菅首相の言い訳が、今度は「私は学術会議の推薦名簿を見ていない」と珍回答した。子供じゃないんだから、こんな「ふざけた回答」では首相として失格だ。まず基本的なことを言うと、第一に、日本は「法治国家」であるということ。すべての人は「法の定める通りに実行しなければならない」のが法治主義である。そうでなければ、その決定・処置は無効取消となる。日本で一番偉いのは総理大臣でも天皇でもなく、「法」なのだ。これを間違えてはいけない。
では、今回の学術会議命問題は「何が問題」なのか。
(1)日本は法治国家である
言うまでもないことだが、日本という国を治めているのは首相でも天皇でもなく、「法律」である。法が治める国家と書いて「法治国家」という。これは日本の最高意思決定機関は「法」だと宣言していることに他ならない。ところが、その一番大事な法の解釈が、受け取る人によって「如何様にもなる」ということが問題なのである。これは書き方の問題でもあり、日本語という曖昧語の問題でもある。例えば英語なら、一つの鉛筆と2つの鉛筆は「明確に区別」されるし、主語は省略される事は「基本的にはない」のだ。「誰が」というのは文章において、最も大事なファクターである。ことほど左様に日本語と英語では「文章の正確さ」に違いが出てしまう。よく聞く話だが、普通の業務委託契約書が「A4で300ページ」なんてことが日常的に有り得るのだ。日本人は「わかっている筈」と思い込んで、きちんと書面にしていないから問題が起こる。これは他民族が入り乱れている外国と違って、単一民族しか存在しなかった日本という島国の哀しさである。
(2)学術会議法
学術会議メンバーは「学術会議の推薦に基づいて首相が任命する」とある(私は知らないが、ニュースによればそうらしい)。この「基づいて」の法解釈が、政府と学術会議で違っているので問題が起きた。学術会議側は「基づき」とあるので、推薦されたリストをそのまま任命するのが法の意図であると主張。一方政府は任命するのだから「選ぶ権利はある」として対立している。
(3)法解釈の実態
そもそも「法解釈が曖昧だ」から、このような問題が生じる。ではなぜ法律という、最も厳格に書かれている筈の文章が「解釈によって内容が色々変わってしまう」のか。これは法律を作るときに「法制定の意図」が正しく実行されるよう、解釈が一つしか無い「間違いようのない文章」にすべき、という意識が欠如しているのである。この日本語を正確に書く技術が「なってない」から問題が起きる。
(4)学術会議法の正しい解釈1
この法は、学術会議の推薦に「基づき」、首相が任命するとなっている。では「基づき」とはどういう意味か。任命するとは学校で倣った5W1Hの方法によれば、「何時、何処で、誰が、誰を、何に、どのようにして」任命するか、ということになる。今回問題になっているのは何時・何処で・誰が・何に・どのようには確定していて、「誰を」が争点になっているのだ。「何時」はメンバーの任期が決まっているので問題はない。「何処で」は内閣のどっかだろう。これには余り意味はないし、学術会議法でも指定はしてないようだ。これは常識ということで良いだろう。「誰が」は内閣総理大臣と明記してある。「何に」は「学術会議メンバーに」である。この2つについては、誰も異論はないだろう。「どのようにして」は単に任命するだけだから、公式の場でリストを提示して宣言すれば事足りる。後は公式文書に記録するだけで終了だ。では、「誰を」というのはどうであろう?
