明日香の細い道を尋ねて

生きて行くと言うことは考える事である。何をして何を食べて何に笑い何を求めるか、全ては考える事から始まるのだ。

酒のツマミ話(45)口角を上げると長生きするらしい

2022-02-14 14:29:14 | 今日の話題

1、口角と考える内容は、連動している

普段から女性は「口角を上げ」ている。これは男性が殆ど「上がっていない」のと好対照である。口角が上がっているということは、自然な状態より心もち表情が「にこやか」になるように意図して上げている、とも取れる。女性たちは自分の社会的価値を高めるために必要だからやっているのではなく、物心つく頃から誰に言われること無く無意識にやっているように見える。これは男子より女子の方が成長が早いから、より早く社会的コミュニケーションの技術を覚えるのだ、と言う訳ではなさそうだ。もしそうであるなら男子も遅ればせながら、成長の段階で「同じように口角を上げる筈」である。しかし実際には、そのような傾向は男子には見られない。これはどういう理由によるのだろうか?。

答えは、「私には分からない」であった(ガビーん!)。だがこの場合、どうして男女でそういう風に違ってくるのか?という生物学的理由を研究することは重要ではない。重要なのは口角を上げることで「寿命が伸びる」ことなのだ!。

つまり、口角を上げると「身体の凝り」が消えて、ストレス体質が「エンジョイ体質」に変化するのである!。

試しに口を「への字」に曲げるとへその辺りに緊張が生まれ、口角を上げると「胸から上」にゆとりが生まれて「肺が楽」になる。この両者の口角の上げ下げがの違いが、男女の平均寿命の差に現れて来ているのだ。つまり「長生きは、長息」ということか。

それで私もこれから口角を上げてみようと思っている。しかし、実際に効果があったかどうかは私には確かめる期間が少なすぎるので、多分答えは出ないだろう。それより寿命は伸びなくても、多少共ストレスの無い生活が出来れば御の字である。それと最近分かった事だが、姿勢を直すと「やる気が出て前向き」になるみたいだ(これ、大事である)。背骨を真っ直ぐにして「胸を張る」姿勢を取ると何となく若返った気がして、道を歩く姿も「自信満々」に見えるので楽しい。何事もまず形から入る、というのが私の長年の流儀である。

口角ついでに、次の2つも実行するつもりだ。これはリハビリにもなるので少しオーバーなくらいにやってみようと思っている。

① 右を向いて歩くと「嚥下障害」の改善に効果がありそう・・・これは最近気がついたのだが、脳梗塞で片麻痺になってからは「左に偏った姿勢」になっているようである。飲み物を飲み込む時にも口の中が「右に寄っていて(口の中だけは左右が逆なのだが)」、どうも気管支の入り口が上手く開閉できないようなのである。それで普段から右を向いて歩くようにすると左右の感覚が合ってきて、飲み込む時にも弁が「正常に動く」ようになる気がしている。これ、医学療法的に正しいかはわからないが、やってみると意外と調子良いので新発見かも。

② 目線を上にあげて空を向くようにすると「スマホ首」の改善になる・・・これは普段気が付かないうちに下を向いているということ。携帯などなかった昔は、もっと背筋が伸び胸も張って歩いていた、と思う。それに姿勢が良くなると「お腹も引っ込んでくる」ような効果も期待できて一石二鳥だ。これは是非トライしたい。

以上。

2、胃を空っぽにする

食事の間隔を出来るだけ空けるようにすると「ガン予防」に効果がある、という記事が SmartNews に書いてあった。日本人は昔は一日2食だった、という話も聞いたことがある。ある研究によると動物全般に言えることだが、寝起きにすぐ食事をする生き物はいないそうだ(出典はわからないけど)。誰だか忘れたが「朝食は抜け」という医者もいたように記憶している。本当はどうなんだろうか。

朝食を「摂ったほうがいい派」の主張を裏付けるエビデンスの一つには、朝食を摂ると勉強のパフォーマンスが上がる、という調査結果があるようだ。だがこれは人間が何かをする時、特に脳を酷使する勉強の場合は、脳の栄養すなわち「糖分を補給する」ことが必要であり、それで朝食を摂るとパフォーマンスが上がる、という単純な結果が出ただけで、そのことが即「人間の健康状態を適正に保つ」ことにはならないと思う。

例えば自転車競技の選手は物凄くカロリーを消費するので、普段から「7000キロカロリー」というような高カロリーの食事を摂っているらしい。これを、カロリーを多く取ったほうがパフォーマンスがあがるというエビデンスと捉えて一般人にも高カロリー食を勧めたとしたら、殆どの人は「肥満で早死」してしまうだろう。食事はあくまで「消費カロリーと摂取カロリーのバランス」をとる、というのが大前提である。そのうえで、朝食が身体にどのような影響を与えるか、を考えることが必要だ。

基本的には、食事は身体にとって「負担」なのである。胃腸の酷使は寿命を縮める。まあ、それを言っちゃあ「生きていること自体がストレス」という話になって、全部が宗教的な方に行ってしまうからここではやめておく。今回の議論では、どういう風に食事を取れば胃腸に負担をかけず「より健康的な生活」を送れるか?、という観点で話を進めよう。

胃腸に負担をかけず、しかも十分に栄養を取り込む方法はと言うと、それはなるべく「間隔を空け」て、出来れば「14〜16時間」は間をおいてから食事することだそうだ。これが今回の SmartNews の記事の内容である。当然一日3食の場合、朝7時に朝食を摂ると昼食を12時として、夕食はどう見ても「6時前」には済ませなければいけない。これは現代人には難しいだろう。電気がない頃の日本人は夜明け6時には起き出して一仕事済ませ、朝食兼昼食を10時ころに摂り、それから頑張って働いて夕食を6時頃に摂ったのではないか(私の勝手な想像)。勿論季節によっても違うだろうが、「一日2食」だったことは文献などにも出ているので間違いないだろうと思う。一日3食では食べすぎなのだ。

かく言う私は社会人になってからというもの、殆ど朝食は摂らずに1日2食を通して来た。場合によっては朝昼食べずに「夜だけ1食」ということも結構あったが、特にお腹が減って困るという程の運動はしていないから問題はなかった(お陰で健康優良社員の表彰を受けた事もあるのだが、脳梗塞をやってからは自慢できる話ではなくなってしまった)。いずれにしろ。このスタイルが1番私にはあっているようで、今でも食事の回数は出来れば2回にしたいところだ。ところがここ最近7年ほどは毎日薬を飲むせいで、どうしても「朝食を摂る必要」が出てきたのである。この、お腹が減ってもないのに食事する、というのが実は「ストレス」になっているのだ。それで思いついたのだが今度朝は起きてもすぐに食事せず、11時ころに食べて「それから薬を飲む」方法にしたらどうだろうか、と考えている。

生兵法は怪我の元だから、来週病院に行く予定が有るので先生に聞いてみようかしらん。

3、年取ってくると「ゆっくり話す人」のほうが落ち着くのは何故?

私は毎朝、起きる前の2時間を森本毅郎のラジオを聞いて、「布団の中でぬくぬく」とするのが最近の楽しみになっている。森本毅郎は御年82歳、相変わらずの低音が魅力的なパーソナリティだが近頃はしゃべりも「たどたどしく」、若い人の会話スピードと比べると「2倍くらい」遅くなっているようだ。まあ、女子高生の「超高速会話」とは比べるべくもないが、彼も歳なのかな?というのが正直な感想だ。だがそれでは話の内容が伝わらないかというと、実はそうでもないのである。

若い人は会話する時、話にそれほど深い意味を込めているわけではない。若い人同士の会話は「相手との共感」に重点を置くコミュニケーション・スタイルで、自分の考えがどうとか説明することは殆ど無く、面白かったとか美味しかったとか鳥肌立ったとか、大体「自分がどう感じたか」という表面的な出来事に話は終始する。ところが年を取ると表面的な出来事を話すだけでは満足できなくて、出来事より「自分の主張」を話したくなるのである。

