思いつくままに

ゆく河の流れの淀みに浮かぶ「うたかた」としての生命体、
その1つに映り込んだ世界の断片を思いつくままに書きたい。

性善説と性悪説

2012-06-07 16:03:15 | 随想


 人の本性を話題にするとき、よく出てくるのが性善説と性悪説というものだ。これについてはつぎのように考えている。人は進化的産物であり、その進化の過程の各環境において、生存にとって必要であった性質をDNAの中に積み重ねて残し、持っているはずだ。その性質は、あらゆる意味での環境の中で、必要に応じて発現する。(身体の構造に関わり、身体の構造の変化によって発現不能なものも多いとは思うが)いわゆる「善」とされる性質も、反対の「悪」とされる性質も、同じ個体が共に持っており、そのどちらも環境に応じて発現する可能性を持っている。したがって、本性はどちらだと問うことは無意味である。ただし、個体差というものがあり、個体ごとに発現しやすい性質というものはあると思う。

 一般に、「善」とされる性質は社会を平穏に維持するにあたって必要な性質であり、他の人の喜びや悲しみを自分の心のなかに反映し、感じ取って共感することができ、他の人の存在を積極的に肯定し、協調し、協同してゆける種類の性質を言う。反対に、「悪」とされる性質は破壊的、攻撃的、欺瞞的、利己的なもので、社会を混乱させ、他の人に危害を加える種類の性質である。人が社会を構成して生きるものとして進化してきたとすれば、前者の性質が後者に優っていると言うことができると思う。最近話題になっている「ミラーニューロン」(ある行為をするときに発火するニューロンが、他人が同じ行為をするのを見たときにも同様に発火するというもの)は、前者の性質を形成するベースになっているのかもしれない。

 すべての生物は本質的に環境適応の産物であり、人もその一種だとすれば、どういう環境で育つか、成人後、どんな環境の中で生きるかということが、人の考え方や行動に大きな影響を持つことは自明のことだと思われる。つまり、社会にとっての問題は、人の本性はどちらかではなく、「環境」ということになる。「悪」を忌避したいのであれば、人の「悪」という性質が発現しないような環境が必要になる。肉体的、精神的に虐待されて育った人が、普通の社会環境の中で周りの人たちと協調して生きてゆくことは大変なことではないかと想像できる。また、食べるためには何でもしなければならないような劣悪な環境の中で、いわゆる「善」の心を保ったまま生きてゆくことも難しいと思う。劣悪な環境は、人の中のいわゆる「悪」という性質を引き出す可能性が高い。

 生まれながらにして持っている個人的な資質や生まれてきた環境など、当人にはどうしようもない条件、努力とは無関係な条件が、この社会を生きる上で大きな不利、あるいは有利な条件になる。自然に任せれば、有利な条件を与えられた人はますます有利になり、不利な条件を与えられた人はさらに不利になる。両者の差は極限にまで達する。そのようにしてできた過度に極端な格差のある社会において、人の中から「善」を引き出すことには困難を伴うと思う。「悪」を引き出すことは容易にできるとは思うが。

 たとえば、新自由主義という考え方があるが、それを信奉する人たちは、「小さな政府」を目標としてかかげ、政府が自分たちの行動を制約することを極端に嫌い、もっと自由にビジネスをさせろと主張している。彼らは有利な条件にあり、その条件を利用してもっともっと儲けたいというわけだ。自分たちが儲ければそのお金がいずれは社会に周り、社会が豊かになるとのこと。しかし、彼らは税金が高すぎるとして減税を要求し、儲けたお金はタックスヘイブン(租税回避地)に移して税金逃れをしている。このような人たちが横行している社会では、経済格差が極端に進んでいる。そして、彼らは、そのような社会には不満が蔓延し、人の中から「悪」が引き出され、犯罪が増加し、自分たちにも危害が及ぶ可能性があることを知っている。だから、「小さな政府」と言っておきながら、犯罪を封じ込め、自分たちの生命と財産を守るための軍隊や警察力の強化=大きな政府を望んでいる。要するに、自分たちが自由にそして安全に大儲けができる環境を望んでいるのだ。大儲けをしている自分たちは能力があるからであり、頭がよいからであり、努力しているからであり、可能な限りの報酬を受取るのは当然の権利であり、一方、貧乏な連中は、無能だからであり、頭が悪いからであり、努力しないからであり、そんな連中がまともな生活をする権利などないと考えているようだ。

 内田樹さんのブログに「格差と若者の非活動性について」という記事があるが、そこにつぎのような記述がある。もちろん、新自由主義者には一笑に付されるだろうが。

 マルクス自身が自分の天才を「天賦のもの」だと自覚していたからです。その稟質を利用すれば、マルクスならドイツの「既成制度」の中で、政治家や法曹や大学教授やジャーナリストとしてはなやかな成功を収めることだってできたはずです。でも、マルクスはそうしなかった。自分のこの「現世的成功確実な頭の良さ」を苦しむ弱者のために捧げなければならないと思った。それは倫理の問題というよりは、「能力とは何か?」という問題についての答えの出し方の違いによるのだと私は思います。マルクスは自分の才能を「万人とわかちあう公共財産のようなもの」だと見なしていた。

 もし、国というものの目的が、特定の人たちの利権を確保し維持することではなく、平和で安全な状態の中で、人々が経済活動をはじめとする各種の活動をスムーズにできるようにすることであれば、人から「悪」を引き出すような極端な格差をなくし、条件に恵まれなかった人たちでもそれなりの生活ができる社会環境をつくり出してゆくことは、その重要な任務の一つになるはずだ。こんなことを言うと、それは社会主義だ、共産主義だ、悪平等だという人たちが出てくる。しかし、何主義にせよ、上記のような社会を目指すことがどうして悪いのかよくわからない。過去の、既存の社会主義国家あるいは共産主義国家と言われている国がそんな社会を実現したことがあるなどとは思わない。過去の、既存の社会主義国家あるいは共産主義国家と言われているような国を目指そうなどとだれも思わないだろうし、それは当然だと思う。また、極端で、形式的な平等は社会の停滞を招くとも思う。しかし、極端な格差は社会の混乱を招き、多くの人を不幸にすることはあっても幸福にすることはない。この社会は、まだ、特定の個人が何千億円、何兆円もの資産を持っても問題がないほどには豊かになっていないと思う。そんな段階で、個人がそのような資産を持つことができる今の状態には疑問を感じざるを得ない。

 変な比較かもしれないけれどわかりやすいと思うので言うが、1兆円という金額は、新しい1万円札を平積みにして高さ10㎞(100万円で1cmとする)にもなる。エベレスト山(8,848m)より高くなる。個人が持つにはとんでもない金額である。ちなみに、アメリカの経済誌『フォーブス』が発表した昨年度の個人資産ランキングで1位だったメキシコの大手通信会社会長のカルロス・スリム氏は690億ドル=約5兆5千億円(1ドル=80円で換算)、2位のビル・ゲイツ氏は610億ドル=約4兆9千億円の資産を持っている。平積みの1万円札で高さ55㎞と49㎞、エベレスト山の6.2倍と5.5倍の高さになる。しつこいようだけれど、別の言い方をすると、毎日1億円使ったとして、100年で3兆6,500億円。まだ使い切れない金額だ。

 前にも言ったことがあると思うが、お金というものは、それそのものを食べたり、着たり、住まいにしたりすることはできない。その金額は、この世界の富やサービスを、それと交換して受け取ることができる割合を表している。たとえば、2011年の世界の総生産額は約70兆ドル=約5,600兆円だそうであるが、これは世界中の働く人(およそ35億人)が1年間働いて作り出した富である。610億ドルの資産を持つカルロス・スリム氏は、たった一人で、その内の約1,000分の1量の富を自由にできるということになる。もちろん、1年で生産された富が、その年の内にすべて消費されるわけではなく、過去から蓄積されきた富もあり、サービスについては申し出てから提供されるものでもあるので、現存する世界の富の1,000分の1というわけではない。しかし、このことは、カルロス・スリム氏の資産の量がどれほどのものかを実感するのには役立つと思う。国連の食糧支援機関であるWFP(World Food Programme)によれば、この世界の7人に1人、約9億2,000万人が飢餓状態にあるとのこと。恐るべき格差と言わざるを得ないと思うのだが。

 社会環境としては、格差だけが問題ではない。他にも人から「善」を引き出すことを難しくしている問題がある。たとえば、その良し悪しは別にして、核家族化や人の「縁」の希薄化は、その進行に伴って社会内にいろいろな問題を生み出している。子供の虐待もその一つではないか。子育てというものがよくわからない若い親が、相談者もいないまま、そのすべての責任を負いきれない中で起きるということも考えられる。何でも国などの公的機関に責任があると言うつもりはないが、自然発生的に、新しいコミュニティーが生まれ、いずれ問題は解決されるだろうという見方はできるかもしれないが、今を生き、今困っている人たちはそれまで待つことはできない。やはり、公的機関が主導して問題解決を図ってゆく必要があると思う。老人問題(介護や孤独死など)についても同じことが言える。もっとも、孤独死については、人は一人で死ぬしかないのだから、それはそれでいいのではないかと言う人もいるが。

 以上は、環境がすべてだと言っているわけではない。人から「善」なるものを引き出し、「悪」なるものを閉じ込めるためには環境も大変重要だと言っているのであり、環境を整えるために個人でできることには限界があるし、自然に最適な環境になるのはいつのことになるかわからないので、国などの公的機関が積極的に関与する必要があると言っている。もちろん、公的機関が活動するには資金が必要であり、それは国民が負担するしかないのだが、異常な量の資産を持っている人たちからは、もっと提供してもらってもいいはずだ。広く、薄く取るという考え方はいいが、従来の分では足りなくなった現状で、さらに均一に剥ぎ取ると、もともと持分が薄かった人たちの身にまで達し、生活に影響する度合いが大きくなり過ぎる。十分過ぎる報酬を受け、十分過ぎる資産を持つ人たちに、割合としてより多く提供してもらっても、彼らの生活にはそれほどの影響はないと思うのだがどうだろう。彼らがその報酬を受け、資産を築くことができたのは、この社会があったからなのだが、その社会を守るためにより多くの資金を国に提供するという発想は、彼らからは出てこないのだろうか。この社会が崩壊すれば、彼らが貯めた資産の全体も危うくなると思うのだが。




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