稀勢の里フィーバーがニュースを騒がしている時、私はふとスポーツと同郷意識について考えた。稀勢の里は竜ヶ崎で中学校まで行っていたが、後に牛久に引っ越して相撲協会のHPには「現在の出身地は牛久」となっているらしい。が、何故か竜ヶ崎市民は稀勢の里の生まれ育った町と言うことで、稀勢の里フィーバーが起きていると言うのだ。私は相撲を全く見ないので良く分からないのだが、牛久でも竜ヶ崎でもどっちでもいいのじゃないかなどと思ってしまう。
応援している人にすれば自分達のヒーローと主張したいのだろうが、稀勢の里からしてみれば、大きなお世話である。一般的に言って地元の出身者がスポーツで有名になれば町が有名になり、地元に住む人も「〇〇の出身地」と言うことで「鼻が高い」のである。この鼻が高いという心理を分析すると、
1 〇〇は最高だ
2 〇〇は□□市の出身であり、地元を愛している
3 当然□□市は地元出身の〇〇を誇りに思い、応援している
4 我々はその□□市の市民であり、〇〇と一心同体だ
5 〇〇が勝利するということは、我々が勝つというのと一緒なのである
6 だから○○には勝ってほしいし、それが地元である私達の喜びでもある
大まかに言って、以上のような心理状態と言ってほぼ間違いは無いと思う。これは変な例えだが、ストーカーの心理と似ている。
この前、パックンがやっている「外国人記者は見た」という番組で中国人のマナーについて色々言っていたが、いつもは冷静な中国の記者達なのに自分の国のことになると突然興奮して自国の弁護に躍起となり、子供じみた屁理屈で相手を言いまかそうという態度には正直言って驚いてしまった。何もテレビに出ている中国人の記者を非難しているのではなく、ニュースに出ている人についてマナーを論じているのに、まるで同じ中国人と言うことで「自分の事のように」弁解に必死なのである。
私はここで日本人の「ソバを啜る文化」について、音を出しながら啜ると空気が混ざって、蕎麦の香りを喉の奥でより強く感じられる、と言った説明を聞いたのを思い出した。だから音を出すことは理に適っているということらしい。ソバの香りを楽しみたいから、周りの人が嫌な気分になっても構わず、ずーずーと音を出して食べるのが正しい食べ方なのだ、と言いたいのだろうが、マナーとは、そういう「独りよがり」のものとは真逆の「周りの人を慮る」気遣いのルールではないだろうか。人目を気にせず思い通りの食べ方をしたいのなら、深夜に独りでこっそり楽しめばいいのである。幸い私の家族は皆猫舌なので、子供の時から味噌汁でもうどんでも「音を出してズーズー飲む」経験は全くなかった。ソバも口に入れてモグモグと噛んで食べるのが当たり前と思っていたので、噛まずに飲み込む正統派ズーズー流の人は「どうも音が気になって」余りいい気分ではない。日本人だから目くじら立てることはしないが、決して良い作法と思ってるわけではないのだ。食事のルールは各国色々で、ご飯の茶碗を手に持って掻き込むスタイルの日本食は世界で珍しいほうだろう。手でつまんで食べるインドのようなスタイルもあれば、デカイ箸で何でも食べる中国、ナイフとフォークで切る刺す文化の西洋、食べる方法はそれぞれの流儀があって構わないが、音をズーズー出して啜るのは「目で見るより音で聞く方が不快の度合いが高い」と言える。
しかしこれも日本人の遅れた文化と位置付けると、途端に猛烈に「日本文化の独自性」を主張する日本人が多いのである。平安時代の京都の優美な風習を守ろうと言うのではないのだから、音を出すのはマナー違反だ、でいいではないか。こういうとソバは音を出すのが通なんだと屁理屈を言う。何も「あなたを非難している」のではない、「あなたの食べ方を」直したほうがいいですよと言っているだけであるが、これが中々通じない。
実は、この事と稀勢の里フィーバーのファン心理と中国人のマナーの議論と、根っこは同じなのである。今日ビックカメラの日用品売場に「のどぬーるマスク」を買いに行ったら、「のど潤いマスク」というソックリな製品で1割ほど安いのがあったのである。どっちが先かはわからないが、本家が安いはずはないから、のど潤いマスクのほうがパクリであろう。企業の生き残り戦争であるから特許で守られていなければ、どんどん後発の製品でも安く出して売ることが出来るのである。もちろん私は安い方を買った。パクリは道義的良心の問題であるが、世の中の進歩というのは突き詰めればパクリの連続である。要は「違う製品」と分かればいいので、間違って買わなければいいとも言える。結局は、どうやっても真似できない製品こそが、本物と言える。
パクリではない、本物の地域の特産品を作り出すために必死の努力を続けている人々にとって、地元の特産品とは「地域共同体の共通利益」そのものである。〇〇の特産品といえば地域全体で応援し、自慢して他県との対抗心を燃やす「地域の団結」の象徴である。茨城のイチゴ「いばらキっす」は、栃木の「とちおとめ」より上だと思っている茨城県人は、栃木のとちおとめが好きと言う人には敵対心を持っていると言う。茨城対栃木である、単純な図式ほどボルテージが上がる。だがちょっと待て、単純にし過ぎてないだろうか。つまり「茨城県人だからいばらキっすを応援する」というのは、もし「いばらキっす」が「とちおとめ」に勝てば、それがそのまま応援した人すなわち「茨城県人が栃木県人に勝った」という事に単純にすり替えられるのである。
応援する気持ちは、何らかの形で関わっている人の立場によって生まれる感情である。その関わりの分だけ応援する権利がある。牛久や竜ヶ崎のテレビを見て騒いでるだけの稀勢の里を応援している人は、ただの「ファン」である。ファンは稀勢の里とは何の関係も無い。それは地域を代表する訳でもなく稀勢の里の利益共同体でも無いただの「個人的ファン」の集団である。当然、稀勢の里の住所が牛久でも竜ヶ崎でも、今住んでいる人となんの関係もない。「稀勢の里は竜ヶ崎で育ったと思っています」とテレビで竜ヶ崎の人は言っていたが、でも貴方とはなんの関係もありませんよね?とツッコミを入れたくなったのは私の性格が偏屈だからではない。何よりこのような地元を主張する人に共通なのは、「自分の無関係を自覚してない事」である。
つまり人間はなんとかかんとか理由をつけて、同じ仲間になりたがるものなのだ。そして同じ仲間という認識が単純であればあるほど、差別化しやすい。いわゆる同じ町・同じ県・同じ国・同じ宗教・同じ民族。本当に自分はこの「同じ〇〇」という括りに属しているのだろうか?。今我々がはっきりと言える括りは「人類である」という括りだけである。それ以外は本当は、人種の身体的特性か、個人の選択の結果でしかない。何年ぶりかの日本人横綱とニュースになって日本中を喜ばせているようだが、そんなに日本人が横綱になって嬉しいのなら日本人以外の相撲取りをシャットアウトして純日本人だけで相撲すればいい。それをやったらスポーツでなくなるなんて言う人は、前頭以上全員モンゴル人になって品格がどうのこうのなど言えなくなっても文句を言わないことである。ルールに従って強い人が横綱になる。民族として個人の力が劣っていても、集団としての力が優れている場合もある。イングリッシュセッターがダックスフンドより足が早いのは当たり前で、黒人の方が白人よりジャンプ力があるのはNBAでは当たり前である。要するに、それは人種的特性である。そうではなくて取り口が綺麗だから好きという人がいる。ならば取り口が綺麗なモンゴル人がいても不思議ではない。技術が優れているから日本の力士が好きだという人がいる。でも芸術点なんて相撲に取り入れるわけにも行かないだろう。結局は日本人が勝ってほしいのである、それは貴方が日本人だから。モンゴル人ならモンゴル出身の白鵬や日馬富士を応援したくなる、これは当然なのか?何につけお国意識が抜けないというのは、どこに問題があるのか?
