ついこないだマスコミやSNSなどで話題になっていた件で、私はそれについて別に意見を言うつもりはなくて世間の反応をぼんやり眺めていた程度だった。しかし段々と自分として「この問題をどういう風に考えたらいいか?」自問自答した結果、その思考経路・判断内容を取り敢えずザッと書いて見たくなったわけです。私はその選手のことはこの問題が起きた結果知った位で全くの外野・門外漢ですし、体操協会の内部やオリンピック出場の経緯なども全然知らない赤の他人です。ですからこの問題について「ああすべきではない」とか「こうすれば良かった」とかの意見を言える立場ではそもそも無い、という事だけは理解しているつもりです。
とまあ、前置きが長くなったのは私がどのような意見を言ったとしても、反対側から非難轟轟でバッシングを受けるのは間違いないだろうと思ったからです。これは擁護するにしても非難するにしてもお互い事実関係を充分に調べた上でそれらを一つ一つ検討し、どういう形で受け止めるのが一番納得するだろうか?といった検証過程を「互いに共有する」コンセンサスが世間一般の人に出来上がっていなくて、ただ「一方的に自分の意見を押し通そう」とする声の応酬だけがネットの中で吹き荒れているように見えるからです。
つまり、「ルールはルール」だから罰は受けて当然という意見と、罰を与えるにしても「余りにも重すぎる」という意見があって対立しており、中には18歳で成人扱いなのに酒とタバコはダメというのは「法的にまずくないか?」という意見も出ているようで、全然まとまっていない状態です。そこで私はこれらの対立構造には入り込まずに、つまりこの問題を「現実の◯◯さん」から切り離して架空の一般的な問題として考えてみよう、と思いました。
まあ、何故そんな訳の分からない方法をあえて取ったのかと言えば、普通にこの問題に口を挟めば「元々◯◯さんの個人的な問題」である筈のオリンピック出場辞退というローカルな問題に、関係のない私のようなものが「ズカズカと土足で踏み込んで」あれこれ言い散らかして騒ぐというプライバシー侵害事案に成りかねないな、と思うからです。この問題は本質的には「選手個人の問題」であり、大きく広げても一般的な意味で体操協会の規約と裁定の是非が問われるだけではないか、と感じています。出場するにしても辞退するにしても我々観客には「関係の無い話」なんじゃ無いでしょうか。実際、選挙権は与えられているにしてもまだまだ弱冠19歳の人間にはオリンピックを辞退するというのは大変な重荷でしょう。だが現実は、どうせ世間の大方の人はこの問題などすぐに忘れて、目の前のオリンピックに熱中すると思います。せめて、「そっとしておいてあげる」のが大人の優しさだと私は思いました。じゃあ何で書くんだよ!とのお叱りを受けそうですが、そこがブロガーの悲しい性で「書かずにいられない性分」なんです。誠に相済みません。
で、この問題を視点を変えて、一般的に「酒またはタバコあるいはパチンコ競馬などのギャンブルと依存症の問題と、それによって起こる社会的責任との関係」として捉え直して考えてみたいと思います(ちょっとオーバーか)。・・・なお、これ以降は取り敢えずタバコに限定して書いていく事にします。
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1、人がタバコを始める「きっかけ」
タバコを吸い始めるキッカケは本人の好奇心や性格が5割、身の回りの環境が5割だと思います。昔から子供が酒タバコを覚えるきっかけは「大人の真似」をして、と相場が決まっていました。大抵は未成年者はダメと言われているので20歳になるのを待って始めるのですが、中にはこっそり好奇心から始めたり悪い仲間にそそのかされてというのもいたのではないかと思っています。私の年代では男は全員タバコを吸うのが当り前だったので、誰も何とも思わずに二十歳になれば吸い始めていたと思います。つまり「家庭や会社で日常的にタバコを吸う環境」が目の前にあった、それに対して誰も疑問に思わなかった時代ですね。ところが時が経つに連れて「タバコは体に悪い」と言われるようになり、町中で気軽に吸える場所も限られてきて、吸っている人も変な眼で見られるようになって愛煙家は肩身が狭くなってしまった。私自身はもうタバコをやめて久しいが、今では他人がタバコを吸っているのを見る事も殆ど無くなったように思う。思うにタバコのような「生きていくのに必要で無いもの」は、誰か大人が周囲で吸っていなければ子供が勝手に何処かで覚えて来る、ということは殆ど無いのじゃないだろうか。ましてや「タバコを吸ってみたい」と考えるだけで犯罪者のように周りから思われるとなれば、タバコに興味を持つ子供も大幅に減って来る道理です。しかし人間の成長と年齢の関係は人それぞれで、例えば体操選手の場合「法的には未成年」なのにオリンピック代表として「国を背負って」戦ってメダルを取れ!とハッパを掛けられ、選手によっては「精神的に過度な責任を押し付けられて苦しむ」と言うこともあるとは思います。特に日本の場合、勝ってメダルを取れれば良いですが万一失敗して負けでもしたら「どんだけ叩かれるか」、恐ろしい非難・中傷の嵐にさらされることを思えば「酒でも飲まなきゃやってられない」となるのは私でも分かります。彼女の場合「逃げ道」がタバコしかなかった・・・結局そういう事なんじゃなかったのかな、残念だけど(だから、「ルールはルール」と言って法律を持ち出しても、彼女の置かれた状況を解決することには「全然ならなかった」と私は思っています。関係のない第三者が法律云々と言って彼女をバッサリ切り捨てるの勝手ですが、物事はそんなに簡単じゃ無いのでは)。
2、オリンピック代表の責任と義務
オリンピックが戦争の代替として平和的に国と国が競う仕組みを作った、と言う話は聞いたことがあります。しかし一昔前はいざ知らず、現代においてオリンピックの意義は大きく変質し、「経済効果」を前面に出した国家の一大イベントとして認知されているようです。前回の東京オリンピックはコロナの影響もあって、費用対効果の面では「思ったような成果が挙げられなかった」イベントになってしまいました。残された施設も維持費がかかる割にはそれほど活用されて「大いに役に立っている」とは言い難いところがあります。個人的には「やらなくても良かったかな?」と言うのが正直なところでしょうか。一方、間近に迫っている大阪万博の状況も前評判は散々で、万博開催の負の遺産をこれからどうするか?と言うところまで議論の矛先が向かっている、とさえ噂されている始末です。本当に万博って必要なんでしょうか?
