1 駅のホームに降りるエスカレーターの降りたその場で周りを見回して、どっちに行こうか思案しているおばさんグループ
自分が周囲とどう関わっているかを全く知らずに生きていて、注意されると「あら、ごめんなさい」といえば何事も済むと思っている、脳味噌の少々弱い動物である。ほんの少しの未来をも考えてみる想像力すらない視野の狭い女達が、ズボラと飽食の果てに恥じらいもなく傲慢で自分勝手な生き物(申し訳ない、そもそも動物は自分勝手なものだった)に成下がった姿は、いまや不愉快そのものである。ちょっと脇へどいてくれれば何の問題もないのだが、それが思いつかないのだから始末に負えない。ラッシュ時に電車のドアの位置に並んでいる列が伸びて、それが階段の降り口を塞いでいる場合も同様である。この場合は、列に並んでいる人は降りて来る人の邪魔になっていることに気がつかないのであろうか。中には気づいている人もいるのだろうが、知らぬふりをしていてどこうともしない。いつから日本人は他人の邪魔になっても平気でいられる民族になってしまったのか。情けない限りである。時々「どかーん」と爆弾か何かで吹っ飛ばしてやりたい気になるのだが、もちろんテロとは何の関係もないのは言うまでもない。
2 郵便受けに半分はみ出したままに放ってある封筒を、セキュリティ上なんとも思わない郵便屋またはチラシ配りのアルバイト
時々外に出かけてしばらくして帰って見ると、郵便受けから半分はみ出したままチラシや新聞お試し版が入っている。それを見る度に、なんでキチンと全部中に押し込んで入れてくれないのかと悲しくなる。これでは「この家は今出かけていて、留守です」と言っているのと同じではないか。入れたのが郵便屋ではなくアルバイトのチラシ配りだとしても、少し常識があればこんなことは起こらないと思うのだが、少なくとも雇う時に教育すべきである。それすらできないというのは、チラシをただその辺の家に突っ込めばそれでお客は読んでくれるという馬鹿げた宣伝方法が、ネット大国の日本で、いまだに有効だと信じ込んでいるバカな企業がいるということである。私はこの手のものは一切中身を見ずにゴミ箱へ投げ込んでいるのだが、そういう客が多いということを知らないのだろうか。この馬鹿げたチラシを配っている会社に私ははっきりと言いたい、「私の郵便受けに、ゴミを投げ込むな!」と。
3 優先席の前に立っていて若い人に席を譲られ、「まだ大丈夫です」と断るお年寄り
優先席と書いてある席の前にお年寄りが立っていれば、誰だって「どうぞ」と譲るのは当たり前である。それを「大丈夫ですから」と断るなんて行為は自分は大丈夫と思っていても、譲る側にしてみれば「大迷惑」なのである。それなら最初っから座らなければいいじゃないか、と言う人がいる。大混雑で身動きもままならない電車のなかで、「優先席だけ空席」なんてこれもバカみたいである。そんな時は内心、誰か座れば?と思ったものだ。空席があれば座るべきで、座らなければその分通路が混雑して皆嫌な思いをすると思うのだが。それで老人が来たらどけばいいので、そもそも通路が混んでいれば「老人が優先席にたどり着けない」事になる。本末転倒である。だから老人は「有無を言わせず、必ず優先席に座るべき」なのだ。それが嫌なら「優先席じゃない所」に行って立っていればいい。私は一度優先席の目の前に立った老人に席を譲ろうとしたら断られたので、散々その相手に毒づいたことがある。人の親切を無にするような自分勝手な態度は「許されないぞ!」と言ってやったのだ。老人は老人らしく優先席に大人しく座ってろ、と言いたい。こういうことをキチンと守ることが、社会を「ストレスなく暮らしやすい場所に」して行くのである。その暗黙のルールがわからない老人は、もはや老害でしか無い。
4 細い道を三人横一列になって歩いてきてすれ違う時、ギリギリ手前になって「ほとんどぶつかりそうなぐらいに」かわしながら何事も無かったかのごとく通り過ぎる若い女性
