(原文抜粋)人不知而不慍 不亦君子乎
(意訳)人が分かってくれなくても気にかけない。そういうのは「君子じゃない」のだろうか?(いいやそういう人こそ君子である)。
(解説)若い時など、自分が必死で考えついた結論を勢い込んで他人に話したりした時に、その人がちっとも理解してくれなかったりするとついつい怒って攻撃的になるものである。だが、それなりの場数を踏む事によって一旦その人の意見も受け入れて感情を抑えつつ、冷静温和に会話を続けられるようになってくるもの。その域に達した人というのは「一段、格上だな」と思われて尊敬されるよ、って話。
(学び)この章の最初の句と2番目の句は大してひねってもなく、普通である。だが孔子は、わざと当たり前の事を言って3番目で「うーむ」と唸らせるという、聞く者の意表を突いたテクニックを使い、考える間もなく相手を納得させてしまう方法を使ったのだと思う。弟子達の心理としては、最初と2番目を聞いた段階で「まあそりゃそうだよね、当然の話よ」と、自分もとっくに理解していることを師に分かってもらい、自慢したい気持ちで笑みを浮べていたに違いない。ところが3番目でガラッと内容が変化して、思いもよらぬ話を持ってこられて「あたふた」した、というのが本筋ではないか。
枕草子でも最初の章で「春はあけぼの〜」と、普通なら鶯とか桜や梅を持ってくる所に「夜明け」を持ってきて、読者の予想もつかない組み合わせで心を一気に清少納言の世界へと引っ張りこむテクニックを使っている。まあこの辺り、このくらいの圧倒的に著名な作家であれば普段から楽々と使う「常套手段」ではないだろうか。モーツァルトも交響曲だかオペラだかで(31番のパリ交響曲だったような気がするが)1楽章の最初の出だしにフルオーケストラで「でっかい音」を鳴らし、弟子に「最初に聴衆にガツンと一発お見舞いして驚かせてやるのだよ」といたずらっぽく笑ったそうだ(多少私の勝手な脚色が入っていますがご容赦を)。
1番と2番で平和な生活の中の喜びをしみじみと語った後で、3番では今度は急に生々しく、自分の勉学の成果を何とか他人に伝えようとするが全然理解されない時に感じる「イライラ」を、まあまあそんなに怒らないで・・・と優しく宥めて「世の中そんな時もあるさ、気にしない気にしない」とやんわりとぼけて見せる。実に鷹揚で度量の大きい人間ではないか。
だが、孔子の活躍した春秋戦国時代というのはそれこそ色んな思想家がそれぞれの説を各国の君主に熱弁を奮って説明し、理論の優劣を競って互いに争っていた歴史に名高い「諸子百家」の時代である。とすれば、自説が人に聞き入れられるかどうかという状況というのは、孔子のような思想家として名を上げようという者にとっては「理論武装し、徹底的に打ち負かす」のが当然必至の行動の筈である。
それを「気にするな」といって相手にせず放っておけと言うのでは訳が分からない、いったいどういう意味なのか?。弟子達は困惑の中に放置されて、なんとか上手い具合に全てを納得させる「答え」は無いものだろうかと必死に思案を巡らす姿が目に浮かぶ。これぞ孔子が最も得意とした「考えさせる」指導法の極致と言える。
(私論)
これは、相手の頭が「論理的にものを考えるように普段から訓練している」人か、または、伝統やしきたりや世の中の多数の人が言っているとかの「常識」を重んじる人か、によってこちらの対応の仕方も変わってくるという例だと思う。常識派は、世の中の大多数の意見は何か?ということに価値を見出し、それによって生活をスムーズに、諍いや軋轢を避けて皆んな仲良く助け合いながら、日々の暮らしを充実させることに喜びを感じているタイプだと看破した。勿論こういう人が大多数なのは、その考えからして当然至極である。
一方、論理的に物を考えるクセが身に沁みついている人はその問題を誰がどう思っているかに関係なく、「論理的に正しいかどうか」だけ注意して答を得ようとする。つまり他人の意見は一先ず置いといて、自分の中で整合性が取れていれば良い、との考えで「論理的な道筋に従って」答えに到達するのである。常識派の思考方法にはこの「論理的な思考を積み上げる」という過程がスッポリ抜けている場合が殆どなのだ。
昔、会社の同僚と「ある事」について意見が対立したことがあった(中身は忘れた)。私が「何故そうした方が良いのか?」と彼を問い詰めると、彼が「昔から皆んなそうやってるじゃないか!」と言ったので唖然とし、そのまま議論は終了してしまった。私の方は余りの言い方に呆れて二の句が告げられなかった訳だが、彼は彼で「必殺の殺し文句」を繰り出し、議論に勝利したと思っていたに違いないのである(何だかなぁ・・・)。
要するに孔子が言いたかったのは、人の頭の中にある「正誤の判断基準」は、一様では無いということではないか。子供のうちから世間の常識を刷り込まれ、親達の考える「分別」を基準にして成長した人間は自分の頭の中で論理を展開させる方法を「知らず」に育ってしまって、そしてまた自分達の子や孫へと思考方法を「拡大再生産」して行くのである。
こうしてどんどん日本人は「裏付けの無い同調圧力の強い民族」となってチマチマと愚痴を言いながらも、大人しく世間の進んでいく方向へと歩んで行くのだなと思わざるを得ない。勿論常識派がすべて間違っているというつもりは全然ない。大事なのは「答えが正しいかどうか」である。ただ、非常に稀な場合において、そういう「自分で考えない人、大衆意見に流されやすい人々」は時として、とんでも無い行動に集団心理によって駆り立てられることがあるようだ。正しいと思っていた事が「実は間違っていた」と分かった時、彼らはどうするのだろう?
前回の戦争の時、敗戦の憂き目に崩れ落ちた国民は皆んなして「一斉に軍部の独走を非難」した。まあ良いだろう、それぞれ事情も有ることだし、自分達は悪く無かったという意見も一概には否定できまい。また東京大震災時に朝鮮人を大虐殺した人々は、甘粕大尉という憲兵が扇動した悲惨な事件ではあるが、「民衆は悪くない」と結論しているようである。しかし当の本人はそれでいいのだろうか?。
(最終結論)常識派の人とは判断基準が違うので、議論しても共通の答えに到達することは殆ど無い。だから無理して自分の考えを主張して喧嘩になるよりは、ニコニコしながら放っておくのが世の為人の為である。こういうときは和を持って尊しの精神でいくのが君子の道というものじゃないかね?というのが孔子の考え。
私も日頃は人間関係を重視して、日々「笑顔で人に合わせる」ようにはしているつもりです。最近は人の考え方というのは「子供のうちから教育する」必要がある、と痛感しています。政治の混迷などをニュースで見るにつけ、一層教育こそが今の日本には急務だな、と思いました。それも「嘘をついてはいけません」とか「道は右側を歩きましょう」とかの通り一遍の道徳教育ではなく、小学生のうちから「自分の頭で考えて正しい答えを導き出せる教育」が必要ですね。未来に期待です!
・・・・・・・・・・・・・・
というわけで、その教育の良いお手本となるのが「論語」だと思い。今年の注目本として取り上げました。このシリーズは論語を読みながら私が感じた事をつらつらと書いていく「学習帳」です。解釈には色々な考え方があるとは思いますが、まずは私なりの解釈をお楽しみください。異論反論は読んだ後でご自由に。
次回以降は原本の章立てに従います。それでは・・・
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます