明日香の細い道を尋ねて

生きて行くと言うことは考える事である。何をして何を食べて何に笑い何を求めるか、全ては考える事から始まるのだ。

考えるヒント(16)2022年の大晦日、自分の死期を考える

2022-12-31 21:46:59 | 今日の話題

1、熟睡の果て
今日31日は起きたら、午後3時!。一瞬訳が分からなかったが、今朝6時にトイレに行ってから完全に「熟睡」してたのだった(Oh My GOD!)。普段は1時半頃に寝床に入りラジオを聴きながら寝返りを打って、徐々に睡眠モードに入りながら2時から3時頃に寝る・・・のが私のパターンである。昨日もその感じで2時過ぎに寝床に入って、途中4時過ぎうつらうつらと時間を見て6時に起きだしてトイレに行った。寝床に戻ってラジオをつけ、少し「うとうと」したまでは記憶にあるが、その後はまったくの「熟睡」である。基本、3時間以上はトイレが持たないので必ず起きるのだが、いわゆる夜尿症と呼ばれる年寄りに有り勝ちな夜にトイレに起きだす癖は、年齢が進むと誰でも出て来るらしい。以前はどうだったかというと・・・これが忘れっぽくて覚えてないのだが、脳梗塞で倒れる年には既に「前立腺肥大症」になっていたから、夜もそんなに熟睡出来たとは思えない。2014年の暮れに脳梗塞で入院してからはとにかく薬で抑えることで小康状態が続いているが、それでも夜中のトイレは「1回または2回位」は毎晩あった。今では夜にトイレで起きだすのは普通で「慣れっこ」になっているから、実際起きだす事は何とも思ってはいなかったのだ。

それが「9時間」熟睡である。信じられないことだ。もしかしたら「そのまま死んでいた」としても不思議はない、死んでいく時と眠りにつく時と、どこか違うのだろうか、あるいは自覚はあるんだろうか?。例えば「ああ、俺は死ぬんだな・・・」とか。

色々な本を読んでいると、人に限らず「生き物全般」は自分の死期を悟るらしい。つまり死ぬ時はわかるってことだ。でも、分かった所で「もう遅い」そも言えるではないか?。・・・まあ、それでも分かるだけマシだと思わなきゃいけない。要するに、覚悟を持って死んで行けるっていうのは案外大事なことではないだろうか。本当は死ぬのにそれに気付かず、掛け替えの無い生命の灯を絶やしてしまうことほど、哀しい事はない。自分の命の最後の声「さよなら、永遠に・・・」を聞いた時の、脳=意識の反応はどういうものだろうか。「おいおい、ちょっとてよ!、まだ早すぎるだろう?」となるか、「分かった、ご苦労さん。いい人生だったね」となるか。どちらかはまだ私にはわからない。

モノの本によると、死期が迫ると譫妄といって昼夜の区別が曖昧になり、うつらうつらの状態が一日続くそうだ。そういえば俺最近昼間でもウトウトするけど・・・なんて言う方は、ちょっと生命力が落ちてきているかも。

2、デジタルお賽銭は有りなのか?
最近私もペイペイ始めようかと思って色々考えてはいるが、まさかお賽銭までデジタル払いにしてるとは思わなかった。このデジタルお賽銭という考え方はアリなのか?

最近は神社仏閣も、デジタル化の時代の要請からデジタルお賽銭を導入する例が増えて来たそうだ。まだそれ程の割合にはなってないにしても、結構な人がスマホで賽銭を払っているらしい。勿論、目だちたがりの人が早速使っている傾向も無きにしもあらずだが、それにしてもわざわざデジタルにするのには「それなりに理由がある」と言う。

まず受け取る神社仏閣の側の言い分だが、現金のお賽銭の場合は「盗難対策」が必要になるという事。また小銭の勘定と、それを銀行に持っていくのが大変らしい。まあ、いくら大変でも「だから嫌!」って訳じゃないだろうけどね。言うならば嬉しい悲鳴、って所だろうか。

確かにスマホで送れば盗まれる心配は無い。ところが街中で色々な世代に聞いたところに依ると、若い人でもチャリンと現金を入れないと「御利益が無さそう」などと仰る人が結構いるのだそうだ。確かに初詣は正月の行事として綺麗に着飾ってお詣りすることに意味があるので、お賽銭はそれを演出する小道具として考えると、実際に投げないと意味がないとも言える。

賽銭箱の上にある鈴を鳴らすのも、神様に「自分が来たことを知らせる」ためだと言うから、ペイペイのお賽銭では「神様に届かない」じゃん、というのも一理あるかも。勿論、お祈りするときには「住所と名前、それと電話番号」は必須だそうだ(それにしても、手の込んだ小芝居が笑えるではないか!)。

まあ、私なぞは最初っから神様仏様などに興味ないから、高校で入試祈願に行って以来「トンと御参りには行ってない」のだが・・・。

ぶっちゃけ本当のことを言うと現金でもペイペイでもどちらでも、お賽銭などあげても「神様仏様は使えない」から意味ない、と言うのは「正しい」ようである。

アナログとデジタルの分かれ目は「どちらが便利か」という省力効果にあるので、お賽銭をあげるという本質には「変わりは無い」という立場に立てば、面倒くさい初詣もいっそのこと省略して、ハワイやロス辺りで友人を集めてパーティなどしながら「スマホでチャリン」と気に入った神社またはお寺にお賽銭をあげる、というのもアリだろう。

積極的に社会と関わり、人生をアクティブに生きている成功者は、お賽銭も一つの行事として「実際に友人とか家族とか恋人」とか一緒にお参りして、除夜の鐘なども聞いて「2022年のカウントダウン」を満喫しているんだろうな、と想像に難くない。まあ、私のゴルフ仲間であるSN氏やSY氏などもそうであろう。羨ましい限りである。

一方、私はと言えば大晦日の紅白歌合戦もここ何十年と見ておらず、どこかお参りに行った記憶も遥か遠くに過ぎ去ってしまった。アナログとデジタル、それぞれ良いところはあるだろうが、私はアナログの世界が居心地がいい。無いものねだりの開き直りと言えばそれなりだが、まあいいではないか、人それぞれである。

で、来年は少しは良い年になるように、積極的に外に出かけるようにしたいな・・・でした。



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