これはもうオジさんへの侮辱である。私は犬や電柱ではない。少しでも常識や礼儀作法をしつけられた人間であれば、数メートル手前で「道の半分を空ける」のがあたりまえである。人一人分の通れる隙間ではなく、道の半分というのが礼儀であることは言うまでもない。これは当然の礼儀であり、誰でも自分の勤めている会社の社長が廊下の反対側から歩いてきたら、壁にピタッと張り付いて目一杯通路を開けるだろう。それなのに何で普段それができないのだろうか?答えは簡単、道端で出会った相手は「見ず知らずの他人」だから。だが礼儀というのは「見ず知らずの相手にこそ」発揮されるのである。それが本当に「優雅で上品な人」だということを、これらの若いお嬢さん達に教えてあげたいのだが、何と言ったら分かってもらえるだろうか?わかんないだろうなぁ。
5 道の真ん中で立ち止まってスマホをいじっている若い男
もう、いう言葉がないくらい理解の限度を超えている。馬鹿とかアホとか、言葉にするのも憚られるおぞましい風景である。これは一体なんだろう、得体の知れない唾棄すべき人間の愚行とでも言おうか、痴呆の果てにたどり着いた脳髄の地平線である。周囲への気遣いとかの常識的な言葉では済ませたくない何かが、この若い男(女でも同じであるが)には感じられる。私は、動物達がいかに日常的に「敵の存在に敏感」で、片時も注意の目を絶やさないでいるかテレビなどを通じてではあるがよく見聞きしているので、尚更この無防備・無関心な行動には驚かされるのである。自分の身がいつでも危険に晒されているという感覚は、戦後間もない生まれの私たちの年代には、誰に教えられるでもなく自然と身につく「生きる知恵」であった。今日の若い人たちが無防備に見えるのも、翻って見れば「如何に安心・安全な世の中で過保護に育ってきたか」ということでは無いだろうか。人間にとって一番危ない生き物は、皮肉なことだが「人間自身」である。この危険極まりない生き物に対して、常に「君子危うきに近寄らず」つまり、如何にして身を避けて、近寄らないようにするかという感覚を持たなければ、当然種々のトラブルに巻き込まれる度合いも増えてくるであろう。危ない危ない。「ちょっと脇に避ければ済むのに」などという野暮は言わないことにしよう。何かあったら自業自得、犯罪はやった方が悪いのは当たり前だが、それでも被害者にならない努力は怠らないことである。何にもなければそれが一番の幸せ、67歳の私の到達した「悟りの境地」である。
自分が周囲とどう関わっているかを全く知らずに生きていて、注意されると「あら、ごめんなさい」といえば何事も済むと思っている、脳味噌の少々弱い動物である。ほんの少しの未来をも考えてみる想像力すらない視野の狭い女達が、ズボラと飽食の果てに恥じらいもなく傲慢で自分勝手な生き物(申し訳ない、そもそも動物は自分勝手なものだった)に成下がった姿は、いまや不愉快そのものである。ちょっと脇へどいてくれれば何の問題もないのだが、それが思いつかないのだから始末に負えない。ラッシュ時に電車のドアの位置に並んでいる列が伸びて、それが階段の降り口を塞いでいる場合も同様である。この場合は、列に並んでいる人は降りて来る人の邪魔になっていることに気がつかないのであろうか。中には気づいている人もいるのだろうが、知らぬふりをしていてどこうともしない。いつから日本人は他人の邪魔になっても平気でいられる民族になってしまったのか。情けない限りである。時々「どかーん」と爆弾か何かで吹っ飛ばしてやりたい気になるのだが、もちろんテロとは何の関係もないのは言うまでもない。
2 郵便受けに半分はみ出したままに放ってある封筒を、セキュリティ上なんとも思わない郵便屋またはチラシ配りのアルバイト
時々外に出かけてしばらくして帰って見ると、郵便受けから半分はみ出したままチラシや新聞お試し版が入っている。それを見る度に、なんでキチンと全部中に押し込んで入れてくれないのかと悲しくなる。これでは「この家は今出かけていて、留守です」と言っているのと同じではないか。入れたのが郵便屋ではなくアルバイトのチラシ配りだとしても、少し常識があればこんなことは起こらないと思うのだが、少なくとも雇う時に教育すべきである。それすらできないというのは、チラシをただその辺の家に突っ込めばそれでお客は読んでくれるという馬鹿げた宣伝方法が、ネット大国の日本で、いまだに有効だと信じ込んでいるバカな企業がいるということである。私はこの手のものは一切中身を見ずにゴミ箱へ投げ込んでいるのだが、そういう客が多いということを知らないのだろうか。この馬鹿げたチラシを配っている会社に私ははっきりと言いたい、「私の郵便受けに、ゴミを投げ込むな!」と。
3 優先席の前に立っていて若い人に席を譲られ、「まだ大丈夫です」と断るお年寄り
優先席と書いてある席の前にお年寄りが立っていれば、誰だって「どうぞ」と譲るのは当たり前である。それを「大丈夫ですから」と断るなんて行為は自分は大丈夫と思っていても、譲る側にしてみれば「大迷惑」なのである。それなら最初っから座らなければいいじゃないか、と言う人がいる。大混雑で身動きもままならない電車のなかで、「優先席だけ空席」なんてこれもバカみたいである。そんな時は内心、誰か座れば?と思ったものだ。空席があれば座るべきで、座らなければその分通路が混雑して皆嫌な思いをすると思うのだが。それで老人が来たらどけばいいので、そもそも通路が混んでいれば「老人が優先席にたどり着けない」事になる。本末転倒である。だから老人は「有無を言わせず、必ず優先席に座るべき」なのだ。それが嫌なら「優先席じゃない所」に行って立っていればいい。私は一度優先席の目の前に立った老人に席を譲ろうとしたら断られたので、散々その相手に毒づいたことがある。人の親切を無にするような自分勝手な態度は「許されないぞ!」と言ってやったのだ。老人は老人らしく優先席に大人しく座ってろ、と言いたい。こういうことをキチンと守ることが、社会を「ストレスなく暮らしやすい場所に」して行くのである。その暗黙のルールがわからない老人は、もはや老害でしか無い。
4 細い道を三人横一列になって歩いてきてすれ違う時、ギリギリ手前になって「ほとんどぶつかりそうなぐらいに」かわしながら何事も無かったかのごとく通り過ぎる若い女性
これはもうオジさんへの侮辱である。私は犬や電柱ではない。少しでも常識や礼儀作法をしつけられた人間であれば、数メートル手前で「道の半分を空ける」のがあたりまえである。人一人分の通れる隙間ではなく、道の半分というのが礼儀であることは言うまでもない。これは当然の礼儀であり、誰でも自分の勤めている会社の社長が廊下の反対側から歩いてきたら、壁にピタッと張り付いて目一杯通路を開けるだろう。それなのに何で普段それができないのだろうか?答えは簡単、道端で出会った相手は「見ず知らずの他人」だから。だが礼儀というのは「見ず知らずの相手にこそ」発揮されるのである。それが本当に「優雅で上品な人」だということを、これらの若いお嬢さん達に教えてあげたいのだが、何と言ったら分かってもらえるだろうか?わかんないだろうなぁ。
5 道の真ん中で立ち止まってスマホをいじっている若い男
もう、いう言葉がないくらい理解の限度を超えている。馬鹿とかアホとか、言葉にするのも憚られるおぞましい風景である。これは一体なんだろう、得体の知れない唾棄すべき人間の愚行とでも言おうか、痴呆の果てにたどり着いた脳髄の地平線である。周囲への気遣いとかの常識的な言葉では済ませたくない何かが、この若い男(女でも同じであるが)には感じられる。私は、動物達がいかに日常的に「敵の存在に敏感」で、片時も注意の目を絶やさないでいるかテレビなどを通じてではあるがよく見聞きしているので、尚更この無防備・無関心な行動には驚かされるのである。自分の身がいつでも危険に晒されているという感覚は、戦後間もない生まれの私たちの年代には、誰に教えられるでもなく自然と身につく「生きる知恵」であった。今日の若い人たちが無防備に見えるのも、翻って見れば「如何に安心・安全な世の中で過保護に育ってきたか」ということでは無いだろうか。人間にとって一番危ない生き物は、皮肉なことだが「人間自身」である。この危険極まりない生き物に対して、常に「君子危うきに近寄らず」つまり、如何にして身を避けて、近寄らないようにするかという感覚を持たなければ、当然種々のトラブルに巻き込まれる度合いも増えてくるであろう。危ない危ない。「ちょっと脇に避ければ済むのに」などという野暮は言わないことにしよう。何かあったら自業自得、犯罪はやった方が悪いのは当たり前だが、それでも被害者にならない努力は怠らないことである。何にもなければそれが一番の幸せ、67歳の私の到達した「悟りの境地」である。
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