こんなことを考えるのも頭の体操になりそう。
「もし昔に戻れたら」とは人がよく思うことだ。タイムマシンのお話もこの願望から生まれたのではないか。SF小説などを読んでいると、科学が進歩すればそんなことも実現するかもしれないと思ったりもする。でも、本当に実現可能なのだろうか。
結論から言うと、不可能だと思う。この宇宙のすべての物質は一定の方向に向かって変化を続けている。エントロピー(乱雑さ)が増大する方向と言われたりしている。この変化は不可逆的である。元には戻らないということ。テーブルの上にある水の入ったコップが床に落ちて割れたら、割れたコップが割れる前の状態になり、床にばらまかれた水がそのコップの中に戻ることはない。過去に戻るということをもう少し具体的に考えてみると、まず、戻ろうとする過去の時点から現在までに変化したこの宇宙のすべての物質の状態を、過去のその時点の状態にまで戻すということになる。それだけではない。さらに、過去に戻った当人を構成するすべての物質は、戻る前の状態でなければならない。そうでなければ、当人は過去に戻ったことを認識できないからだ。少なくとも、記憶を司る脳については、過去に戻る前の状態である必要がある。
どれほど科学技術が進歩しても、全宇宙の物質の状態を元に戻すなどできるはずがないと思う。実は、この宇宙の変化は振動していて、ときどき戻っているということはあるかもしれない。しかし、人はそれを認識することはできない。自身を構成するすべての物質も同時に戻ることになるからだ。特定の個人を構成する物質だけが選択的に戻らないということは考えられない。何でもありの小説なら、そういうことを想定することも面白いかもしれないが。
多次元宇宙、パラレルワールドという考え方がある。この世界は多層的で、同時に別次元の宇宙が複数、並行的に存在するというものである。時空の歪みなどを利用して別次元の宇宙に移動することができれば、時間旅行ができるということになる。時間旅行という観点からすると、他の次元の宇宙も、いまわれわれが生きているこの宇宙もまったく同じ物質と空間から構成され、同じ法則で同じように変化している必要がある。そうでなければ、時間旅行ではなく、他の世界への旅行になってしまう。
この考え方では、宇宙のすべての物質の状態を元に戻すという問題を回避できる。また、時間旅行で過去の世界を変えてしまった場合に想定されるいろいろなパラドックス(過去に戻って、自分が生まれる前の親を殺すと自分はどうなるかという問題など)も回避できる。別次元の世界を変えるのだから問題はなくなる。しかし、時間旅行者が移動した先の世界に対して、どんなささいなことであっても影響を与えてしまうと、その時点から、移動先の世界は移動元の世界とは別の世界になってしまい、時間旅行は成り立たなくなってしまう。
また、この考え方には別の大きな問題がある。別次元の世界の任意のポイントに移動してその世界が見られるということは、その世界はすでに確定されて存在し、しかも、どのポイントで切り取っても、そこにそのときの現在が存在し、しかも未来に向かって時間が流れていることになる。そういう世界がどんな世界なのか、ちょっと想像がつかない。無限の過去から無限の未来にわたって上映されている撮影済みのフィルムのようなものだろうか。
それとも、別次元の世界への移動は、移動元の世界と同時刻に対してしかできないということか。あるいは、別次元の世界の全物質の変化が、移動元の世界に対して遅れていたり、あるいは進んでいたりして、その分だけずれた世界に移動できるだけなのか。いずれにしても、そうなると時間旅行ではなくなってしまう。
さらに、移動先の世界に存在する自分と、その世界に移動してきた自分との関係はどうなるのだろう。人生をやり直すために過去に戻るという場合、年齢も戻る必要があるが、脳内の記憶まで戻ってしまってはどうにもならない。やり直しは、すでにしてしまった選択を別の選択と取り替えるということであり、すでにした選択が何であったかを記憶している必要がある。また、人は世界との関係の中で生きている。別の世界で新たに関係を築いてゆくとすると、その場合は別人として生きることになり、やり直しとはならない。移動先の自分を抹殺し、関係を奪ってしまうのか。事情を話し、関係を共有するのか。いずれにしても、面倒なことになる。
そもそも、時間というものが実在するということがよく理解できない。実在するのは物質であり、その変化であり、時間とは、人が生活する上で必要なものとして生み出した概念にすぎないのではないか。時間は、何らかの周期的運動を基準に、それとの比較として測られる。以前は太陽や月、星などの天体の周期運動が基準になっていた。いま1秒は「セシウム133 原子の基底状態の2つの超微細準位間の遷移に対応する電磁波の9,192,631,770周期に相当する時間」と定義されているとのこと。意味はよく理解できないが、時計に使われている水晶振動子(クォーツ)の振動数が32,768Hzであるのに対し、約92億Hzの電磁波が基準になるということで、その精度の高さが想像できる。でも、それは時間そのものではない。時間と言っても、それは物質の変化の速さを相対的に比較しているにすぎないように思える。上記の電磁波の1周期の91億9263万1770倍を1秒として、それに対する比率で変化の速さを表しましょうという一つの約束事ではないか。時間の基準というものが変わってきているが、それは、新しい基準によって基準がより安定したものになるということではないか。時間という絶対的なものが実在し、その「1秒」により近づくというものではないように思われる。
質量が、その基本的なところで、陽子と中性子の数が基準になるのと比べると、時間の実在性というものは理解し難い。光速に近い速さで移動する系や、強い重力のはたらく場所では時間が遅れるらしいが、それは、物質の変化の速さが遅くなると見ることもできるのではないか。その見方が、「時間が遅れる」ということを別のことばで言っているだけだとすれば、「変化が遅くなる」という言い方のほうが受け入れやすい。
時間旅行について、過去に戻る話しだけをしてきたが、未来に行くということは、ある意味で可能かもしれない。それは、未来に行く人を構成するすべての物質の変化の速さを遅くすればいいということである。たとえば、光速に近い速さで移動した後(これが可能になるのはいつのことは知らない)、元の場所に戻ってくればよい。その他にも、クマムシのように冬眠状態で時間の経過を待つという方法もある(こちらのほうが実現可能性は高そうだ)。100年後に眠りを覚ませば、100年後から新しい人生をスタートできる。しかし、どちらにしても、元に戻ることはできない。
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