私は、本人と全く関係ないにも関わらず何か関連性を見つけてさも同じ共同体、「仲間である」かのような幻想を作り上げるファン心理にあると見た。相撲というスポーツでは強い人が横綱になる。しかし個人の好みは色々であるから、応援する力士が勝てばファンは嬉しい。個人が応援する理由は様々だが、応援される力士も自分の中に多様な魅力を感じてくれるのだから有難いであろう。だがそれは、牛久だとか竜ヶ崎だという人間と関係のないことでは決してない。お前は鹿児島だから我々鹿児島県民の期待に応えて頑張ってくれと言われたら、本人は勝手に決めないでくれ!と文句の一つも言いたくなるのではないか。これは鹿児島が日本であっても同じことだと言える。私は応援するなら「個人の人間的な魅力を応援すべき」である思う。稀勢の里の「どこが牛久であって竜ヶ崎」なのか、本人にもわからないことで市民が競っている。実にくだらないし、スポーツの素晴らしさを損ねると思う。
昔、円谷選手が東京オリンピックのマラソンで3位になり「申し訳ない」と言って自殺した事件があった。彼は何に対して申し訳ないと言ったのだろうか。自分は日本人だから「全日本人の期待を一身に集めて」必死に優勝を狙い、夢破れて自殺に追い込まれた。日本人のお国自慢が生み出した悲劇である。
・・・・・・■・・・・・・■・・・・・・■・・・・・・
今回は、改めて書き終わった後に論理が一貫してないなと感じた。この問題はもう少し論理的なアプローチが必要である。いずれもっと正しい書き方で書き直そうと思っているが、今回はこれで筆を置くことにする、皆さんには次回に期待していただきたい。ちなみに私の応援するミネソタ・ティンバーウルブスはこのところ絶好調で力を付けてきている。今度はクリーブランドと頂上決戦だ、是非とも勝って実力を見せつけてほしい。断っておくが、私とティンバーウルブスは全くなんの関係も残念だが、ない。しかしこれが本当のファンの在り方なのではないかと自負している次第である。
応援している人にすれば自分達のヒーローと主張したいのだろうが、稀勢の里からしてみれば、大きなお世話である。一般的に言って地元の出身者がスポーツで有名になれば町が有名になり、地元に住む人も「〇〇の出身地」と言うことで「鼻が高い」のである。この鼻が高いという心理を分析すると、
1 〇〇は最高だ
2 〇〇は□□市の出身であり、地元を愛している
3 当然□□市は地元出身の〇〇を誇りに思い、応援している
4 我々はその□□市の市民であり、〇〇と一心同体だ
5 〇〇が勝利するということは、我々が勝つというのと一緒なのである
6 だから○○には勝ってほしいし、それが地元である私達の喜びでもある
大まかに言って、以上のような心理状態と言ってほぼ間違いは無いと思う。これは変な例えだが、ストーカーの心理と似ている。
この前、パックンがやっている「外国人記者は見た」という番組で中国人のマナーについて色々言っていたが、いつもは冷静な中国の記者達なのに自分の国のことになると突然興奮して自国の弁護に躍起となり、子供じみた屁理屈で相手を言いまかそうという態度には正直言って驚いてしまった。何もテレビに出ている中国人の記者を非難しているのではなく、ニュースに出ている人についてマナーを論じているのに、まるで同じ中国人と言うことで「自分の事のように」弁解に必死なのである。
