい日に恵まれました。

今年初めての地区の先祖供養祭でした。

神道様式の供養祭です。

毎月例祭日を定めて行われています。


江戸時代に『寺請制(檀家制度)』が設けられた影響で仏教様式の葬儀がひろがりました。

その影響で皆さんは神道様式のお葬式、先祖の供養は馴染みが薄いのではないかと思います。


生まれてこぬさきも生まれて住める世も

死にても神のふところのうち

人は死に遭遇して悲しみに沈む。

                    橘 三喜 神道四品縁起

仏教では引導を渡す色々な唱えごとや所作がある。

神道でも鎌倉時代以後、信仰心に根ざし生死を見極めた歌も少なくない、

それが神道引導歌という形で生まれて来たのは、江戸時代中期、

『神葬祭』というものが段々形を整えるに至ったことに伴ったものである。

死んだものはどこへ行くのであろうか。

死者の魂の行方を思うものに対して、過去も現在も未来も、

これを生んでくれた祖神のふところを離れるものではない道理をわかり易く説いたものである。

『生まれてこぬさき』は現世『死にても』は未来のことで

そのいづれもが自分を生んでくれた祖神のふところに(御心)をはなれぬものであることをいったものである。

神道の生みの信仰、産霊(むすび)の信仰が明瞭に言い現わされている。

氏神信仰に於いて『氏神に出たものは氏神に帰る』と説くことも同じ道理である。

何故なら氏神も祖神であり、祖神の現われでないものはないからである。

             


先祖の魂は子孫に伝わる

我が身生まれてあるは、

即ち是れ、先祖の身分れたる故なり

                  林羅山 神道伝授

自分は先祖の分身(心)であるといえる。

祖孫一体、氏神と氏子とは一体であるという信仰が、

神道では明瞭である所以である。




父母はわが家の神、

わが神と

心をつくしていつけ人の子

                     本居宣長・玉鉾百首

わが家の今日あるのは、その初め、父母が私共を生んでくれたお陰による。

その意味で実際の人生に於いては、自分を生んでくれた父母を、

最も身近なわが家の守り神として大切にすべきである。

更にその祖父、高祖父、曾祖父とさかのぼっていけば、

遠い神を大切にするのはよいが、

現実の最も身近な父母を我が家の守り神として大切にすることが、

神まつりの第一歩であることを教えたものである。


先祖供養は今、此処に私達が神様(祖神)・仏様(先祖)に生かされていることに対して

(祝詞・経典・真理の言葉等)を捧げて無条件で感謝することであります。

お蔭を得る為の先祖供養ではありませぬ。


『注』
      神葬祭・・・佛教の葬儀にあたる。













峻厳にして『公正なる愛』は善人にも悪人にも何れにも太陽が光りを注ぎかけるが如くでなければならない。

2018年01月06日 14時26分42秒 | コラム・人文
今日1月7日は久留米の創紀1900年の『大善寺玉垂宮』で日本三大火祭りであり、

1600年の歴史がある国の重要文化財でもある追儺祭の鬼夜(おによ)が行われます。

仁徳天皇56年(368)1月7日に勅命をうけた藤大臣(とうのおとど)が

肥前の賊徒(水上の桜桃沈輪)の首を討ち取り、筑紫を平定したのが始まりです。

奈良の薬師寺の旧日記に残されています。

三韓出兵に大功があった藤大臣が此の久留米で没しました。

祭神は玉垂宮命(藤大臣・・・高良大神ともいいます)、住吉大神、八幡大神

私も駆けつけたかったのですが!

私の尊い恩人である龍宮住吉本宮に参拝に行きました。

是で五社のお参りがすみました。

穏やかな良い天気に恵まれました。

今年中に後六社(香椎宮、筥崎宮、名島弁財天、宮地嶽神社、大善寺玉垂宮、日佐住吉神社)参拝の目標です。

殆どが『古事記の仲哀紀』に登場する神功皇后(香椎大神)と御縁があり、又祀られている神社です。


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峻厳なる叡智に導かれる愛

峻厳にして公正なる愛は善人にも悪人にも何れにも太陽が光りを注ぎかけるが如くでなければならない。

一方において他の人に対して喜んで自分自身を与え切ながら、

而も、他方に於いては、自己を断乎として守って自己を滅却して

他の人に仕えることを厳然として拒否するのである。

イエスキリストは断乎としてパリサイの徒と戦ったし、

縄の鞭をもって不浄なる商売的な徒を神聖なる境内より駆逐したのである。

『何人も我より命を奪うことを得ず、我は我自ら命を捨つるなり、我は命を捨つる力を有し、復た再び命を得る力を有す』と。

イエスキリストは自ら万人の罪悪意識を贖わんがために十字架に往いたのである。




    

