1、ゴゴスマ橋下徹氏の答え
先日、宮崎県知事選で善戦した東国原英夫氏の奮闘ぶりを素晴らしいと称えて、これからの日本政治の在り方を語っていた。
岸田政権は発足以来、優柔不断で何かというと判断が遅くて、イライラして支持率爆下がりだったのに、今度は一転して国会閉会中にも関わらず、安保増税と原発推進を独断で決定する荒業を、「国民そっちのけ」でやってのけた。議論も何もなく勝手に暴走する傾向は「安倍国葬問題」でもみられたが、ここに来てとうとうスッパリと温和な仮面を脱ぎ捨てて、独裁者岸田総理が本性を現し始めたのだ(私の分析)。
これを自民党は「単なる党内の派閥争いの一環」と捉えているようで、旧安倍派の言動がちょっと慌ただしくなったかな?という程度のリアクションで終わってしまった。つまり、大したことじゃ無いという反応である。一体この国の政治は、いつから「国民無視の政権」になったのであろうか?
これは、何故今の日本で野党が「受け皿」として国民の支持を得られないのか?という疑問にもつながる大問題である。岸田政権の支持率が30%を切って低迷しているにも関わらず、国民はどんどん「政治に無関心になっていく」というのも重要な点だ。
この問題を橋本氏は、永田町で与党と野党が争っているだけでは国民の意識を変えることは出来ない、と言う。むしろ宮崎県知事選のような地方政治の場で、より生活に密着した問題でお互い意見を主張しあうことで、有権者の政治への関心を高めその「うねり」を育てていくことで、既存政党と革新勢力の対決という図式を作っていくのが必要だと結論した(私の理解)。
与党とか野党とか言っても国の舵を取るのだから、それ程違う事を主張する訳では無い。一番の関心事は経済であり、安全保障とエネルギーと社会保障に災害とインフラなのだ。これらに対して自分たちの明確な主張をしてゆけば、自ずと与野党の対決になる。というか、日本が民主主義国家で国民が政治に関心を持ち、その上でもし「与野党対決とならない」のであれば、それはそれで「国民の信頼する」政権だという証拠である。
じゃあ、何で支持率が低迷しているのか?
そこが問題である。今の野党は自民党のスキャンダルを暴くのに一生懸命で、肝心の「政治」をやっていないのだ。野党には誰も期待していない。
で、「東国原氏の闘い」なのである。政治は遠い世界の一部の偉いさんが内輪で争っている「他人事」ではない。また宗教問題や政治資金スキャンダルや暴言や人格を争う場でも無いのである。一番大事な経済・安保・原発・社会保障をもっともっと掘り下げ、白熱した議論を戦わせなければいけない。その政治感覚を養う「練習の場」が地方政治だというわけだ。東国原氏が選挙に出ることで、全体の投票率が27%も上がったという。こういう草の根の活動が、ひいては国政の底上げにつながる。
橋本氏。昔、政治の世界で闘っていた男だけに、流石に着眼点が鋭い!
2、旧暦カレンダー
晦日は「三十日」の意味、旧暦の月の最後を言う。1日は常に新月で「真っ暗」だった。天正10年6月2日早朝の本能寺の変は、つまり真っ暗闇だったことがわかる(歴史好きにはとっくに当たり前の事実だが)。こんな風に旧暦は、昔の人の生活に無くてはならないものだった。しかし、月の満ち欠けを時間の基準にすることで、農業やその他色々と不具合が生じている。天候との関わりで言うならむしろ、太陽暦の方が正確である。だが古代の人々のことを調べれば調べる程、旧暦を知らなければ一歩も進めないのは事実だ。
それで提案だが、旧暦で表示されている「立春とか立秋とか」とかその他、今では季節の移り変わりと合わなくなっている言葉を、より「実際の感覚に合わせて」日付を現代の太陽暦に変換し、例えば立秋を8月初旬から「10月なかば頃」にするのである。そうすれば立秋と聞いても何の違和感もなく「ああ秋だねぇ」と言える。当然、昔は「8月初旬を言ってましたが・・・」と注釈が入るが、これは古代の文献を読むのには必要だろう。現代版旧暦カレンダー、如何だろうか?
3、日本語は論理破綻?
現在の日本語で「日」という字は色々な読み方がある。このメチャクチャな言語に頭に来たアメリカ人の YouTube が話題になっている。彼がそのいい例として挙げた文章が「今日1月1日は日本の祝日です。その日は日曜日で5日ぶりに雨が降りました。」というもの。読み方は、う・たち・に・じつ・ひ・にち・び・か、と8通りだ。これにはアメリカ人でなくても「意味わからん!」と怒りたくもなるだろう。
これは日本語が出来上がる段階で、漢字というものを中国から導入し、それを中国語の「音読み」と日本語の「訓読み」の両方に「使いまわし」したことから起きた混乱である。つまり、元々の日本語を表記するために「漢字を流用した」のが訓読みであり、これは漢字で「今日」と書いて「きょう=本日」の意味を伝える使い方てある。これを「こんにち」と中国風に読めば(本来はキンビと読めばいいのだが)「現在の〜」という別の意味になる。基本、音読みの単語は「外来語(当時の)」で、抽象的・学問的なものを表すのに使った。
今は外国から来た単語は「カタカナ」で統一しているから、英語であろうとフランス語であろうと「全部アカサタナ」で済ませられるから楽である。そのために和製英語という意味不明の単語が溢れることになり、実際に英語を習得するのに混乱が生ずるという逆転現象も起きているのだが・・・。
ただ、実際に話し言葉として面と向かってしゃべっている時は、先ほどの「同じ漢字を色々な読み方で読み分けるのが理解できない」というアメリカ人の発言は、「そんな不便には感じていない」のである。試しに先ほどの文章を「きょう いちがつついたちは にほんの しゅくじつです。そのひは にちようびで いつかぶりにあめがふりました。」と全部ひらがなで書いても「ほぼ」意味は正確に伝わる。その証拠が万葉集に使われている「万葉仮名」といわれる表音文字である。万葉仮名では「一字一音」で日本語を表記している。これが「ひらがな」の登場によって、ようやく「日本語の書き言葉」が完成したわけだ。
一方、文章を書いていると日本語を変換するのに、同じ読みで変換候補が「気の遠くなるくらいの数」出て来るのには驚くのである。これも漢字の読み方の種類の多さと相まって、日本語学習の難しさとなっているようだ。しかし中国語のような「表意文字」を突き詰めていけば、当然字の数は「天文学的に増え」ていく。同じものでも川と河と水と使い分けるのではなく、おおきな川とか激しい川とかゆったりとした川とかチョロチョロ流れる川とか、すべて違いは形容詞で片付ければ「覚えるのは簡単」である。例えばリンゴを例にとって、「ふじ」と言う代わりに赤いリンゴとし、「王林」と言う代わりに青いリンゴと言うみたいに。
しかし会話をしていて毎回「赤くて小さなやや酸っぱみのあるリンゴ」と言うのでは面倒だから、それらの特徴を総称して「ふじ」と短縮形にする。これはコミュニケーション・ツールとして言葉を短縮するのは、言語の自然な進化である。だから会話が進むにつれて「あれ」という代名詞に収束する。どちらにしても「漢字」を使わなければ、日本語は楽になると思うのだがどうだろう?。ちょっとした妄想ですが、言葉という「世界共通では無い道具」について考えてみました。
4、SNSの作法
芸能人が政治の事で意見を言うと、必ずといって「お前は意見を言う資格が無い」と非難する人間がいる。こういう人は芸能人には資格が無いと「いちゃもん」をつけているが、これは相手の意見を否定するために資格云々を持ち出してるだけで、じゃあどういう人が意見を言う資格があるのか?という質問には、実は正確に答えられないのが大半である。これは他人の意見を封殺しようとする人の常套句なのだ。曰く、歌手が政治的な意見を言うと、「お前は歌だけ歌ってろ!政治に口を出すな!」となる。
こういう手合にムキになって反論するだけ相手の挑発に乗ることになるので無視するのが一番だが、本来議論の場にすら出られないこういう連中でも堂々と自分の主張(中傷が主張と言えるなら、であるが)を述べることが出来るシステムが「SNS」なのである。
この誰でも、何を言ってもいいという自由すぎる場は、言わば広場で演説している人に向かって「ヤジを飛ばす事」が許されている状況と似ている。
やはりここは反対する人も自分の説を主張して、正攻法で意見で対抗すべきではないだろうか。もしちゃんとした反対意見を言えないのなら、それこそ「参加する資格がない」ことになってしまう。まあ、そんなだから無理無体なヤジで鬱憤を晴らしているのだが、その自覚が無いことが腹が立つのである。
ちなみに憲法で保証されている「言論の自由」とは、何を言っても良いと言うのではなく、あくまで「意見を陳述する権利は保証する」と言っているに過ぎない。意見とは、「誹謗・中傷の類い」は一切含まれていないことに注意すべきである。と言っても、彼らは何のことを言ってるか解らないだろう。もはや為す術もない、とは此の事である。
これを無くすには、SNSまたはネットに参加するには「全部本人確認」を取ることとするのが一番である。それにはマイナンバーが一番手っ取り早い、人間大勢の前で何かを発言する場合、自分の名前を明らかにして発言するとなると「むちゃくちゃな言葉」は使えなくなるのだ。そういう自分の発言に責任を持つ習慣を付ければ、もっとSNSも中身の濃いものになると思う。
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