夢から慈しみの世界へ

神と自然と人間の共生
神一元・善一元・光明一元の生活
人間の生命の実相は『仏』であり、『如来』であり『神の子』である

5月19日(木)のつぶやき

2016年05月20日 04時39分38秒 | 日記・エッセイ

苦痛、涙の奥に聖地がある。(生きとし生けるもの、ありとしあらゆるもの、山川、国土を愛する) goo.gl/bFQlQH


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苦痛、涙の奥に聖地がある。(生きとし生けるもの、ありとしあらゆるもの、山川、国土を愛する)

2016年05月19日 22時02分28秒 | 自然の育み・環境
苦痛、涙の奥に聖地がある。(生きとし生けるもの、ありとしあらゆるもの、山川、国土を愛する)

寒暖の差が激しい変化に、心と体を調和することが難しいですが。
刀剣を鍛える時に高熱に晒した真っ赤な鋼を打ち、またその鋼を水に入れて冷やします。
そのように温度差のある環境に晒して鋼を鍛えます。
このような経験を経て名刀が顕われます。
日本の美しい四季の移り変わりの中で、このような寒暖の差があることは、人の心を自然に鍛える作用が秘められています。
この国の人々は自然に対して優しい情感を持っており、またその自然環境の変化に鋭敏であります。
また自然環境の変化に寛容であります。
それ故に自然を人間の智慧のみで調和せしめるような事に対して否定的な感情があります。
歴史的に自然に人生を托したり、模したりして自然と一体になる心が内観的に自覚され、その心根が古事記、万葉集などに顕されています。




苦しみ、痛みを味わう経験は霊魂の進化のためになくてはならぬものだと理解した時、
この世界は苦しみ苦痛があっても究極的には調和しているのだと判ってくるのです。
苦痛の境涯を味わっている人も被害者でもなければ、苦痛を与えている人も加害者でなくなります。
それは無限向上のためにの切磋琢磨であると信じることが出来ます。
今まで敵として見えていた者が、自分を生かす味方に変貌することを体験することでしょう。

どんな小さな草花でも、小さな昆虫でも、みんな同じ毘盧遮那如来(びるしゃなぶつ)の生命の兄弟である事が
根本自覚となって初めて単に人類のみを愛するのでなくて、愛が拡大して単に『人類愛』のみならず生類愛にまで高められる。
そして一切の生きとし生けるものを愛することができる。更に生きとし生けるものだけじゃなくて、ありとしあらゆるもの・・・・・山川・国土というような全ての鉱物も、ひとしく毘盧遮那如来の生命の顕現としての兄弟である。
・・・・その真理が解る時、今まで、物質で構成されていると思われていた環境が物質でなくて、
自分の心が生きとし生けるもの、ありとしあらゆるもの互いに感応して自由に
自分の心で思い通りに変化させることが出来る、『唯心所現』の世界であることが理解出来るのです。



























5月17日(火)のつぶやき

2016年05月18日 04時35分06秒 | 日記・エッセイ

天皇の御いのちは『吾々神の子』に宿り給う goo.gl/4MQMpP


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天皇の御いのちは『吾々神の子』に宿り給う

2016年05月17日 22時52分30秒 | コラム・人文
天皇の御いのちは『吾々神の子』に宿り給う

雲ひとつない青空のなか、午後から休みをとってボランテアで小さな菜園の植えかえをしました。
以前のセロリ、春キャベツ、春菊等に代わりにキュウリ、二種類のナス、二種類のトマト、ビーマン等を植えました。
無農薬、無肥料の腐葉土のみの自然農法に兆戦しています。
無肥料ですと虫がつかないで、野原の野と菜との熟語である『野菜』が本来の爽やかで清らかなる『野の菜』を見ることが出来ます。



名称は異なれども、宇宙のの中心座にまします神は万教共通の本源神がましますのである。
その本源神は無限智、無限愛、無限生命である。
言い換えれば偏在にして全知全能である。
そしてその天之御中主神から天照大御神から天皇にあらわれていたまう神、
その神がわれわれにも宿っている。
そしてわれわれは天皇の御生命(おんいのち)の岐れであるから、天皇にマコトを尽くすのが、
それが忠であることなのです。
すなわち分岐した『子』としての“いのち”がその本源なる『中(みなか)』のいのちに帰一する、それが『忠』であるのです。
子のいのちが『中(みなか)』の親さまのいのちに融合帰一して一体となる『個』即『普遍』の真理です。
続く・・・・・




5月15日(日)のつぶやき

2016年05月16日 04時36分49秒 | 日記・エッセイ

宇宙の実相は、蓮の花の形が示すがごとく蓮華蔵世界である。(釈迦世尊粘花の公案) goo.gl/G7k0Ui


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生きている喜びこそが、
神の尊い生命に、
生かされている事実である。



宇宙の実相は、蓮の花の形が示すがごとく蓮華蔵世界である。(釈迦世尊粘花の公案)

2016年05月15日 21時27分42秒 | 真理の言葉
宇宙の実相は、蓮の花の形が示すがごとく蓮華蔵世界である。(釈迦世尊粘花の公案)

電話が鳴り響き、訃報の知らせがありました。
人の存在がある日突然に失われる。
今まで共に歩んで来た仲間が居なくなるとその仲間の今までの道のりを辿り、思いを寄せると色々な感情が巡ります。
何気なく挨拶を交わし、共に仕事をこなしていたことが、その仲間の表面的な存在である肉体が失われると不思議にもその仲間の肉体の奥にある内面的なものをより強く見詰めようとします。
戒名は本義では生前に授けるものですがほとんどが死後、葬送の儀式の中で僧侶が白木の位牌に戒名の前に
『真実の世界へ還帰』すると云う意味の法語を付与して戒名を書きますが、このような事から肉体が失われると真実の世界へ一歩近づくと考えられます。
肉体が存在している時にはそれ程に煩悩(まよい)に満ちてふり舞わされていることなのでしょうか。
肉体そのものの物質には価値がなく、肉体に佛の生命(こころ)が宿ることによりこの世に生かされている意義があるのではないかと思えます。
神道でも遺骸を穢れとして忌み嫌います。
親鸞上人も『閉眼せば賀茂川に投げ入れて魚に与えよ』。と言い残したそうであります。
これも遺骸そのもには真実なるものは存在しないと云うことであります。
肉体の奥に佛、如来の生命が存在していることが真実なるものであります。





釈迦世尊粘花の公案


お釈迦さんが、金波羅華即ち金色の蓮華の花を粘って示され、
これが宇宙の実相であるという意味を実物の花の形を示して、宇宙は蓮華蔵世界であって蓮華の如く中心にハチスの実があることを示されました。
だけどもそこに集まっている人間、天人およそ約百万人『茫然として措くことなし』お経にある通り、何の意味か解らなかった。
ところが、唯一人迦葉尊者という弟子が、ニッコリと笑ったのです。
その時にお釈迦さんが『吾に正法眼蔵、涅槃妙心、実相無相微妙の法門あり。摩加迦葉に付属す』と言われた。
『仏教の正味の真理はここにあり、此の真理をお前に授けたから、あとは宜しくたのむ』と仰ったのです。
この宇宙の実相は、この金波羅華の花の形が示すがごとく蓮華蔵世界であって、
中心座に毘盧遮那如来・大日如来、日本語に翻訳すれば中心座に天照大御神がましますということが真理なのだと
お釈迦は、三十五歳の十二月八日、尼連禅河畔の菩提樹下に座して悟りを開かれた。
その真理をそのまま『大方広仏華厳経』というお経にお説きになったけれども、
その真理は当時のインドの大衆には理解されなかった。
続く・・・・・













5月14日(土)のつぶやき

2016年05月15日 04時34分36秒 | 日記・エッセイ

彼と一体となりたいと願う、愛の切なさ goo.gl/JMeiVI


彼と一体となりたいと願う、愛の切なさ fb.me/YGChzFWH


花は吹かれゆく、
風の聖霊は樹の精霊から
美しさを解き放ち、
母なる大地の精霊にいだかれる。



彼と一体となりたいと願う、愛の切なさ

2016年05月14日 10時11分25秒 | 真理の言葉
彼と一体となりたいと願う、愛の切なさ

視覚の大切を感じる今日この頃です。
視力の事ではなく、平衡感覚のことです。
以前は立って黙祷しているときには身体がふらつくことは無かったのですが、
最近は長く黙祷して立っているとふらつき加減になります。
筋力が落ちているのではないかと思えます。
此のことで始めて人間の身体維持のために、目、耳、鼻、唇、臓器、手、脚等の各器官は
バラバラでは無く互いに助け合っていることに気がつきました。
自分自身が頭脳智を尽くして各器官を司っても、調和せしめることは出来ません。
互いに助け合うことが出来るのは此の中に無限なる叡智をもった中心者がおられることになります。
此の中心者が神であり、人のいのちであります。
身体的能力、筋力の衰えに対して、自分自身はある程度は、世間並みに年齢相当に落ちていく事は誰でも認識しているのですが、
現在意識ではハッキリとは認識していないようであります。
以前は当たり前であったことがそうでは無くなります。
現象的な現実が失われて来ますと、五官的な肌では感じることの出来ないことがだんだんと理解することが出来るようなります。
今まで築いてきた物事が剥落してきますと、真実の世界が近づいて来るようであります。

人間は神の子であり、永遠の若返りであり、永遠の生命であり、永遠に無病である。
老衰を早めるも、遅らすも心しだいである。




もし私の妻、娘が原子爆弾で、顔も体も一面に醜いケロイド状態になったとしても
私は、こんな醜い顔の妻、娘は愛することは出来ない。
もっと美しい顔や娘なら愛することができるけれど等と考えなかったに違いないのであります。
そのように放射能で焼けただれた妻や娘をなお一層深く愛し、不憫に想い、少しでもその傷が癒え、
快くなるように何とか手当てをしてやりたいと願い、心から思う。
愛するとはこのような感情なのであります。
美醜を超えて彼と一体になるのが愛であります。
『国を愛する』ことは国が豊かであるとか立派であるとか、貧しいとかの外観ではなく
『自分自身の生命』と『国の生命』との一体の自覚感情であります。
続く・・・・・





5月13日(金)のつぶやき

2016年05月14日 04時38分39秒 | 日記・エッセイ

美しい桜の花の根本の生命は何処にあるのであろうか goo.gl/Uu53vd


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神は無限の世界から無限の力を与えあなた生み出した。
その神と仲良しになることは、川の水の流れのように思うままに生き、
雲が漂うように何処までも自由に行くことが出来るである。



美しい桜の花の根本の生命は何処にあるのであろうか

2016年05月13日 21時38分08秒 | 真理の言葉
美しい桜の花の根本の生命は何処にあるのであろうか

出講先で先祖供養の為に仏壇の前で鈴を八度打ち、十念仏を唱えますと仏壇の上空に念仏が木霊し、
まるで広い宮殿の中を念仏が反響しているようでありました。
佛を唱えると佛が現れ
佛と佛が響き合い
佛の生命(いのち)が木霊する。
此の霊感的な事実が実感として、感情的に心に染み入りました。
あり難いことでありました。




桜の花が開くというのは、その花の形の原型は、桜の樹の『生命』の中に、
その花の個性ある構図が『既にある』(理念という)からであって、
その『既にある花の形』(理念)は物質ではないから、物質界のものを観る装置等の超電子顕微鏡で探って見ても
見えないものである。
その桜の『花の原型は生命の中』にあるのだが、生命は物質界を知覚するための、五官のはたらきや、
人間が利用する測定機では視ることが出来ないのである。

霊的形相を理念と呼ぶ

生命に内在するところの心に描かれている原型(霊的形相)を『理念』と呼ぶのである。
『理』の字は『玉』偏である。
『玉』は宝石のことである。
その宝石は『玉(たま)』であるが、その宝石を神さまの『霊(みたま)』にたとえて、
神さまの霊(みたま)の表面に浮かんだアイデアの形、姿を『理』として象形文字をもって是をあらわしたのである。
『理』は神に内在する理道(すじみち)が神の『みたま』の表面にすがたをあらわしたものである。
それは神の心に『念』として浮かんだものであるから、『理』と『念』とを熟語として『理念』と呼ぶのである。
続く・・・・・





















                     




5月12日(木)のつぶやき

2016年05月13日 04時38分28秒 | 日記・エッセイ

国のいのち、人のいのち

2016年05月12日 15時06分37秒 | コラム・人文
国のいのち、人のいのち

唯物論で書かれた憲法は丁度ドミノ倒しのように一個のブロックが倒れるとすべてのブロックが次々と倒れるように、
一つの規定が壊れますと次々に全体の規定に不都合があらわれて来ます。
コンピーターも一個の部分が積み木のように積み重なり全体となっていますが、下端の積み木を一個外すと瓦礫のように全体が崩壊します。
末端のATMに不都合が生じると全体のネッワークのコンピーターにも影響がでるのと同じであります。
人間の指に針を刺し血が僅かに滲んだだけで全体の人間の機能が全て停止することと同じことであります。
しかし人間はそのような小さな部分の傷には大きな影響をうけずに、全体の身体は機能します。
人間は全体を優先した目に見えない叡智が創造した身体であります。 
このように全体を優先する唯心論と部分を優先する唯物論とは大きな違いがあります。
唯物論を優先させた国々は部分である末端の不都合が生じて革命等により体制の崩壊に広がる恐れがありますので、
常にその不都合を排除するために体制の監視、保持、人々の粛清を厳しくする必要があります。
唯心論を優先した国々は末端の不都合に、寛大な心があります。
反対に目には見えない感じることが出来ない国の『理念』なるものを大切にします。
五官では感じることが出来ない『国の理念』が崩壊すると国も滅びることになります。
国が滅んだ民族は数奇な運命をたどる事になります。
現憲法は敗戦後に敗戦国である自国の考えを主張出来ない時期に、勝利した国々を優先して出来た憲法であることには疑いの余地はありません。
またその当時は外国の管理下にあり、それに沿うように生きていかなければならない運命が科せられていました。
私が小学生当時住んでいた町も基地の街でした。
事件が起きると先に到着するのは県警のパトーカーではなく外国のMP(憲兵)のジープでした。
私達子供はそのジープを恐れました。
外国の将兵の緑の芝生に囲まれた自宅は治外法権がはたらいていて立ち入ることが出来ませんでした。
港には巨大な航空母艦が停泊していて、折り畳んだ翼の飛行機が満載されていました。
子供ながらもその優れた力、カッコ良さに憧れを持ちましたが、街には外国人に群がり、せびる子供たちもいて、
明らかに経済力等、全てにおいて力の相違を感じて、恐れてもいました。
外国の管理下にあるが故に、外国から援助を受け、自国の全ての力で国を保持する必要はありませんでした。
ある意味で外国に依存の状態でありました。
この依存の状況の中でわが国は高度成長してきました。
しかしその外国の力が衰退するに従って色々な問題が出てきました。





キリストの王国は何処にあるのか

このイエスのことば『吾が国はこの世の国に非ず』と。そしたらそのキリストの王国というものは一体何かと言うことになる訳であります。
『汝は王なるかと』とローマの総督は問う。
『汝が言えるが如し』とイエスは答える。
しかしイエスは『吾が国はこの世の国に非ず』といっているのである。
そこで『王』といったのはどんな意味か考えなければならない。
『王』というのはどんな意味で言ったかよいうと、王というものは何でも自由自在に命ずるところのものが、
実行されそれが現れて来る権威あるものが、『王』である。
言い換えると、コトバを発すれば何でも実現し得るところの完全なる自由を有する者が『王』である訳です。
そういう意味において『汝は王なるか』と問うと『汝が言えるが如し』とイエスは答えている訳であります。


続く・・・・・・

5月11日(水)のつぶやき

2016年05月12日 04時35分32秒 | 日記・エッセイ

米粒も同じものは一つもない。
あなたの存在もかけがえのない、
ただ一つの尊いものである。
神は見そなはし給う
あなたの真心を。



特殊な女性の場合の真実の幸福

2016年05月11日 21時24分59秒 | 真理の言葉
特殊な女性の場合の真実の幸福

職場にも沢山の女性が女医、看護師、事務職として活躍しています。
女性も瞬間的な腕力等の筋力は男性にも劣らないものであります。
剛健な男性でも辛いリハビリ等では目の淵に涙を浮かべますが、女性は最後まで涙を浮かべずに頑張り通します。
男性は血液を見て顔が青ざめますが、女性は顔色を変えることはありません。
このように女性の胆力は素晴らしいものがあります。
母強しのそのものであります。




特殊な女性の場合の真実の幸福


特殊なる女性に於ける場合はその愛を結婚生活しないで、何か一つの社会的慈善事業や、宗教的奉仕に、満足することもあるのであります。
孤児園の保育に自己のすべての愛情を捧げたり、神の愛に奉仕することにより自己の愛を満足せしめるようにするのが特殊なる女性の幸福であります。
これ等の霊魂はすでに結婚生活で得られる喜びも悲しみもすでに卒業せる魂であります。


愛と徳はわたしたちの心奥ふかくしまっておくものではありません。
なぜならロウソクを点して枡の下に置く人はいません。
家の中の皆に光りが行き届くように、燭台の上におくものですから。
宣教する修道女は神の愛を運ぶものです。

マザーテレサ

私たちの心には、子供の頃の自由な楽しい世界、生き生きとした感情への憧れがひそんでいる。
キャサリンマーシャル

置かれた場所で咲きなさい
渡辺和子















5月9日(月)のつぶやき

2016年05月10日 04時31分00秒 | 日記・エッセイ