相対の中の絶対、空虚の中の実体、不均衡の中の均衡・・・・・岡倉天心

2017年12月31日 12時56分06秒 | コラム・人文
今年一年、拙いブログを読んで頂きありがとうございました。

心より篤くお礼申し上げます。

平成最後の年である来年が皆様にとって

愛深く、祝福された、明るき、

幸いに満ちた年であることをお祈り申し上げます。

今日は今年最後の晦日である『大晦日』です。

以前は大変賑やかで、皆新しい年を迎えるのに駆け廻っていました。

蕎麦屋さんも一年で一番繁忙時でした。

合理的な信仰(考え)により、また時代の変遷により、

新しきものを吸収する代わりに『良き文化』も次第に忘れ去られようとしています。


今年最後の大晦日に

日本文化、文明論を外国に英文で紹介した岡倉天心先生の言葉を紹介します。


一椀の茶を前にしてこれこそ人生に美と調和と和楽とを授ける秘法であるという。

茶は薬用として始まり後飲料となる。・・・・・

十五世紀に至り日本はこれを高めて一種の審美的宗教、すなわち茶道まで進めた。

茶道は日常生活の俗事の中に存する美しきものを崇拝することに基づく一種の儀式であって、

純粋と調和、相互愛の神秘、社会秩序のローマン主義を諄々と教えるものである。

茶道の要儀は『不完全なもの』を崇拝するにある。

いわゆる人生というこの不可解なもののうちに、

何か可能なものを成就しょうとするやさしい企てであるから。

茶の原理は普通の意味でいう単なる審美主義ではない。・・・・・

宇宙に対するわれわれの比例感を定義するから。・・・・・

それはあらゆるこの道の信者を趣味上の貴族にして、

東洋民主主義の真精神を表している。


                             
 
         茶の本 岡倉天心(本名岡倉覚三) 
              
         『The Book of Tea』 1906年 フォックス・ダフィールド社(ニューヨーク)『茶の本』として英文で出版された。



                    

                  
              

            



神の人類愛へ 『おのれに背くもの』・・・人間の自己破壊性、死への願望。

2017年12月24日 10時19分16秒 | コラム・人文

愛は憎しみを知らない。

愛は失望しない。

愛は愛する対象が美しいことを必要としない。

愛は神の愛が此処にあらわれたものである。



世界各地の少数民族の存在が危ぶまれています。

またその中で弱者である幼い子供達が犠牲になっています。

強者が弱者を排除する心が根強く存在しているからなのでしょう。

違った視点では深い潜在意識の底では、強者が弱者を恐れているからでしょう。

強者が弱者を恐れるとは不思議ですね!

人間の深い意識の底で何が起こっているのでしょう。


死を恐れている人が自殺する。

自己をいじめることに快感を伴う、

失敗せんがために、成功の一歩手前で自らの手で失敗の道へと導く。

失敗の意思の虜、己れを破壊せんとする衝動。

『フロイドがいった人間の自己破壊性、死への願望』。

フロイドは言った『知性の声は低い、だが、それは強力である。』


カールメニンジャーは此のことを『おのれに背くもの』と言いました。



メニンジャーは知性をもって死に対抗せんとする人々に ― 

おのれを増悪に売り渡そうとする盲目の衝動を、

輝く『愛』に置き換えるために。

われわれは今こそ、勇敢に己れの内部に知性の光りをさしむけ、

内奥に潜む盲目の衝動から己れを開放し、

心の自由と独立と平衡をとりもどさねばならない。

これこそが、真の人間の開放であり、人間性の再建であり、

世界と人類を戦争の破壊から救う唯一の確かな道なのである。