人間、年を取れば取るほど他人と考えることも違ってくるし、政治の話や経済の話や、色々込み入った内容の話も増えてくる。若い時と違って相手の話している言葉の裏に有る「本当に言いたいことは何なのか?」を考えたり聞き出すことが、コミュニケーションの大事な部分を占めるようになってくる。このように、考え考え言葉を選んで話をすれば、当然ながら「会話スピードは遅くなる」わけだ。「歳のせい」ばかりでもないのである(多少は脳の反応が遅いのも影響はあるだろう)。聞く方も身構えて聞くから、「考える時間」が必要とも言える。ちょっと話が「遅過ぎるかな?」と思ったけど、「それが丁度いい」スピードだったと後でわかる。森本毅郎の場合は超低音だから聞いていて落ち着くので、話が聞きやすいのかも知れない。

彼は年齢が高い層には特に人気だそうだから、納得である。

3、孤独は最良の友

人間には、常に「他人とのコミュニケーションの輪」の中にいて安心するタイプと、コミュニケーションが取れればいいが取れなくて「孤立して」いても平気な人と、2種類ある。私は後者のタイプで、他人とコミュニケーションを取ろうとすると途端に「相手を起こらせてしまう」ような不器用な性格が災いして、「心ならずも」孤立している人間である。

現代はそういう人が増えたと言うが、SNSのお蔭で「リアルに」コミュニケーションを取らなくても、アプリの中の「擬似的な」形で自分の意見を理解してくれるような存在と、ある意味「関係を持つ」ことが可能になった。ブログとか Twitter とか一方的に書き込んで公開し、それに対する反応を「じっと待つ」のである。

思いがけず予想を超えた反応がある場合も、そうでない場合も色々ある。が、とにかく反応があるということは、書く方にしてみれば自分が「孤独ではない」ことを公式に認めてもらえることではないだろうか。

リアクションが多数あればさらに気分も盛り上がるかと思えばそうでもなくて、どちらかと言えば「アクセス数」が思ったより伸びた時に「やったぁ!」となるみたいだ(私はリアクションは、実は大した意味は無いと思っている)。それは、空想の中で舞台に登場し、大観衆を前にして自分の主張を演説しているような妄想に耽る状態、つまり「一方的な関係」で十分である。ブログではアクセス数という「目に見える数値」が表示されるので、自分が承認された実感が得られるのだと思う。

この「承認欲求が満たされる」という事実がアドレナリンだかエンドルフィンだかを脳内に大量に放出してくれて、一種「麻薬のような効果」をもたらすから楽しく続けられるのだろう。そしてこの承認者は、「特定の個人で無い方」が都合が良いのである。もし「特定の誰か」が承認者だった場合、ブログを書くも者にしてみれば例えどれだけ立派な尊敬されている高名な人物であったにせよ、「本人とは意見が違って当然」だからだ。意見が違えば時と場合によっては作者に否定的な反応が出てきて、何ら不思議はない。これがブログを書くものには「いらない反応」なのである。承認者は賛成してくれればいいし、もし心に届かないのなら無視してくれれば結構。その「どちらか」で十分である。作者にしてみれば承認者は、「世論」という漠然とした存在でいてくれればそれでいいのだ。それ以上の反応は必要ない。

賛成してくれれば「分かってくれたか!」と気分が良くなり、無視されれば「分かんないだろうな」と諦める。それだけである。ブログの価値は「書いた本人」が自分で決めるものである。それに他人にどうこう言われても、だからといって「どうなるものでもない」のだ。「自分はこう考える」という内容をひたすら空中に放り投げて、結果を眺めるだけである。一見無意味な作業のように見えるが実は、自分の頭の中で考えたことを「世論がどう受け止めるか」反応をじっと見ているのである。そして、どれだけアクセス数があるかな?、と考えている時間が楽しい。

私はブログを書くようになってからというもの、誰かに話したいという欲求が「ブログで発散され」た結果、殆どストレスが無くなった(これは医学的に凄いことである)。これは「単なる独り言」とは違う何かがブログには存在する、という証明だと思う。それが何かと問われれば、きっと「アクセス数」なんだろうなと私は思っている。目に見えない承認者からの「神のお告げ」のようでもあるこのアクセス数というマジック。何とも不思議な数字である。

もしかしたらこのアクセス数は、現代人の心の孤独を癒してくれる21世紀の宗教なのかも知れない。つまり「アクセス教」という名の新種の宗教かも・・・。


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