話を元に戻すと、実際に世界陸上とかワールドカップとか各競技ごとの世界大会が毎年のように各地で行われていて、個人の成績を争うスポーツの観点から言えば「何もオリンピックをやらなくても」全然困らない状況がすでに出来上がっている、とも言えるわけです。その上最近ではどの国が何個メダルを取った云々という「メダル数の競争自体がナンセンス」という意見があちこちで言われ始めています。私の個人的な意見を言うと、個人が頑張って金メダルを取ったとして「なんで出身国の国民が大喜びするのか」理由がわからないというのがあります。あくまで金メダルはその「個人」に対して与えられるものであり、別に努力も何にもしていない国民が、例えば「ニッポン万歳!」などと欣喜雀躍するのは「違うんじゃ無いか」とずっと思ってました。仮に日本人がバングラディシュの選手を応援したとして、それはその選手が好きだから応援しているわけで、それを一々日本人なのに何故他所の選手を応援するんだ!と非国民みたいに言うのはオリンピックの設定が時代に合ってないからだと思っています。
オリンピックの設定自体は国と国とが威信を掛けて戦うと言うコンセプトでスタートしたとしても、もうそろそろ役目を終えてフェードアウトし、種目ごとの世界大会中心のスポーツイベントに切り替える時が来た、と私は考えています。スポーツは畢竟「個人の成績」こそ賞賛されるべきであり、そこに「国という境界線」は持ち込むべきでは無いと思います。だからパリオリンピックに出場する選手も当然ながら「個人成績」を目指すわけで、応援する人はメダルを取れば「良かったね!」と拍手を送り、残念ながら敗退したら「惜しかったね、次に期待してるよ!」と慰める、というのが良いんじゃ無いでしょうか。選手にとって応援してくれる人がいることは大変に励みになるはずです。しかし応援していると言っておきながら負けた時に「何やってんだ、責任とれ!」などと暴言を吐く輩がまだまだ大勢いるのは事実です。これじゃ選手はまるで「賭けの対象」にされてる「土佐の闘犬」みたいなもので、このファンにとっては選手の成績がどうだったかと言うことには関心がなく、単に国が(つまりその一員としての自分が)勝ったか負けたかしか興味がないのです。このファンの頭の中では「選手はどこに行ってしまった」のでしょう?。オリンピックは第一義的には「出場する個人の大会」であるべきです。その意味ではここに取り上げた責任も義務も「自分に対して」のみ存在すると考えます。つまり、自分以外の何者にも責任を負わないし義務も負うべきではない、です。
3、キャンディーズ現象
この体操協会規約違反問題は結局のところ、余りのファンの過熱振りに自分達の生活も自由も奪われて、ただの操り人形のような閉塞感に襲われた人間が「普通の女の子に戻りたい!」と叫んで表舞台から消えることを選択したのと同じに見えました。そう、人気絶頂だったキャンディーズの有名な言葉です。勿論、タバコや酒は発覚前から依存症的な状態に陥っていたと私は思っています(間違っていたら謝ります)。それを見つかればご免なさいでは済まないだろうことは本人は知っていたと私は想像しますが、・・・でも「止められなかった」わけですね。この選手には「タバコはいけない」という一般的な善悪判断が通用するような状況は既に通り越して、自分ではもうどうしようもなかったんだと思います(これはあくまで私の想像です)。このオリンピックという重圧から逃れるには、彼女には出場を辞退するという選択しかなかったのではないでしょうか。私は案外この選手の気持ちの中では「辞退してホッとしている」と想像しています。とにかく全ての責任から逃れることが出来て、現在は自由の身になったわけですから。そうであればキャンディーズの時のように「普通の体操選手」としてそっとしてあげるのが良いんじゃないか、それが私の出した結論です。これでオリンピックが終わり、また平静な日常が戻ってくる頃には彼女を辞退にまで追い込んだ「心のつかえ」も癒されて、ようやく体操の好きな少女としての明るい屈託のない笑顔が見られる、と思いたいですね。
結論:いつの日かこの時の精神状態を振り返って「あの時はしんどかったな」と思うこともあるかも知れません。彼女はオリンピックでメダルを取るという夢は叶えられませんでしたが、それも人生の数ある思い出の一つ。あれは昔のことだと笑って言える日が来ることを願って、この記事を終えたいと思います。・・・ただ、タバコだけは体に悪いからやめた方がいいと思うけど(笑)。
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