明日香の細い道を尋ねて

生きて行くと言うことは考える事である。何をして何を食べて何に笑い何を求めるか、全ては考える事から始まるのだ。

人生の3大発見その1:魂の行方・後編

2024-02-28 16:42:00 | 私の意見

5、腸の死
死は生物にとって「終わり」を意味する。では、死ぬのは自分(=意識)かそれとも腸(=臓器)なのか。答えは当然であるが、死ぬのは腸(=臓器)である。自分(=意識)は死ぬことはない。それは自分の意識=自我は、生命活動を行ってはいないからだ。もともと生命体ではなく、各種の機能を集約した1器官だから、死ぬのではなくただ「停止する」だけである。例えて言うなら、エンジンが停止した車における「ハンドル」のようなものなのだ。ハンドルは回せても、車は進まない。つまり考え方として、自分と命とは「別物」というのが正しい。命が行動するための「乗り物」という風に考えてもいい。逆に言えば、自分を生かしている生命体は、自分にとっては「他者」である。死が命にとって最大の事件であっても、それが他人の身に起きる場合は、それ程の切迫感はない。それが知人や身内に起きて初めて「少し動揺する」のである。それは親しい存在がこの世から消えていくことへの悲しみかも知れない。これは動物にも同じではないが、あるようだ。私はつい最近になって、脳の働きの一部としての自我=自意識と生命とは、「別々のものとして考えること」が出来る、ということを発見した。例え自分の死であっても別々のものと考えることで、「他人事として冷静に受け入れること」が出来ると分かったのである。

死は怖くない。それは私が死ぬのではなく、私にとって他者である「腸が死滅する」のだ。このことを発見してからは、私が死ぬ間際に「腸さんよ、ごめんね生かしてあげられなくて・・・」と優しく声をかけて、別れを惜しむ余裕すら生まれてきたように感じている。「腸」が命であり、死ぬのは腸だ。自分が死ぬ時に「自分が死ぬ」と考えるのは間違いなのだ。自分=自我意識のご主人さまである腸は、「命ではあるが、脳にとっては他者」なのである。脳が意識している自分は、実は「腸」が作り出した「生きるためのイリュージョン=幻影」と言える。脳が一つの器官=臓器に過ぎないと理解した今は、従容として死んで土に帰る決心が出来た(と今は平静でいられるが・・)。自我も勿論、その時に「機能停止」する。自分にとって「他者」である腸は、例えばアフリカ・ザンビアのデホさん(私の全く知らない人)が死んだのと同じように、私にとっても「他人」なのだ。ただ私の「唯一のご主人様」というだけである。ご主人さまが死ねば、下僕の私は「用済み」となって廃棄される。それが「死」の真実である。魂は腸の中に存在しているかも知れないが、「脳」にその存在の実態を知る機能は、用意されてはいないのだ。必要ないのである。

6、脳の移植
人間は死ぬ代わりに「肉体を取り替えて」常に新しい身体を手に入れるという、究極の「不老不死」を考えついた。人間の「自己認識」が記憶の蓄積で出来ているのなら、その構成要素、例えば子供の頃から思春期・社会人時代を経て老年に至るまで、全ての記憶を「電気的に移植」出来るなら、不老不死というのも可能である(実際は機能の継承に過ぎないのだが)。脳の記憶はそもそも、電気信号の複雑な連結の結果だという。果たして記憶の移植なんてことが可能なんだろうか?。世間では、記憶喪失という「一種の事故」のような病気がある。過去の記憶を全て無くしてはいるのだが、言葉や駅の券売機やカレーの味など「基本的な生活要素の知識」は持っているという変わった病気だ。これは心理的な抑圧が関わっているとも言われているが、多く見られるのが「自分が誰かわからない」状態である。生きるための最低限の機能が残っていると考えれば、「自分が誰か」などは差し詰め、一番必要のない事かもしれない。だが、もし自分の個人的な記憶だけ消失して、その他の日常的なスキルや一般的な常識は覚えているとしたら、これは「肉体の再生」にはならないのじゃないだろうか。これは映画でよく見る「AIロボットの再生産過程」とそっくりである。これじゃ元々の希望とは真逆の「本末転倒」の処置になってしまう。本当は自分が誰かを忘れるのではなく、100mを10秒で走れる足や、ピアノソナタの熱情を軽々と引きこなす指や、人が1時間かかる難問を瞬時に解いてしまう頭脳や、聞いている人を心から感動させられる話術が欲しいと考える。いや、それよりも何よりも、一番の希望は「生命力に溢れた若い肉体」に戻りたいと願うのではないか。年と共に衰えていく自分の身体に不満が出てきて、とにかく「若さ」が欲しくなるのだ。

7、自我の再生
自我はそのままで、肉体を新しく若い優秀なものに取り替えて不老不死を維持する。究極の生き方だ。だが考えてみると、こういう思考は「相当なナルシスト=精神的な」の人の考えることである。人間の生活は、健康な身体さえ手に入れれば「理想の人生が約束される」という訳ではない。一人の人間が社会の中で生きていくためには、単に身体能力が高いだけではなく、人間関係の能力や社会的なスキルや大多数の人々と変わらない平均的な嗜好も大事である。身体的にも社会的にも何とも無いのにも関わらず、多数の人命を殺めてしまう「殺人鬼」というのも自我の一つだからだ。自然はこのような「意図せぬ出来損ない」を除外するシステムを、知らず識らずの内に「我々に与えていた」のである。それが「計画された死」、つまり遺伝子に組み込まれた「テロメア」の存在である。人間は死ぬことによって失敗した個体を意図的になくし、それよりもより正常な個体を再生産している。これは自然の智慧、不安定な人類と言う生物に与えられた「神の親心」だと私は思っている。魂は存在せず、人類は死によって再生産する。これが真実だ。

8、死の恐怖
ところで人間が必ず持っている自己保存の本能=機能、これを「死の恐怖」と言う。これの最大の原因は「自分自身が死ぬ」と思うことだ。これは原理的には死ぬ筈のない「自我」という機能が、生命の死という事象を「自分自身に当てはめる」ことから起きる「錯覚」である。自我は本来は、「生きるために必要な」防衛・免疫システムの発展型に過ぎない。その本質は「魂」というような精神的な何かではなく、感情すら医学的な物質の反応であるような「外界を操作する機能」である。あえて言うならば、我々が考えている「自分の正体」は、実は「機械」なのだ。はっきり言えば、自分は実は「ロボット」なのである。昔、マトリックスという映画があったが、あれをイメージすれば大体近い状態が、これが我々人間の「本当の姿」である。我々はイリュージョンの世界にいる。脳という機能の作り出したイリュージョンと、腸という「生存する実体」との間にいるのだ。死は簡単に言えば、自然の用意した次の実体の再生への準備である。

9、現在を終わらせ、未来を新たに開く
腸が何を考え、どのような人生を歩んで死に至るのかは「誰にも」分からない。物言わぬ臓器とは時々聞く言葉だが、腸内環境などと近頃大事だと言われて来て食事は勿論のこと、ストレス・コントロールにも注意が払われる時代になってきている。良い環境で生命を維持するのは、我々「脳」に取って最大唯一の使命である。この世界は色々な外敵が存在し、細菌やウィルスは勿論、自身の身体の変異体である癌などとも戦わなくてはならない「厳しい生存競争」の世界である。この世界で寿命を全うし、そこそこ楽しみを覚えて人生を過ごし、愛する子孫を残したら、もう「自然の摂理に従って」死んでゆくのは「本望」ではないだろうか。34億年の地球の悠久の歴史の中で、ほんの一瞬の煌きに過ぎないとしても、それでも「確実に生きていたという証」を残している「世界でたった一つの腸」だ。私はこの腸が好きである。

腸は毎年再生産される。腸が生まれれば「自動的に脳がついて」くる。脳は腸の「一つの機能」だからだ。そして脳の発達とともに身体が免疫機能を拡充して行くに従って、徐々に「自我が生まれて」くる。自我は脳機能の発達の「最終段階」なのだ。車も組み立てられてガソリンを入れ、最終的にエンジンキーを回すことによって「動き出す」。「三つ子の魂、100まで」と言われるが、自分と他人がはっきりと自覚されるようになって(つまり身体は自他の区別を最初からしているのだが)、「脳が認識」するまでに2、3年かかるのである。こういう成長の過程を経て、人は「人間になる」。あるいは「人間の機能」を得るとも言えるわけである。だから、もし自分が死に直面しても、あれこれ心配する必要は全然ないのだ。人は必ず「自我」を持つ。それは人間という生物の持つ多くの身体機能の中の一つなのであり、何も特別なものではない。ただちょっと機能が「コントロールに特化している」だけである。

私は結局、昔から言われているように、「人は死んだら生まれ変わる」ということを実証したに過ぎなかった。人は死んだら新たに違う家庭の子として生まれ、再び新たな別の人生を送るのである。これを「輪廻転生」という。ただ前世の記憶は、勿論ない。これは当然の事だが、肝心の腸が違うのだから、単なる機能に過ぎない脳が「別人の腸の体験」を覚えている筈はない。そこが魂を信じる宗教と、私の説の違いである。生まれ変わった私は、前世の私とは「まるきり別」の個体なのだ。だが「私」ということでは、前の「私」が死んで、新しく今の「私」が生まれる。私が死に、私が生まれたのだ。これは形而上学的な、哲学的な意味での「私」の不老不死である、と言えなくもない。

現世で苦労をし、我慢や辛抱をしてもなお「正しい行いで人生を全う」した善人は、きっとこの世に備わっている自然淘汰のシステムにより、より良い人生へと生まれ変わることは「可能性としては、確率が高い」と思っている。欲望を全開にして脳の好き勝手に暴走した「間違った私」の快楽人生は、次に生まれてくる時には、育つ環境に人々の反省が加えられて、もっとマイルドな「腸に優しい私」に育って社会貢献をし、尊敬され愛される真人間に生まれ変われるのだと信じている。最近そういう意味では、「未来の子供達」は他人じゃなくて、今の「自分」の生まれ変わりなのだ、と思うことにした。きっとこれからは、輝かしい未来がやってくる。この未来の素晴らしさを「私」として堪能するためには、少なくとも「より生命力の高いDNA」に生まれる必要がある。そのためには何をすればいいか。

簡単に言えば「私」は、生まれてくる腸を選ぶことは出来ない。最初から難病を持って生まれることもある。誰もが天才になれるわけじゃないのだ。だから「確率を上げる」のが近道なのである。そうやって、原始時代から人間は進化を続けてきたのである。何とか未来が、今よりもっと便利で暮らしやすい社会に変わっていることを期待しようではないか。・・・それで万一、あなたが「食用牛の自我=私」に生まれ変わったら、どうなるのか、って?

そんなん知らんわ!



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