(5)学術会議法の正しい解釈2
「誰を任命するのか」という問題を定めるために、法は「推薦に基づき」という曖昧な表現とっている。推薦とは、総理に学術会議メンバーの名簿を提出して、「この人達を任命して下さい」というものだ。「推薦」という以上、取捨選択の最終決断は任命権者にある。だから名簿に載っていても、任命されない場合も「有り得る」というのが政府の解釈である。だが、市役所の労務管理担当者を選んでいるのではない、学問的専門的知識が必要とされる「学術会議のメンバー」を選んでいるのである。彼らが国家公務員だといっても、形式上の権利を保証しているのであって、その「学術会議の業務内容」についてあれこれ内閣が指示命令するわけではない。だから、ここでの「基づき」というのは、政府は学術会議の意見をを尊重し、会議側が適切と認めた人の名簿に「基づき」、それらの人を「政府が形式的に任命する」ことが、法の意図することである。これが学術会議側の法解釈だ。では、どちらの解釈が正しいのか。
(6)解釈の方法を1つにする
答えを出す前に、法解釈がいくつも出てくるところに問題があるので、ここは法解釈の余地が無い書き方に改めるのが良いだろう。つまり学術会議のメンバーは、学術会議が適切だと思う人を選び「名簿にして提出し」、総理はその名簿を形式的に「任命者リストとして流用する」こと、で良い。なお、これでは任命権者の意義がないではないか、と息巻く人もいるかも知れないが、それなら任命権者を「学術会議の会長」とすれば良い。そもそも学術会議とは、科学的学問的な諸問題について、国民が「素人集団の政府・内閣の判断に不安を覚える」から登場した諮問機関である。素人の政府だけじゃ心配だから、「専門的な先生方の意見を聞いて」政策を決めてほしいと「国民」が願っているからこそ、出来た制度である。そういう意図だから、必要経費やそれなりの報酬は「国費で賄う」のだ。国家公務員だからといって、政府の下で言うことを聞く下僕のような役割で無いのは、明らかである。むしろ、政府の決定に「学問的立場に立って、大所高所から意見を具申する」のが仕事であり、その仕事の内容というのは「国民に対して責任を負っている」のだと言える。政府が雇っている1公務員という考えは、私は間違いだと思う。
(7)さて、答えは
菅首相は自身の間違いを認めて謝罪し、改めて6人を追加任命してこの問題の幕引きとするしかないだろう。政府・内閣が任命者権限でメンバーを選べるとしたら、その選んだメンバーの具申する諮問や提言は、果たして「国民の理解・納得」が得られるだろうか?。答えは明らかである、「NO」だ。
そこで一旦自説を引っ込めて105人全員を任命し、改めて学術会議法を改正するというのが正しいやり方である。私は費用については公費で賄い、その使い方については学術会議と政府双方から一定の人数を出して、定期的に事務会議を持つことにしたら良いだろうと思う。メンバーの人選・任命は、会議側が透明性を確保した方法で選出し、政府ではなく「天皇が任命する」というのはどうだろう。政府は、学術会議の諮問・提言の内容には一切関わらず、その意見のみを「真剣に受け取り、政策に反映させるよう努力する」ものとする、で良いだろう。これなら間違いようがない。
まあ、学術会議側にも色々と問題はあるだろう。どんな組織でも、意見の食い違いはある。菅首相も頑なに「売られた喧嘩は全て買う」式のヤンキーまがいのやり方ではなく、もっと大事なことにパワーを使ってもらいたいものである。しかし拒否理由を「総合的とか俯瞰的とか」という、人格を疑うような人をバカにした物言いで誤魔化すのは、やめたほうが良い。国民はそのような言葉の遊びを「ウソつきの常道」とみているのだ。せっかくクリーンなイメージがあったのに、「もうミソ」をつけてしまった。とにかく「肝心なことを言わないような人間」を信用するなんて人は、「いない」と思う。
菅首相、意外とあっけなく終わっちゃうかもね。
では、今回の学術会議命問題は「何が問題」なのか。
(1)日本は法治国家である
言うまでもないことだが、日本という国を治めているのは首相でも天皇でもなく、「法律」である。法が治める国家と書いて「法治国家」という。これは日本の最高意思決定機関は「法」だと宣言していることに他ならない。ところが、その一番大事な法の解釈が、受け取る人によって「如何様にもなる」ということが問題なのである。これは書き方の問題でもあり、日本語という曖昧語の問題でもある。例えば英語なら、一つの鉛筆と2つの鉛筆は「明確に区別」されるし、主語は省略される事は「基本的にはない」のだ。「誰が」というのは文章において、最も大事なファクターである。ことほど左様に日本語と英語では「文章の正確さ」に違いが出てしまう。よく聞く話だが、普通の業務委託契約書が「A4で300ページ」なんてことが日常的に有り得るのだ。日本人は「わかっている筈」と思い込んで、きちんと書面にしていないから問題が起こる。これは他民族が入り乱れている外国と違って、単一民族しか存在しなかった日本という島国の哀しさである。
(2)学術会議法
学術会議メンバーは「学術会議の推薦に基づいて首相が任命する」とある(私は知らないが、ニュースによればそうらしい)。この「基づいて」の法解釈が、政府と学術会議で違っているので問題が起きた。学術会議側は「基づき」とあるので、推薦されたリストをそのまま任命するのが法の意図であると主張。一方政府は任命するのだから「選ぶ権利はある」として対立している。
(3)法解釈の実態
そもそも「法解釈が曖昧だ」から、このような問題が生じる。ではなぜ法律という、最も厳格に書かれている筈の文章が「解釈によって内容が色々変わってしまう」のか。これは法律を作るときに「法制定の意図」が正しく実行されるよう、解釈が一つしか無い「間違いようのない文章」にすべき、という意識が欠如しているのである。この日本語を正確に書く技術が「なってない」から問題が起きる。
(4)学術会議法の正しい解釈1
この法は、学術会議の推薦に「基づき」、首相が任命するとなっている。では「基づき」とはどういう意味か。任命するとは学校で倣った5W1Hの方法によれば、「何時、何処で、誰が、誰を、何に、どのようにして」任命するか、ということになる。今回問題になっているのは何時・何処で・誰が・何に・どのようには確定していて、「誰を」が争点になっているのだ。「何時」はメンバーの任期が決まっているので問題はない。「何処で」は内閣のどっかだろう。これには余り意味はないし、学術会議法でも指定はしてないようだ。これは常識ということで良いだろう。「誰が」は内閣総理大臣と明記してある。「何に」は「学術会議メンバーに」である。この2つについては、誰も異論はないだろう。「どのようにして」は単に任命するだけだから、公式の場でリストを提示して宣言すれば事足りる。後は公式文書に記録するだけで終了だ。では、「誰を」というのはどうであろう?
(5)学術会議法の正しい解釈2
「誰を任命するのか」という問題を定めるために、法は「推薦に基づき」という曖昧な表現とっている。推薦とは、総理に学術会議メンバーの名簿を提出して、「この人達を任命して下さい」というものだ。「推薦」という以上、取捨選択の最終決断は任命権者にある。だから名簿に載っていても、任命されない場合も「有り得る」というのが政府の解釈である。だが、市役所の労務管理担当者を選んでいるのではない、学問的専門的知識が必要とされる「学術会議のメンバー」を選んでいるのである。彼らが国家公務員だといっても、形式上の権利を保証しているのであって、その「学術会議の業務内容」についてあれこれ内閣が指示命令するわけではない。だから、ここでの「基づき」というのは、政府は学術会議の意見をを尊重し、会議側が適切と認めた人の名簿に「基づき」、それらの人を「政府が形式的に任命する」ことが、法の意図することである。これが学術会議側の法解釈だ。では、どちらの解釈が正しいのか。
(6)解釈の方法を1つにする
答えを出す前に、法解釈がいくつも出てくるところに問題があるので、ここは法解釈の余地が無い書き方に改めるのが良いだろう。つまり学術会議のメンバーは、学術会議が適切だと思う人を選び「名簿にして提出し」、総理はその名簿を形式的に「任命者リストとして流用する」こと、で良い。なお、これでは任命権者の意義がないではないか、と息巻く人もいるかも知れないが、それなら任命権者を「学術会議の会長」とすれば良い。そもそも学術会議とは、科学的学問的な諸問題について、国民が「素人集団の政府・内閣の判断に不安を覚える」から登場した諮問機関である。素人の政府だけじゃ心配だから、「専門的な先生方の意見を聞いて」政策を決めてほしいと「国民」が願っているからこそ、出来た制度である。そういう意図だから、必要経費やそれなりの報酬は「国費で賄う」のだ。国家公務員だからといって、政府の下で言うことを聞く下僕のような役割で無いのは、明らかである。むしろ、政府の決定に「学問的立場に立って、大所高所から意見を具申する」のが仕事であり、その仕事の内容というのは「国民に対して責任を負っている」のだと言える。政府が雇っている1公務員という考えは、私は間違いだと思う。
(7)さて、答えは
菅首相は自身の間違いを認めて謝罪し、改めて6人を追加任命してこの問題の幕引きとするしかないだろう。政府・内閣が任命者権限でメンバーを選べるとしたら、その選んだメンバーの具申する諮問や提言は、果たして「国民の理解・納得」が得られるだろうか?。答えは明らかである、「NO」だ。
そこで一旦自説を引っ込めて105人全員を任命し、改めて学術会議法を改正するというのが正しいやり方である。私は費用については公費で賄い、その使い方については学術会議と政府双方から一定の人数を出して、定期的に事務会議を持つことにしたら良いだろうと思う。メンバーの人選・任命は、会議側が透明性を確保した方法で選出し、政府ではなく「天皇が任命する」というのはどうだろう。政府は、学術会議の諮問・提言の内容には一切関わらず、その意見のみを「真剣に受け取り、政策に反映させるよう努力する」ものとする、で良いだろう。これなら間違いようがない。
まあ、学術会議側にも色々と問題はあるだろう。どんな組織でも、意見の食い違いはある。菅首相も頑なに「売られた喧嘩は全て買う」式のヤンキーまがいのやり方ではなく、もっと大事なことにパワーを使ってもらいたいものである。しかし拒否理由を「総合的とか俯瞰的とか」という、人格を疑うような人をバカにした物言いで誤魔化すのは、やめたほうが良い。国民はそのような言葉の遊びを「ウソつきの常道」とみているのだ。せっかくクリーンなイメージがあったのに、「もうミソ」をつけてしまった。とにかく「肝心なことを言わないような人間」を信用するなんて人は、「いない」と思う。
菅首相、意外とあっけなく終わっちゃうかもね。
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