私はここで日本人の「ソバを啜る文化」について、音を出しながら啜ると空気が混ざって、蕎麦の香りを喉の奥でより強く感じられる、と言った説明を聞いたのを思い出した。だから音を出すことは理に適っているということらしい。ソバの香りを楽しみたいから、周りの人が嫌な気分になっても構わず、ずーずーと音を出して食べるのが正しい食べ方なのだ、と言いたいのだろうが、マナーとは、そういう「独りよがり」のものとは真逆の「周りの人を慮る」気遣いのルールではないだろうか。人目を気にせず思い通りの食べ方をしたいのなら、深夜に独りでこっそり楽しめばいいのである。幸い私の家族は皆猫舌なので、子供の時から味噌汁でもうどんでも「音を出してズーズー飲む」経験は全くなかった。ソバも口に入れてモグモグと噛んで食べるのが当たり前と思っていたので、噛まずに飲み込む正統派ズーズー流の人は「どうも音が気になって」余りいい気分ではない。日本人だから目くじら立てることはしないが、決して良い作法と思ってるわけではないのだ。食事のルールは各国色々で、ご飯の茶碗を手に持って掻き込むスタイルの日本食は世界で珍しいほうだろう。手でつまんで食べるインドのようなスタイルもあれば、デカイ箸で何でも食べる中国、ナイフとフォークで切る刺す文化の西洋、食べる方法はそれぞれの流儀があって構わないが、音をズーズー出して啜るのは「目で見るより音で聞く方が不快の度合いが高い」と言える。
しかしこれも日本人の遅れた文化と位置付けると、途端に猛烈に「日本文化の独自性」を主張する日本人が多いのである。平安時代の京都の優美な風習を守ろうと言うのではないのだから、音を出すのはマナー違反だ、でいいではないか。こういうとソバは音を出すのが通なんだと屁理屈を言う。何も「あなたを非難している」のではない、「あなたの食べ方を」直したほうがいいですよと言っているだけであるが、これが中々通じない。
実は、この事と稀勢の里フィーバーのファン心理と中国人のマナーの議論と、根っこは同じなのである。今日ビックカメラの日用品売場に「のどぬーるマスク」を買いに行ったら、「のど潤いマスク」というソックリな製品で1割ほど安いのがあったのである。どっちが先かはわからないが、本家が安いはずはないから、のど潤いマスクのほうがパクリであろう。企業の生き残り戦争であるから特許で守られていなければ、どんどん後発の製品でも安く出して売ることが出来るのである。もちろん私は安い方を買った。パクリは道義的良心の問題であるが、世の中の進歩というのは突き詰めればパクリの連続である。要は「違う製品」と分かればいいので、間違って買わなければいいとも言える。結局は、どうやっても真似できない製品こそが、本物と言える。
パクリではない、本物の地域の特産品を作り出すために必死の努力を続けている人々にとって、地元の特産品とは「地域共同体の共通利益」そのものである。〇〇の特産品といえば地域全体で応援し、自慢して他県との対抗心を燃やす「地域の団結」の象徴である。茨城のイチゴ「いばらキっす」は、栃木の「とちおとめ」より上だと思っている茨城県人は、栃木のとちおとめが好きと言う人には敵対心を持っていると言う。茨城対栃木である、単純な図式ほどボルテージが上がる。だがちょっと待て、単純にし過ぎてないだろうか。つまり「茨城県人だからいばらキっすを応援する」というのは、もし「いばらキっす」が「とちおとめ」に勝てば、それがそのまま応援した人すなわち「茨城県人が栃木県人に勝った」という事に単純にすり替えられるのである。
応援する気持ちは、何らかの形で関わっている人の立場によって生まれる感情である。その関わりの分だけ応援する権利がある。牛久や竜ヶ崎のテレビを見て騒いでるだけの稀勢の里を応援している人は、ただの「ファン」である。ファンは稀勢の里とは何の関係も無い。それは地域を代表する訳でもなく稀勢の里の利益共同体でも無いただの「個人的ファン」の集団である。当然、稀勢の里の住所が牛久でも竜ヶ崎でも、今住んでいる人となんの関係もない。「稀勢の里は竜ヶ崎で育ったと思っています」とテレビで竜ヶ崎の人は言っていたが、でも貴方とはなんの関係もありませんよね?とツッコミを入れたくなったのは私の性格が偏屈だからではない。何よりこのような地元を主張する人に共通なのは、「自分の無関係を自覚してない事」である。
つまり人間はなんとかかんとか理由をつけて、同じ仲間になりたがるものなのだ。そして同じ仲間という認識が単純であればあるほど、差別化しやすい。いわゆる同じ町・同じ県・同じ国・同じ宗教・同じ民族。本当に自分はこの「同じ〇〇」という括りに属しているのだろうか?。今我々がはっきりと言える括りは「人類である」という括りだけである。それ以外は本当は、人種の身体的特性か、個人の選択の結果でしかない。何年ぶりかの日本人横綱とニュースになって日本中を喜ばせているようだが、そんなに日本人が横綱になって嬉しいのなら日本人以外の相撲取りをシャットアウトして純日本人だけで相撲すればいい。それをやったらスポーツでなくなるなんて言う人は、前頭以上全員モンゴル人になって品格がどうのこうのなど言えなくなっても文句を言わないことである。ルールに従って強い人が横綱になる。民族として個人の力が劣っていても、集団としての力が優れている場合もある。イングリッシュセッターがダックスフンドより足が早いのは当たり前で、黒人の方が白人よりジャンプ力があるのはNBAでは当たり前である。要するに、それは人種的特性である。そうではなくて取り口が綺麗だから好きという人がいる。ならば取り口が綺麗なモンゴル人がいても不思議ではない。技術が優れているから日本の力士が好きだという人がいる。でも芸術点なんて相撲に取り入れるわけにも行かないだろう。結局は日本人が勝ってほしいのである、それは貴方が日本人だから。モンゴル人ならモンゴル出身の白鵬や日馬富士を応援したくなる、これは当然なのか?何につけお国意識が抜けないというのは、どこに問題があるのか?
私は、本人と全く関係ないにも関わらず何か関連性を見つけてさも同じ共同体、「仲間である」かのような幻想を作り上げるファン心理にあると見た。相撲というスポーツでは強い人が横綱になる。しかし個人の好みは色々であるから、応援する力士が勝てばファンは嬉しい。個人が応援する理由は様々だが、応援される力士も自分の中に多様な魅力を感じてくれるのだから有難いであろう。だがそれは、牛久だとか竜ヶ崎だという人間と関係のないことでは決してない。お前は鹿児島だから我々鹿児島県民の期待に応えて頑張ってくれと言われたら、本人は勝手に決めないでくれ!と文句の一つも言いたくなるのではないか。これは鹿児島が日本であっても同じことだと言える。私は応援するなら「個人の人間的な魅力を応援すべき」である思う。稀勢の里の「どこが牛久であって竜ヶ崎」なのか、本人にもわからないことで市民が競っている。実にくだらないし、スポーツの素晴らしさを損ねると思う。
昔、円谷選手が東京オリンピックのマラソンで3位になり「申し訳ない」と言って自殺した事件があった。彼は何に対して申し訳ないと言ったのだろうか。自分は日本人だから「全日本人の期待を一身に集めて」必死に優勝を狙い、夢破れて自殺に追い込まれた。日本人のお国自慢が生み出した悲劇である。
・・・・・・■・・・・・・■・・・・・・■・・・・・・
今回は、改めて書き終わった後に論理が一貫してないなと感じた。この問題はもう少し論理的なアプローチが必要である。いずれもっと正しい書き方で書き直そうと思っているが、今回はこれで筆を置くことにする、皆さんには次回に期待していただきたい。ちなみに私の応援するミネソタ・ティンバーウルブスはこのところ絶好調で力を付けてきている。今度はクリーブランドと頂上決戦だ、是非とも勝って実力を見せつけてほしい。断っておくが、私とティンバーウルブスは全くなんの関係も残念だが、ない。しかしこれが本当のファンの在り方なのではないかと自負している次第である。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます