随分前になるが、名画モナリザの秘密を追った番組がNHKで放送されていた。今日、あらためてモナリザの絵をネットでしげしげ眺めてみると、その瞳がだんだん「無限の慈愛」に満ちた眼差しに思えて来たのである。勿論、番組の結論がモナリザはジュリアーノ・デ・メヂィチの息子イッポリートの「亡き母」を描いた肖像、という話に引きずられたものではあるけれど、それでもあの限りない優しさで見つめられていると、「母という存在」の温かさ優しさつまり、この地球上で唯一自分を無条件で認めてくれる「無償の愛」を感じずにはいられない。
レオナルドは生涯この絵を離さずに手元に置いていて、ずっと手を加え続けていたと言われているから、正確には「未完成」なのだろう。このモナリザの瞳は、何か全人類が求めている「究極の存在証明」のようなものが表現されているようにも思えてくる。私をあるがままに、何もかも全てまるごと受け止めて抱きしめてくれる存在。つまり絶対者であり神である存在「そのもの」を描いたとも言える(私にとっての・・・という限定条件付きだが、誰にでもそう思えてしまうところにこの絵の凄さがある)。
そういう気持ちでじっとモナ・リザの眼を見つめていると、「良いんだよ、お前はそのままで」と言っているように感じるから不思議である。モナリザがあらゆる芸術の頂点だというのは、この「永遠の母性」を見事に描き切った作品だからではないだろうか。これは誰もが認めざるを得ない正しい評価だと思う。それは取りも直さず「ダ・ヴィンチ渾身の一作」でもある。
ところで絵画は、最初は神々の似姿を人々の目に示すツールとして機能していた(と言う)。その後、対象が支配者や金持ちや親族の肖像画に移って、如何に素晴らしい人物であったかを描くようになっていった。当然、描かれる人が本人とすぐ分かるように描かれたであろうことは間違いない。或いは、多少の修正は施されていただろうが、とにかく描かれる「本人が納得する」ように優秀な画家が腕を揮って、精密な肖像画を仕上げていた。
ところが写真が一般に出回ると様相は一変し、人々は高価な芸術作品よりも安価で安易な写真の方に一斉に流れていったのである(多分、写真の方が本人に似ていると評価されたのだろう)。その傾向が一般的に広まって、それまでの肖像画の評価基準つまり「まるで生き写しだ」という言葉の代わりに近頃では「まるで写真のようだ」というのが使われるようになったと云うわけだ。果たしてこの「写真のようだ」という言葉は、芸術作品を評価するのに適した言葉なんだろうか?・・・これが今回の私のテーマである。
考えてみればモナ・リザが「まるで写真みたい」と思う人は余りいないだろう。勿論、レルドがその気になれば「写真そっくり」に精密に描くことなど簡単に出来たであろうことは言うまでもない。だが、彼はそうはしなかった。写真は対象を「見た通り」に写すが、それは文字通り「写し手」の意思は存在しなくて、純粋に光学的な正確さで細部に至るまで形や色彩を「見る者の網膜に送って」いるだけだからである。当然、写真を見ても被写体を認識はするが、見る者が被写体から得たデータを脳で処理して「何かを感じ」た内容は、あくまで「見る者」の感覚である。
敢えて言うならば、何かを感じるときは撮られた写真の「人物の表情や対象の構図」などに何か撮影者の意図が含まれている場合であろう。それら撮影者の意図がどんどん深くなればなるほど、写真とは言っても実際は「絵画に近く」なって行く(つまり被写体そのものではなくなって行く)。これを突き詰めて行けばレオナルドほどの技術があれば、写真など撮るよりは「自分で書いたほうが断然速い」し、結局描かれた物は写真とは程遠い別物になっている筈だ。所詮、「まるで写真みたい」という賛辞は、芸術家に取っては全く「意味のない」ものである。ところが世間では未だに写真みたいに精密に再現したものを「凄い」と評価しているようだ。それなら写真でいいではないか?
最終的に「芸術とは何か」を考えたときに、写真から最も遠い存在・・・つまり「モナ・リザの慈愛に満ちた瞳」に行きついたのである。それは、絵画という芸術の「表面から数ミリ奥」に存在する、何かを感じることなのかも知れない。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます