夢から慈しみの世界へ

神と自然と人間の共生
神一元・善一元・光明一元の生活
人間の生命の実相は『仏』であり、『如来』であり『神の子』である

運命・・・(人生の最大の祝日は今あるところものは最善のものだという事実を認める日)

2016年06月07日 16時57分52秒 | コンコードの哲人 エマソン
運命・・・(人生の最大の祝日は今あるところものは最善のものだという事実を認める日)

時間と空間の三次元世界に生きている我々肉体的存在の人間は、
有限なる三次元世界の激流に思うがままに流される流木のようなものであります、
しかし人間の『本当の姿』は流木のように激流に吞みこまれるような儚い存在ではありません。 






コンコードの哲人、エマソンが言ったように
高貴な、創造的な力が人間には働いているのだ。
思想の啓示は人間を奴隷の状態から自由の世界に入らせる。
私たちは生まれたあとで再び生まれ、こんな誕生を幾たびもくりかえすといわれる。
私たちは大事な経験をつぎつぎと重ねるので、新しい経験は古い経験を忘れ、こうして『第七天国』とか『九天』とかいう神話が生まれて来る。
人生の最大の祝日は、内なる眼が開ける日―すなわち、今あるところのものは、かくあらねばならず、またかくあるべきものであり、最善のものだという事実を認める日、を意味しているのだ。
この祝福は天から私たちに下って来て、私たちの眼にそれが見えるようになる。
至福が私たちのなかにあるというより、私たちが至福のなかにいるのである。
真理が心を訪れて来ると、私たちは突然、その真理の大きさまで拡大し―世界大にまで成長する。
直感からものをいう人間は、自分に関して、心の真実のみを語る。
心が不滅であることを知るものは、自分は強いのだという。
私たちのなかに心があるのでなくて、心のなかに私たちがいるのだ。
それは創るものであって、創られるものではない。
いっさいのものはこれによって触れられ、これによって変えられる。
それは他のものを使用するのであって、他のものによって使用されるのではない。









6月6日(月)のつぶやき

2016年06月07日 04時39分28秒 | 日記・エッセイ

我々は毎朝、毎朝、新たに生まれるのである。 goo.gl/gyk3Qy


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我々は毎朝、毎朝、新たに生まれるのである。

2016年06月06日 22時14分34秒 | 真理の言葉
我々は毎朝、毎朝、新たに生まれるのである

小雨がチラつく、夜も明けぬ早朝に菩提寺の薬師堂にお参りしますと山門の仁王像の前に、
新しい揃いの大きい燈籠が献納してありました寄進者を見ますと菩提寺の住職でありました。
驚きましたが、住職みずからこのお寺に御縁のある方々、一切の衆生に燈火を与えようなされている姿は尊いものであり、
御徳の高い律儀な御住職であります。
天皇陛下、皇后陛下が隣のホテルにお泊りになられた時にも別時供養といって特別にご供養なされました。
その後、神社の三社参りをしていますと小雨の境内の前で朝市の準備が始まっていました。
朝靄の川に白鷺がまだ冷たい水に、足をつけ水を啄ばんで働いています。
拍手でを打つと、境内を清らかに鳴り渡り。
朝は希望が鳴りひびく時であります。




吾々が眠りより覚めて意識の世界に再び帰って来たとき、そこには吾々は新しく生まれた自分を発見するのである。
過去との一切のつながりは、完全に断ち切られ、過去の一切のものは過ぎ去ってしまったのである。
新しく生きるのだと云う希望と決意が湧き起こって来るのである。
朝の曙こそ、我々の心が浄らかな白紙のように浄められるている時である。
あなたの未来は、今あなたの掌中に握られているのである。
今、この時、善き事を考えましょう。
今、善き事を計画しましょう。
まことに一日の計は朝にあるのである。






6月5日(日)のつぶやき

2016年06月06日 04時37分48秒 | 日記・エッセイ

神が唯一の創造者である・・・(森の恩恵) goo.gl/PdruCv


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神が唯一の創造者である・・・(森の恩恵)

2016年06月05日 09時28分10秒 | 自然の育み・環境
森の恩恵

鎮守の森は連綿として生き続けている。
今日も奉仕の人々が清掃に励んでおられました。
全国の神社仏閣もそれぞれの地域の方々の支えによって悠久の昔よりこれまで法統の灯が引き継がれています。
日本はこのような鎮守の森を精神的な支えとして、また心の聖域として崇めてきました。
鎮守の森を通して幼い時から樹木、植物、生物を見つめて、身近に感じて自然とのつながりの空間を
無意識に体現して来ました。
明治神宮も広大な森の多様性が形成されて、都民の憩いの場ともなっています。
植樹際のように樹木を植える思想が歴代の天皇様より粛々と行なわれた来ました。
一本の木(気)の生命を植えることによりその生命が青い地球を育み、
有情非情、生きとし生けるもの、有りとしあらゆるものが豊かな恩恵を蒙ります。


