本当の人間関係を学び続ける学徒のつぶやき

人間関係学を学び続ける学徒の試行錯誤

ウクライナで起こっていることを思う ー1

2022-06-05 09:40:16 | 日記

 まだ世界がコロナによる禍の最中にあえいでいる2月の終わりにロシアによるウクライナ侵略がはじまった。もちろん筆者は、この事態の背景にある政治的な確執を完全に理解しているわけではないが、連日のように伝えられる報道を見ると、かつての米ソの緊張した対立構造をそのまま受け継いだ、欧米の代理としてウクライナがロシアとたたかっている代理戦争のように感じられる。また、報道ではウクライナを支援する欧米が正義で、武力で侵略するロシアが悪であると、単純な二元構造で説明しようとするが、本当にそうであろうか。もちろん、筆者はロシアに正義があるなどというつもりはない、そもそも戦争に正義はないのである。あるのは狂気と暴力そして殺戮だけである。しかし、なぜこのような事態が起こってしまったのか、今後、絶対にこのような事態がおこらないようにするには我々人類はどうしたらよいのかを真剣に考えなければならない。

 このことを考えるのに哲学者M.ブーバーは優れた示唆を与えてくれる。最近読んだ『対話の倫理』(M.ブーバー著、野口啓介訳 創文社)の「あとがき」に1963年10月27日付けの読売新聞に「世界人との平和問答」と題された特集紙面に掲載された、ブーバーが野口啓介氏の質問に答えた手紙が記載されている。その内容は、米ソの冷戦にかんするものであるが、それから60年近く経った現在のウクライナをめぐる情勢にも全く違和感なく通用するように感じる。あえて言えば、60年時間がたっても事態はなにも変わっていない——現代人の病気はまったくなおっていないのである。

 このブーバーの手紙は、読者の方々にとってもウクライナ問題に限らず、現代という時代、現代人のありようを考えるためのヒントになると思うので、簡単に紹介していこう。

【抄】あとがき

   野口教授へ——

 自由と正義が今日のように分裂してしまったのは、大ざっぱにいうとフランス革命の三大原則がバラバラになった結果だと思われます。フランス革命は自由、平等(あなたの言葉を使えば正義)そして博愛をもって三大原則としました。しかし、そのうち自由と平等とは、博愛にくらべて非常に抽象的な観念でした。そこで、こうした抽象観念を実現するためには「万人すべてこれ兄弟」という具体的な博愛の精神を中心にして、この中心にこれらをしっかりと結びつけておかねばならなかったのです。ところが、19世紀における個人主義や功利主義のために、博愛精神が次第に消滅し、自由と平等の観念はお互いに離ればなれとなり、結局、今日のような「自由を主張する陣営」と「平等を主張する陣営」とが生ずるようになったのです。

 こうして、巨大な二つの陣営が、国民を根本的に支配しようと都合のいい宣伝をすればするほど、国民は自分たちだけが真理を実現しようとしているのに、相手側は真理の名のものに、権力欲や所有力を満足させているにすぎないと考えるようになりました。これこそ両陣営の思うツボなのです。が、よく考えてみると、この先入観ほど人々の不信をつのらせているものはありますまい。

 わたしはこうした不信の念が、各国民の間に生ずることを、ひそかに恐れていました。しかし、それは第一次大戦をきっかけとして、はっきりとあらわれたのです。つまり、このころから立場を異にする人々の間の「純粋な対話」が困難になってきたのです。と同時に、自分と相手との間に深淵が生じ、それに橋をかけることが不可能になってしまいました。わたしは、30年も前から、これこそ人類の運命を決する一大問題と考え、機会あるごとに「人類の将来は対話を復活させるか否かによって決定される」と叫び続けてきたのです。 

 しかし、残念ながら、今日こうした不信の念は人々の骨の髄まで——つまり人間の実存にまで——達しています。現代人は他人の言行がすべて、本質的に、また必然的に、うそのかたまりであると信じております。たとえば、他人が人生問題や社会問題を論ずると、われわれは相手が本当のことをいっているかどうかを考えずに、どういうつもりでそんなことをいっているかと最初に考えてしまうのです。一見、いかにも客観的な他人の主張には、きっと彼らに都合の良い考えが隠されているに違いない。それをいち早く見破って、相手の仮面をはぐ方が相手の話を聞くより大切だと考えるわけです。現代人の交わりは、個人であろうと集団であろうと、ほとんどこうした腹のさぐり合いに終始しています。このように、相手の仮面をはぎとろうとしてやっきになればなるほど、対話は沈黙にかわり、良識は狂気にかわってしまいます。そして、われわれは相手が仮面だけで、もはや人間として存在していないのではないかと思うようになります。この不信の念がさらにこうずると、相手の存在ばかりでなく、自分の存在——あるいは人間一般の存在——にまで不信をいだくようになります。これこそ、現代人がかかっているもっとも重い病気なのです。この病気が世界平和の実現を妨げているのです。 (つづく)

 

対話の倫理

M.ブーバー原著  野口 啓祐訳

創文社 初版1967(昭和42)年 

 

 

 

 



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