日本は人口減なので移民を積極的に入れるべきだとの議論が、だいぶ前から世間で言われている。。私には余り関係は無いが、暇なのでついでに人種の問題について考えてみた。移民政策で皆が不安に感じていることの大部分が、この「人種に関する問題」であるからだ。そこでまず手始めにどんな問題があるのか、思いつくまま書き出してみようと思う。
1 言語
よく中国人はうるさいと言う。他のアジア系民族の言葉がどうかは分からないが、確かに日本語に比べると「道端で会話するのに怒鳴りあってるようにも聞こえる」から基本的に、聞き取るのに「正確に発声」しないと間違いやすい言葉なんだろうと思う。静かな喫茶店とかでひそひそ話をする場合とか中国でもそんなシチュエーションはあると思うのだが、まさか同じようにでかい声で話すとは思えないので、きっと静かな声で周りに迷惑を与えないという「習慣」が無いだけだと想像する。日本人は電車で本を読むときに「カバー」をかけて何の本を読んでいるか他人に分からないように隠す習慣があるが、外国の人からすると「何か恥ずかしい本を読んでいるのかな」と思うらしい。これも民族性の現れと思えば、単に習慣がないと言って簡単には片付けられない問題だ。しかし日本人も子供や若いうちは周りに配慮することなど考えもしないのだから、民族性というより「大人に成りきれていない」あるいは「未発達」と分析した方が当たっているかもしれない。私は声の大きい人はどうも嫌いである。だから移民政策で声のでかい人が増えて町中が「怒鳴りあい社会」になるのも困る。従って移民政策を推進するときは、まず「静かに話せる人」ということが条件になる。
2 仲間
チャイナタウンというのがある。イスラムコミュニティーというのもよく聞く。これはイメージであるが、ヨーロッパ人は余り仲間で集まって生活する習慣は無いようだ。中国人などは集団生活で助け合うのを美学としているのかどうか知らないが、アジア系の人はどうも自分と同じ民族でコミュニティーを作る傾向があるように思う。そもそも外国で暮らすと言うことは自分と違う考えの人達と一緒に生活することであるから、自分と同じ民族で集まって「まるで自分の国にいるみたいな安心感を得られる」場所を作るというのは、一種の侵略行為とも取れるわけで余り宜しくない。横浜中華街なんて聞こえは良いが、あれが日本中に出来ると思ったら「そら恐ろしいこと」である。やはり日本は日本人が90%位いて、そのなかに10%の外国人がパラパラと混じっているというのが「落ち着く」のではないか。つまり主人はあくまでも日本人で、外国人はお客様という、そんな感じが適度に緊張感があって「グローバル」って気がするのだ。もちろんこんな考えは、グローバルという言葉の意味をはき違えているというのは良くわかっている。だが移民政策をどう思うかと聞かれれば、今の日本が変わらないという前提でしか物事を考え付かないから仕方がない。要は移民として日本にやってくる人は最低でも、「日本人になる」という心構えはなければいけないような気がする。
と、ここまで書いてふと気がついたが、これは私の「日本」であって、本来の日本はもっと流動的な定まった姿・形の無い、住む人の考え一つでいかようにも変わっていくものではなかったのではないか、と考えられるのだ。大体、今の日本が独自の形をなしたのが室町時代と言われ、生活様式が明治に大きく西洋化したけれど基本的な「日本らしさ」の原点はほぼ江戸の時期に完成した、と思われるのである。だから21世紀の現代に新しい日本らしさが出てきても不思議ではない。もし日本らしさと言うものが環境に適する生命力を持っていればまた新たな、そしてもっと美しい日本らしさが生まれてくると思う。もし今の日本らしさが「滅びの美学の残光」の美しさであるなら、それは私の人生と共に滅んでしまうだろう、残念だが。だから日本が滅んで「新しい中国が生まれる」とすれば、京都に代表される古い日本は「ディスニーランド」のように人々の体験型テーマパークとして歴史の一部を教える場所代になってしまうのである。というか、そう成りつつあるのではないだろうか。だから自国のものを持ってきて日本のなかにそのまま外国文化を作るのではなく、日本そのものを新しく作り上げるのなら不承不精ではあるが「許しても良い」と思う、というか「そういう流れ」は時代と共に必ず有るものであり、誰にも止めることは出来ないと思う。
昔は日本人であることに誇りを持っていた。いまでも右翼の人に限らず、例えば相撲の世界では、日本人横綱の久々の誕生に大喜びする国民である。私事であるが、女子ゴルフでも韓国に席巻され上位陣は韓国が目白押しの状態で、賞金女王は森田理香子以来ずっと取られっぱなしで日本人からは出ていない。もうこうなったら日本女子ゴルフ協会などと小さいことを言ってないで、韓国・台湾・タイ・中国などをいれた「アジア女子ゴルフ協会」に格上げし、スポンサーも各国で賞金を出しあい開催コースも各国をぐるぐる回って、今のヨーロッパのツアーのように「グローバル」にしてしまったらどうだろう。そうなれば「日本のツアーなのに韓国ばっかり勝って何だかな~」と苛立つ事もなく、素直に強い選手を応援できるので万々歳である。そんな中で勝つとなれば、これは日本人としても鼻が高い。だが、これは移民政策にも実は関係あるのではないだろうか。
我々の思う日本らしさや日本の美というものは言わば砂上の楼閣だと思うのである。わざわざ日本という狭い枠を作って囲いこんでいながら、少しだけ外国にも門戸を解放してグローバルを気取っている「バリバリの日本贔屓」である。移民政策を必要だからとして推進しようとする人々のなかにも、このような純粋日本人がたくさんいるのである。本音を言えば、外国人などは金輪際入ってきてほしくない、つまり江戸時代以来の「鎖国」意識である。鎖国をして外国からの文化の流入を防ぎ日本的なものは守りながら、西欧文化の成果はしっかり取り込んで富国強兵に邁進する。今もその体質は変わっていないように思う。だから移民政策で変えなければならないのは、「日本人の性格そのもの」である。
日本人は世界で孤立した独自の民族である、そんな妄想に囚われてはや「ン百年」が経ってしまった。それはいつ頃から形成されたのかは分からないが、もうそろそろ「真のグローバルな民族」になるべきである。それは方法云々ではない、自分は日本人であるという考え方を「多くの民族の中の一つ」として平均値で捉える事であるのだ。私はそれが移民政策を考える上で一番必要だと思うのである。
1 言語
よく中国人はうるさいと言う。他のアジア系民族の言葉がどうかは分からないが、確かに日本語に比べると「道端で会話するのに怒鳴りあってるようにも聞こえる」から基本的に、聞き取るのに「正確に発声」しないと間違いやすい言葉なんだろうと思う。静かな喫茶店とかでひそひそ話をする場合とか中国でもそんなシチュエーションはあると思うのだが、まさか同じようにでかい声で話すとは思えないので、きっと静かな声で周りに迷惑を与えないという「習慣」が無いだけだと想像する。日本人は電車で本を読むときに「カバー」をかけて何の本を読んでいるか他人に分からないように隠す習慣があるが、外国の人からすると「何か恥ずかしい本を読んでいるのかな」と思うらしい。これも民族性の現れと思えば、単に習慣がないと言って簡単には片付けられない問題だ。しかし日本人も子供や若いうちは周りに配慮することなど考えもしないのだから、民族性というより「大人に成りきれていない」あるいは「未発達」と分析した方が当たっているかもしれない。私は声の大きい人はどうも嫌いである。だから移民政策で声のでかい人が増えて町中が「怒鳴りあい社会」になるのも困る。従って移民政策を推進するときは、まず「静かに話せる人」ということが条件になる。
2 仲間
チャイナタウンというのがある。イスラムコミュニティーというのもよく聞く。これはイメージであるが、ヨーロッパ人は余り仲間で集まって生活する習慣は無いようだ。中国人などは集団生活で助け合うのを美学としているのかどうか知らないが、アジア系の人はどうも自分と同じ民族でコミュニティーを作る傾向があるように思う。そもそも外国で暮らすと言うことは自分と違う考えの人達と一緒に生活することであるから、自分と同じ民族で集まって「まるで自分の国にいるみたいな安心感を得られる」場所を作るというのは、一種の侵略行為とも取れるわけで余り宜しくない。横浜中華街なんて聞こえは良いが、あれが日本中に出来ると思ったら「そら恐ろしいこと」である。やはり日本は日本人が90%位いて、そのなかに10%の外国人がパラパラと混じっているというのが「落ち着く」のではないか。つまり主人はあくまでも日本人で、外国人はお客様という、そんな感じが適度に緊張感があって「グローバル」って気がするのだ。もちろんこんな考えは、グローバルという言葉の意味をはき違えているというのは良くわかっている。だが移民政策をどう思うかと聞かれれば、今の日本が変わらないという前提でしか物事を考え付かないから仕方がない。要は移民として日本にやってくる人は最低でも、「日本人になる」という心構えはなければいけないような気がする。
と、ここまで書いてふと気がついたが、これは私の「日本」であって、本来の日本はもっと流動的な定まった姿・形の無い、住む人の考え一つでいかようにも変わっていくものではなかったのではないか、と考えられるのだ。大体、今の日本が独自の形をなしたのが室町時代と言われ、生活様式が明治に大きく西洋化したけれど基本的な「日本らしさ」の原点はほぼ江戸の時期に完成した、と思われるのである。だから21世紀の現代に新しい日本らしさが出てきても不思議ではない。もし日本らしさと言うものが環境に適する生命力を持っていればまた新たな、そしてもっと美しい日本らしさが生まれてくると思う。もし今の日本らしさが「滅びの美学の残光」の美しさであるなら、それは私の人生と共に滅んでしまうだろう、残念だが。だから日本が滅んで「新しい中国が生まれる」とすれば、京都に代表される古い日本は「ディスニーランド」のように人々の体験型テーマパークとして歴史の一部を教える場所代になってしまうのである。というか、そう成りつつあるのではないだろうか。だから自国のものを持ってきて日本のなかにそのまま外国文化を作るのではなく、日本そのものを新しく作り上げるのなら不承不精ではあるが「許しても良い」と思う、というか「そういう流れ」は時代と共に必ず有るものであり、誰にも止めることは出来ないと思う。
昔は日本人であることに誇りを持っていた。いまでも右翼の人に限らず、例えば相撲の世界では、日本人横綱の久々の誕生に大喜びする国民である。私事であるが、女子ゴルフでも韓国に席巻され上位陣は韓国が目白押しの状態で、賞金女王は森田理香子以来ずっと取られっぱなしで日本人からは出ていない。もうこうなったら日本女子ゴルフ協会などと小さいことを言ってないで、韓国・台湾・タイ・中国などをいれた「アジア女子ゴルフ協会」に格上げし、スポンサーも各国で賞金を出しあい開催コースも各国をぐるぐる回って、今のヨーロッパのツアーのように「グローバル」にしてしまったらどうだろう。そうなれば「日本のツアーなのに韓国ばっかり勝って何だかな~」と苛立つ事もなく、素直に強い選手を応援できるので万々歳である。そんな中で勝つとなれば、これは日本人としても鼻が高い。だが、これは移民政策にも実は関係あるのではないだろうか。
我々の思う日本らしさや日本の美というものは言わば砂上の楼閣だと思うのである。わざわざ日本という狭い枠を作って囲いこんでいながら、少しだけ外国にも門戸を解放してグローバルを気取っている「バリバリの日本贔屓」である。移民政策を必要だからとして推進しようとする人々のなかにも、このような純粋日本人がたくさんいるのである。本音を言えば、外国人などは金輪際入ってきてほしくない、つまり江戸時代以来の「鎖国」意識である。鎖国をして外国からの文化の流入を防ぎ日本的なものは守りながら、西欧文化の成果はしっかり取り込んで富国強兵に邁進する。今もその体質は変わっていないように思う。だから移民政策で変えなければならないのは、「日本人の性格そのもの」である。
日本人は世界で孤立した独自の民族である、そんな妄想に囚われてはや「ン百年」が経ってしまった。それはいつ頃から形成されたのかは分からないが、もうそろそろ「真のグローバルな民族」になるべきである。それは方法云々ではない、自分は日本人であるという考え方を「多くの民族の中の一つ」として平均値で捉える事であるのだ。私はそれが移民政策を考える上で一番必要だと思うのである。
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