自分の年齢を言って「年寄り」だとはっきりさせる事で何が起きるかというと、一番には「え?そんな年だったの?」という反応だ。または本人の意識の上では「そういう反応を周りに期待して」しゃべっていた、というのが正しい。或いはそれが場を和ませると勘違いしているという「笑い取り」の場合も多い。自分が世間的にはもう高齢者の仲間入りしているのにも関わらず、自分の意識な中ではそういう自覚が全く無い、という「見かけと実態のギャップ」が面白い、受け取っていたのだ。だがこれは面白い話ではないと思う。
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昔は「一人前の男」という表現があった。つまりそれは、己の行動や言動に対して「一切の情実を考慮せず」評価される立場にある、という自覚または世間の認識を表していた。それに比べて半人前または元服前の若者(今は成人式か)は、失敗しても許されたのである。
今思ったのだが、成人式をどっかのホールを借り切って「市や町が成人を量産するシステム」は一体いつから始まったのだろうか。今世間が感じている違和感の元は、「成人」ということが余りにも形骸化していることである。成人するとは「一人前」になること、すなわち一切の責任を「自分一人で負う」ことを意味する。これは昔は武士の家に生まれた者の「決意」を世に示すことでもあった。そしてそれは同時に「家を背負うこと、世間に恥じない人間になる事」を自他ともに認めて生きていくことに他ならなかったのである。これは相当な自覚、「身震いする程」の覚悟が必要だったと思う。場合によっては「切腹」も選択肢として有り得る凄惨な人生が待っている、そんな思いで皆は成人したのだ。果たしてその自覚が今の成人にあるか?。全然無いことは明らかである。それが我々の違和感の正体なのだ。
そこで成人式の在り方を私は次のような形に変更することを提案する。
① 成人は、その所属する「自治体」が&、資格があると認めた場合に限り、出席できる
② 資格とはこの場合、礼儀作法と法律の理解、個人の権利の尊重及び一般常識などが「備わっている」ことである
③ 一定の年齢に達したら成人するというのはあくまで投票権などの「法的権利の取得者」を意味する。大人としての人格を表している訳ではない
④ よって成人としての証書をあげるかわりにマイナンバーカードを渡す(成人しないとカードは貰えない)
以上である。いかがだろうか?
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話を元に戻すと、私が実年齢をネタに「自虐的な笑い」を取ろうとすることは、逆に「高齢者の狡賢い自己弁護」なのではないだろうか。高齢者は色々な理由で動きが衰える。そしてそれは動きだけではない、「脳の機能や神経の性能」も同時に衰えて来ているし、実感も日々我々の活動に迫ってくるのだ。昔はもっと素早くやれたのに・・、である。昔は颯爽と横断歩道を先頭に立って歩いていたんだけどなぁ、ここんとこ最後の方を必死についていくのがやっとだ、などと溜息をつく。
しかし同時にまだまだ若いものには負けないという自負も残っている。動きは思い通りにならないが、判断力や経験値は他の人には負けるはずがないさ、とも思っている。それが先程の自虐的なネタの「裏返し」で表に出てくるのだ。いやいや動きは遅くはなっているけど、人間としては「とても尊敬できる」存在ですよ、と言って欲しいのである。まあ孔子の教える儒教やそれを政治に厳格に反映させようとした「朱子学」などは、目上の者を敬う「長幼の序」を社会の基本として徳目の上位に置いた。年寄りは「それだけ」で敬われる存在である。だがこれは「儒教の教え」であり、私は「実力主義者」だから年取ったらその分「相手にされない」のが当然だ、と思っている。じゃあ何で人間は評価されるのか?
現実は「金」だ。年寄は思ったより「貯金がある」から尊重されている、これが事実である。
若い者は今の時代、色々とお金がかかり、貯金どころではないのが実情だと思う。世の中段々と平均年齢が高くなって、周り中が高齢者になってきた。これは社会の健全な成長の過程で起きる「安定化」の結果である。もし、いつでも高齢者より若い者の人数の方が「圧倒的に多い」社会を想像してみると分かるのだが、老人が早死する率が異常に高いか、それとも皆んなが出生率を無意識的に抑えるか、どちらかが起きなければ「どうしたって「人口は増えていくのが当然の理屈である。
今は日本は「老人天国」だが、この結果、若い人は皆早いうちから「早く年取って楽したい」と思っているようだ(これが問題の本質だ)。ある意味当然の成り行きである。年取ったら自分の好きなことをやって「苦労なく楽しく生きたい」というのが国民全員の「唯一の望み」である。これは有史以来の「人類の悲願」なのだ。
結局日本では今「少子化」で上を下への大騒ぎしてるが、そもそも少子化は「自然の健全な摂理」である(これを理解しない限り、少子化の挽回などは実現不可能の戯言である)。要するに先進国では戦争や疫病が流行らない限り、国の人口は「一定の人数に必ず落ち着く」ようになっている。その当然の過程を、日本も辿っているに過ぎないのだ。要は、年取ったら悲惨なことになり、「若いうちが華だよ」という空気が世間の「主導的な雰囲気」にならなければいけない。人間は太く短く生きるものであり、細く長くは間違いで「老人の老害」以外の何物でもない、という風潮こそ「少子化」を防ぐ唯一の方法である。
結果が出たようだ。世の中で一番偉いのが「子沢山の夫婦」である。この真実を「社会で認めること」で国が反映し、社会が豊かになる。だから社会保障費をバッサリ減らして、高齢者の医療・介護費用も減額する(おおー、怖わ!)。医療の目的も「延命」ではなく、健康で活動できる身体の「維持・強化」にシフトするのだ。つまり、社会として守る年代を生産年齢と「法律で明言」するのである。その年齢以降は「すべての役職」から除外すること。政治家や経済界や学者の全部を対象にして、相当な若返りを図るのだ(大体が80超の政治家なんて、老害以外の何物でもない)。社会で活躍出来るのは「65歳以下」と法律で決めれば、少子化は「自然と」止まる。・・・これは私の究極の提言である。
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以上、話が脱線した。さて私が自分の年をネタにしてるって事だが、もうこれからは「自虐ネタ」を封印しよう。私は何歳かなんて無駄なことはすっぱり忘れよう。髪型も年相応にバッサリ切って、見かけ倒しの若作りはもうやめようと思う。もう外見に頼るのでなく、「実力で生きてゆく」のが正解ではないか。世はすべて実力の世界に戻すべし。これからは、私も一人の学生(学ぶ者)として、新たな勉強に挑戦だぁ!
以下は例え話になるが、年老いたライオンがシマウマに追いつけず、狩りに失敗する日々が続いた時、彼はどう思うだろうか?。まさか自分が「年取ったな」とは思っていないだろう(ライオンにそんな知恵は無い)。ただ、もうちょっと「頭を使わない」とヤバい、とは思っているだろう。それが「老人の知恵」である。それが出来なければエサにありつけず、人知れず死んでいくわけだ。それが「自然の摂理」である。ちなみに自然の摂理をあれこれ考えもせずに無批判に受け入れていた昭和の世代は、少子化なんてそもそも発想には無かったと思う。実際今になってみれば、それが昭和「最強の証」だった!。つまり、自然の持っている「人口調節機能」を尊重しようってこと。老人のことは社会で一切「考えなくていい」、若者は今の自分の「楽しい生活」を追求しようではないか?。そして年寄りは、自分で自分を守れば良いのである。・・・つまり、昭和のルールに社会を戻そう!ってこと。
人生の社会的幸せの絶頂は「30から60歳」の間にある!と決めるのだ。後は個人的な幸せを細々と楽しめばいい。例えば今でも田舎では100近いおじいさんおばあさんが、畑で農作業をして残りの人生を幸せに暮らしている・・・社会的にはゼロだが「でも幸せ」なのである。それで十分ではないか?
社会から見えなくなっていても、幸せな生活を送ることは可能だ。
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