道元禅師が食事を調える人は、功徳が大きいことを『典座教訓』で説かれています
(典座の心の用いかた)
お米をといだり、おかずを調えたりすることは、典座が自信で手を下し、よくよく注意し細やかな点まで気を配り、心をこめて行い、一瞬といえども、おろそかにしたり、なげやりにして、一つのことはよく注意し気をつけるが、他の一つのことには注意をおこたったりすることがあっては成らない。
典座の職責全うすることは、大海のように広大で深い功徳を積むことであり、この大海も一滴一滴が集まってできているのであるから、ほんのわずかのことでも他人にまかせてはならないし、また山のように高い善根を積み重ねることにおいても、大山はひとつまみほどの土が積もり積もって成ったものに外ならなのであるから、高い山のひとつまみの土ほどの小さなことでも、自分で積み重ねなければいけないのではないか。
『禅苑清規』に「苦い、酸い、甘い、辛い、塩からい、淡いの六つの味がほどよく調っておらず、また軽輭(あっさりとして柔らかである)、浄潔(きれいでけがれがない)、如法作(法にかなった調理がなされている)という、料理の三徳がそなわっていないのでは典座が修行僧達に食事を供養したことにはならない」と言っている。
まず米をとごうとしたなら、そこに砂が混じっていないかどうかよく見、さらに砂を捨てようとしたなら、そこに米が混じっていないかどうかよく気をつけ、このように念をいれてよくよく注意し、気を緩めることがなかったなら、自ずと三徳は十分行き届き、六味もすべてととのい備わってくるであろう。
道元禅師 典座教訓より
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