皇室が会見時に西暦を使用したってんで「有識者のおじいちゃんがショックを覚えた」って、いまどき何をトチ狂ったことを言ってんの?と呆れたって話。このおじいちゃん、西暦のことを「キリスト教の〜」云々と言ってたそうだから、相当な時代錯誤だよね。天皇家は会見の時に元号和暦を使用し、時に西暦を交える程度との慣例があるそうだ。眞子親王が婚約者との出会いの時期を「西暦何年と言った」ってんでこの人ひっくり返ったとか返らなかったとか、晴天の霹靂らしい。
眞子親王が西暦で言ったというのは「普段から西暦で喋っているから」会見でも言葉が出ちゃうわけだから、事の本質は和暦・西暦の話ではなく「天皇家の存在理由」に関わる問題である(深いね〜)。天皇家は「神祇の元締め」だから、天皇家の会話はもとより神社内部・神道全体での暦は「あたりまえだが和暦」を使用する。和暦は素から日本人が年数を測るのに使ってきたもので「○○何年」といえば大凡「ああ、何天皇の御代の何年目」と分かる計算法である。
我々の内輪の話では似たような計算方法がよく見られて「おまえ、中学の2年のときの彼女、覚えてるか?」という風に使用する。これを西暦〇〇年〜とやってしまうと「なんだよ、大げさだな〜」と変に思われる。和暦というのは使っている本人と過去の記憶を共有している仲間同士で使うには「便利な暦」、むしろあえて言うならば「生活の暦・記憶に沿った暦」なのである。しかし商売で使うには記憶を共有するべき「万人共通のものさし」が必要だ。そこで自然と日本人全体の暦を為政者である天皇家の暦に合わせた、というのが和暦の始まりである。だから「貨幣と暦を定める権利こそが、為政者である証」といわれる所以なのである。
だが天皇家はもう為政者ではない。世界は天皇家を中心に回っているのではないし、日本だって世界と歩調を合わせて発展していくことで存在しているのである。未だに国内で和暦を使用していること自体が「もう異常」だ、というのが私の考えである。例えばイランやサウジが「イスラム暦を使っている」と聞いて、毎回商売で取引するたびに西暦〇〇年だからイスラム暦△△年のことだな、などと変換するのは超不便だと誰でも思うだろう。しかし西暦もイスラム暦も「ただ起点から単純に増えるだけ」だから、まだいいのである。それが和暦は「天皇の代替わりの度」に新しく1から始めるというんだから「狂気の沙汰」としか言えないではないか?
和暦には愛着があってどうのこうのとおっしゃっている有識者のおじいちゃん達にいっぺん聞いてみたいのだが、「貞観の治」で有名な清和天皇が位に就く前の年は「何年だったのか」、誰か即答できる人がいるだろうか?。○○年○月にこんな事件があったが「同月に九州太宰府で大地震があった」というような、ごく簡単な歴史の叙述すらちょっと昔の話になるだけで「大騒動になる」のである。昔のことでなくとも銀行預金の利子計算から保険の満期日、さらには最も身近な「あなたの年齢」すら、和暦で計算するのはもう不可能なのだ。
例えば大正から昭和に改元する時、1月1日にではなく「年の途中で」改元された。だから私事で恐縮だが1926年12月4日生まれの母は、昭和元年ではなく「大正15年生まれ」なのである。ちなみに同じ年の12月26日生まれの人は「昭和世代」になる訳だが、いったい二人に「どんだけの差がある」と言うのだろうか。人間の寿命が伸びて、大正生まれはおろか明治生まれの人もいて「お年はおいくつ?」と聞いたら「とんでもない計算をしなければ答えが出ない」状態になっているのを有識者は「どう見ているのだろうか」聞いてみたい。自分の年を数えるのに「えーと昭和末年まで何年経っていて、それから平成が何年間で、そして〇〇が始まるから〜」などと考えなければならない理由はひとえに、和暦を使用している事「だけ」に起因しているのだ、責任取ってくれ〜といいたくもなる。
もうこの際ぶっちゃけ言わしてもらいたいが、我々の生活で使用する暦は「西暦」に統一してくれないか?!。運転免許証の表記をようやく西暦にすると発表したらしいが「いまさら遅すぎるだろう!」とまたまた腹が立ってきた。政教分離を謳ってもう150年、もういい加減に天皇家個人の暦を国民全体がありがたく使用させて頂くのは「やめていただきたい」。天皇はサッサと京都御所にお戻りいただき、神道の元締めとして全国何十万社の神社を統括し、華やかな宮廷文化を再興して、しっかり役目を全うされたら良いではないか。我々下々の者は「世界標準の西暦の単純足し算式暦」を使って、「もっと楽に時間を管理」していきたいのだ。
何でそういつまでも元号にこだわる人がいるかというと、天皇制を維持することで宮内庁の役人の雇用が確保され、それに付随して皇族や宮様関連の費用が相当凄いことになっているのである。いっぽう国会議員は、本来は自分たちが負わなければいけない責任の一部を天皇家に押し付けることで責任逃れ出来るから、便利だと思ってる。カレンダーを作っている業界は大変だが、「考えてみれば元号が変わることは、カレンダー作りにとっては追い風」なのであるのだ。元号が変われば、暦だってバンバン売れるに決まっているわけだし。和暦で儲かってる業界があるのは、まあ結構なことである。しかし市役所やその他公的機関の使用する公文書、つまり税金納付書とか健康保険証と住民票とかはもとより、一般企業の納品書・請求書・領収書に至るまで、すべての書類から「和暦表示をなくす」こと、これを次の天皇の時代に向けて日本国民の総意として決定していただきたい、というのが私の切なる願いである。
ところで暦は中国からやってきた。紀元前から自前の暦を使って生活していた中国ではどうなのか、っていうと、今は西暦一本のようである。韓国もやめていて元号は「北朝鮮ぐらい」しか使ってないのだ(あれ〜、日本と北朝鮮は共通の政治体制だったっけ?)。要は「国を治めている主体を明確にするために」元号を使用しているわけだ。日本は国民主権と憲法で謳っているのに元号を使っている、世界で最も変な国である。しかし中でも30年ぐらいで元号を「コロコロ変えている日本」という国は、いったいなんなんだろう?。
昔は皇紀2600年なんて言ってたのが、戦後は民主化されて皇紀云々はすっかり忘れられてしまった。それでも肝心の元号は後生大事に今でも使っているってんだから、「日本人は伝統を大事にする民族」というか、ただのバカだと言われてもしかたがない。こんな元号に基づいた暦が実際生活で不便極まりないことは世界中で常識である。「えーと、いま平成何年だっけ」なんていう無意味な計算を「一生させられている」我々市民にとっては、もはや元号は「楽しい年号遊び」なんていう代物ではない。
元号は天皇家と共に本来の神道の世界へとお帰りいただくのが「現実を見極めた正しい処置」である。
眞子親王が西暦で言ったというのは「普段から西暦で喋っているから」会見でも言葉が出ちゃうわけだから、事の本質は和暦・西暦の話ではなく「天皇家の存在理由」に関わる問題である(深いね〜)。天皇家は「神祇の元締め」だから、天皇家の会話はもとより神社内部・神道全体での暦は「あたりまえだが和暦」を使用する。和暦は素から日本人が年数を測るのに使ってきたもので「○○何年」といえば大凡「ああ、何天皇の御代の何年目」と分かる計算法である。
我々の内輪の話では似たような計算方法がよく見られて「おまえ、中学の2年のときの彼女、覚えてるか?」という風に使用する。これを西暦〇〇年〜とやってしまうと「なんだよ、大げさだな〜」と変に思われる。和暦というのは使っている本人と過去の記憶を共有している仲間同士で使うには「便利な暦」、むしろあえて言うならば「生活の暦・記憶に沿った暦」なのである。しかし商売で使うには記憶を共有するべき「万人共通のものさし」が必要だ。そこで自然と日本人全体の暦を為政者である天皇家の暦に合わせた、というのが和暦の始まりである。だから「貨幣と暦を定める権利こそが、為政者である証」といわれる所以なのである。
だが天皇家はもう為政者ではない。世界は天皇家を中心に回っているのではないし、日本だって世界と歩調を合わせて発展していくことで存在しているのである。未だに国内で和暦を使用していること自体が「もう異常」だ、というのが私の考えである。例えばイランやサウジが「イスラム暦を使っている」と聞いて、毎回商売で取引するたびに西暦〇〇年だからイスラム暦△△年のことだな、などと変換するのは超不便だと誰でも思うだろう。しかし西暦もイスラム暦も「ただ起点から単純に増えるだけ」だから、まだいいのである。それが和暦は「天皇の代替わりの度」に新しく1から始めるというんだから「狂気の沙汰」としか言えないではないか?
和暦には愛着があってどうのこうのとおっしゃっている有識者のおじいちゃん達にいっぺん聞いてみたいのだが、「貞観の治」で有名な清和天皇が位に就く前の年は「何年だったのか」、誰か即答できる人がいるだろうか?。○○年○月にこんな事件があったが「同月に九州太宰府で大地震があった」というような、ごく簡単な歴史の叙述すらちょっと昔の話になるだけで「大騒動になる」のである。昔のことでなくとも銀行預金の利子計算から保険の満期日、さらには最も身近な「あなたの年齢」すら、和暦で計算するのはもう不可能なのだ。
例えば大正から昭和に改元する時、1月1日にではなく「年の途中で」改元された。だから私事で恐縮だが1926年12月4日生まれの母は、昭和元年ではなく「大正15年生まれ」なのである。ちなみに同じ年の12月26日生まれの人は「昭和世代」になる訳だが、いったい二人に「どんだけの差がある」と言うのだろうか。人間の寿命が伸びて、大正生まれはおろか明治生まれの人もいて「お年はおいくつ?」と聞いたら「とんでもない計算をしなければ答えが出ない」状態になっているのを有識者は「どう見ているのだろうか」聞いてみたい。自分の年を数えるのに「えーと昭和末年まで何年経っていて、それから平成が何年間で、そして〇〇が始まるから〜」などと考えなければならない理由はひとえに、和暦を使用している事「だけ」に起因しているのだ、責任取ってくれ〜といいたくもなる。
もうこの際ぶっちゃけ言わしてもらいたいが、我々の生活で使用する暦は「西暦」に統一してくれないか?!。運転免許証の表記をようやく西暦にすると発表したらしいが「いまさら遅すぎるだろう!」とまたまた腹が立ってきた。政教分離を謳ってもう150年、もういい加減に天皇家個人の暦を国民全体がありがたく使用させて頂くのは「やめていただきたい」。天皇はサッサと京都御所にお戻りいただき、神道の元締めとして全国何十万社の神社を統括し、華やかな宮廷文化を再興して、しっかり役目を全うされたら良いではないか。我々下々の者は「世界標準の西暦の単純足し算式暦」を使って、「もっと楽に時間を管理」していきたいのだ。
何でそういつまでも元号にこだわる人がいるかというと、天皇制を維持することで宮内庁の役人の雇用が確保され、それに付随して皇族や宮様関連の費用が相当凄いことになっているのである。いっぽう国会議員は、本来は自分たちが負わなければいけない責任の一部を天皇家に押し付けることで責任逃れ出来るから、便利だと思ってる。カレンダーを作っている業界は大変だが、「考えてみれば元号が変わることは、カレンダー作りにとっては追い風」なのであるのだ。元号が変われば、暦だってバンバン売れるに決まっているわけだし。和暦で儲かってる業界があるのは、まあ結構なことである。しかし市役所やその他公的機関の使用する公文書、つまり税金納付書とか健康保険証と住民票とかはもとより、一般企業の納品書・請求書・領収書に至るまで、すべての書類から「和暦表示をなくす」こと、これを次の天皇の時代に向けて日本国民の総意として決定していただきたい、というのが私の切なる願いである。
ところで暦は中国からやってきた。紀元前から自前の暦を使って生活していた中国ではどうなのか、っていうと、今は西暦一本のようである。韓国もやめていて元号は「北朝鮮ぐらい」しか使ってないのだ(あれ〜、日本と北朝鮮は共通の政治体制だったっけ?)。要は「国を治めている主体を明確にするために」元号を使用しているわけだ。日本は国民主権と憲法で謳っているのに元号を使っている、世界で最も変な国である。しかし中でも30年ぐらいで元号を「コロコロ変えている日本」という国は、いったいなんなんだろう?。
昔は皇紀2600年なんて言ってたのが、戦後は民主化されて皇紀云々はすっかり忘れられてしまった。それでも肝心の元号は後生大事に今でも使っているってんだから、「日本人は伝統を大事にする民族」というか、ただのバカだと言われてもしかたがない。こんな元号に基づいた暦が実際生活で不便極まりないことは世界中で常識である。「えーと、いま平成何年だっけ」なんていう無意味な計算を「一生させられている」我々市民にとっては、もはや元号は「楽しい年号遊び」なんていう代物ではない。
元号は天皇家と共に本来の神道の世界へとお帰りいただくのが「現実を見極めた正しい処置」である。
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