今上天皇御製

とつくに       くにばしら
外国の風招きつつ国柱太しくあれと守り給ひき
                                   明治神宮御鎮座八十年にあたり

神山に『歓びの歌』鳴り渡り集う人々苗を植ゑけり
                                    第四十回全国植樹際  徳島県


ミルクユ ユ ニガテイ スリタル フィトウタ トゥイクサバ ヌ アトウニ マツイ ユ ウイタン
弥勒世よ願いて揃りたる人たと戦場の跡に松よ植ゑたん
                                     第四十四回全国植樹際 沖縄県
                                     沖縄の八八八六調の短歌である琉歌



神が唯一の創造者である


素直な心で神の智慧を受ければ、自然に何時、如何になすべきかが示されるのである。
イエスは『空の鳥を見よ、蒔かず、刈らず、倉に収めず、然るに天の父はこれを養い給う』といっている。
彼らは自然な心をもっているから、自然に『内部の啓示』を受けて、
その時その場所に適当な処置をとり得るという意味である。
驚くべき智慧が宇宙には満ちており、季節と自分、海水と自分、鉱物と自分、植物と自分の間にも相互関係があり、
互いに相手の動きを知る智慧があるのである。
宇宙の万物のことごとく『一つの智慧』によって支配されていることが分かるのである。
その『一つの智慧』が『神』である。














6月4日(土)のつぶやき

2016年06月05日 04時40分57秒 | 日記・エッセイ

日本文化の骨格と肉付けについて・・・(幼心の素直さの中に直感力が存在する) goo.gl/nJirbw


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日本文化の骨格と肉付けについて・・・(幼心の素直さの中に直感力が存在する)

2016年06月04日 11時16分17秒 | 子供と青年の純粋な生命に火を点ずる育み
日本文化の骨格と肉付けについて・・・(幼心の素直さの中に直感力が存在する)

生命力の尊さは、今にも枯れて途絶えそうな植物でも雨が降り、潤いを得ると再び生命力が回復して
生き生きとした姿に再生します。
ただ素直にその厳しい環境を受け入れるところに神の叡智が現われます。
人間の生命も同じであります。
ただ直感に従い、素直に行じたところに『神の無限の力』が現れます。
苦しみの中に悶えている時に、瑞々しい愛念の言葉と祈りを得ると不思議にも魂の奥底から沸々と生きる力と喜びがみなぎって参ります。
これは相対する人間は元々一つの根源なるものの神から別れ出でたものでありますから、
その幸(さきはえ)が共鳴するのであります。

人間の生命の本当の姿は佛であり、如来であり、神の子である。
ただこの真理のみがわれを生かすのである。
われを生かすのはパンではない。
われを生かすのは物質ではない。






日本文化の骨格と肉付けについて

日本国土は、天津神である『天照大御神』が日本民族に授けられた、
多くのものを一つにまとめるという『中心帰一の理念』の実現として発祥した国土である。
その国土の主権の中に、『日本国は斯くあるべし』という『中心帰一の理念』である根本的アイデアが存在して、
そのアイデアがその国土に住む日本民族のひとりひとりの心の方向を定める基本アイデアとなり、
その基本アイデアを骨格としてその上に各人の個性ある精神の肉付けが行なわれ、
『日本文化』と総括してその特徴を示し得ると同時に、個々の日本人がそれぞれの個性ある作品を創作したのである。
ちょうどそれは、日本人には個々別々にはすべて個性ある容貌をしているが、
総括して根幹的には日本民族という共通の容貌をしているのと同じことである。
容貌も無論その人の個性ある生命が民族の理念を根幹として創作した作品である。























6月3日(金)のつぶやき

2016年06月04日 04時44分12秒 | 日記・エッセイ

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中(みなか)のこころ・・・(日本人の心)

2016年06月03日 21時33分59秒 | 日本の食文化
中(みなか)のこころ・・・(日本人の心)

山間部に住んでいる仲間が明日は朝から水田の『畦つくり』で忙しいので今日帰ると言い私と一緒に宿泊しないで帰ってきました。
山間部から田植えが始まり海辺の地区が最後の田植えになります。
農業の機械化が進んでいるのにもかかわらず、農作業が始まると経済活動、病院通い等が減少します。
以前は一族、親戚、同じ等総出で、田植え、稲刈り等の農作業には共同作業をして、学校も臨時休校になりました。
このような事が地域の連帯感、一体感を養いました。
背景に稲作が古代より日本国の重要な基幹産業でありました。
しかし時代の変遷により、外国から利便性のある食生活の文化が流入しました。
日本は穀物の原型を失わせ製粉にして食する文化は、飛鳥朝以前はあまり普及しませんでした。
そのうどんも飛鳥朝時代にまんじゅう、豆腐等は南北朝時代に中国から入ってきたもので、そうめんも帰化人によって伝承されました。それらは副食に値するものでした。
江戸の粋な心が生んだ『生(き)そば』は発酵を待たず、こねたものを延し、切って直ぐ茹でますが、
うどん、そうめん等は捏ねてからある時間(一晩等)ねせて発酵を待ってから延し、切って茹でます。
このように同じ麺類でも、江戸の『生そば』と、うどん、そうめん、外国のスパゲテイ等とは麺作りの考え方が大きく違います。
これは小麦粉を捏ねて発酵したものを焼いたパンにも言えることであります。
日本は米、麦等は精米して麦飯等のように原型に近い状態で食します。
これは懐石料理にも云えることですが、なるべく素材を捏ねまわさず、素材の純粋なるもの(中心)を顕して素朴な状態で食する考え方が日本古来の思想でありました。
純粋なる中心を大切にして、またその素材を極限まで簡素化した、日本画、浮世絵、生け花等の日本の伝統文化にも云えることでもあります。
これ等はヨーロッパの印象派の画家の人々にも多大な影響を与えました。
フランス料理にも日本の美的感覚は影響を与えました。
現代のフランス料理は日本特有の繊細な美しさに進歩しました。






中心帰一の精神を日本民族の伝統として

身土不二の立場から観るとき、われわれ日本人は、此の日本の国土の生命を享け、国土の生命をもつアイデアに導かれ、それを生活の様式に具体化しつつあるのである。
『中心帰一』という日本国民の本能的傾向は、国土の生命を享け、国土の生命が包有するアイデアがそこに住む国民の生命の傾向としてあらわれたものであって、それが『古事記』の冒頭に『天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)』を
宇宙の主神として挙げた国民の思想となってあらわれたし、さらにまた日本国創建の主神として、
太陽系の中心にある太陽の霊にましますところの天照大御神を神話の中に配した思想ともなった。














6月2日(木)のつぶやき

2016年06月03日 04時39分25秒 | 日記・エッセイ

生命には個性がある・・・・・(純情な夫婦) goo.gl/LT0x3D


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生命には個性がある・・・・・(純情な夫婦)

2016年06月02日 20時18分46秒 | 真理の言葉
生命には個性がある・・・・・(純情な夫婦)

仲間の一人が、しばらく連絡が取れないでいました。
十日後の部会に出席しましたがその時にも、もう少しで捜索願いが出るところだったと冗談を言いましたが、はっきりとは答えませんでした。
昨日の身近な座談会の時に、実は夫婦で六日間北米のカナダに行っていたと報告がありました。
近所に住んでいる妹さんにも親戚の人にも、誰にも知らせずに旅行に行っていたとの事です。
現地から連絡しようと思ったが、電話代が相手側にも掛かる等、とうとう機会を失ったそうです。
平、謝りでした。
友人を始め皆さんはヤキモキして心配していました。
以前から行って見たかった所だったそうです。
心に秘めた夢は誰にも知られたくない純粋な心情なのでしょう。
夫婦でその純情な夢を分かち合えたのでしょう。
心がお若い友人夫婦であります。




あらゆる言葉、あらゆる行動ことごとく未来に果を結ぶ種となる。




生命には個性がある

霊妙精緻な構造を、人間に宿る『神の叡智』は創造し、地上七十億の人間が同じ生理的構造の人体を備えていながら、そこから発する精神にはすべて異なる個性をもっており、個性が異なる表現であるかの如く、悉くその指紋が異なることの神秘には驚かされるのである。
何故、すべての人間が同一の生理的構造をもちながら、その人体から出てくる精神のはたらき及び内容がそれぞれ異なるということが起こるのであろうか。
それはその人体に宿っている霊魂(自由意志をもつエネルギー)がそれぞれ異なる個性を備えているからなのである。
人体の生理的構造はピアノの如きものであり、その人体に宿って人体を動かして自己の目的を達しようとしている
『霊魂』はピアノの演奏者みたいなものである。
同じ楽曲で同じ曲譜を演奏しても弾き手が異なるごとに、個性の異なる楽音がひびき出るのとおなじである。


5月31日(火)のつぶやき

2016年06月01日 04時37分38秒 | 日記・エッセイ

愛国心と愛郷心とは異なっている。 (依存と甘えは愛の一種であります) goo.gl/afaou1


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