1、新しくスニーカーを買う
私はスニーカーは昔からナイキが多かった。履いてて足にピッタリくるのである。木型が私の足に合っている、そういうメーカーなのだ。ところが何年か前にデザインが気に入って買ったFILAのシューズが「爪先がめくれて」駄目になってしまった。気に入っていたのに残念である。
しかし考えてみるとこのシューズはデザインは良いけど、欠点もあった。表の皮の縫い合わせ部分の「汚れが取れない」のである。消しゴムが良いらしいが、試す前に壊れてしまった。まあこれは白いシューズには有りがちの欠点であるが、白い筈が汚れでくすんでいてはデザインの良さも形無しである。
で、こないだの日曜日に柏東口のABCで新作シューズをあれこれ眺めてみた。ナイキは相変わらずデザインがダサいし、今売出し中のスケッチャーズは履くのは楽そうだが如何にも「フィットネスしてます感」が気に入らない。結局アディダスの「ド派手なストリート系」を衝動買いした。CLIMACOOL という「スースーする」夏向きの靴である。表はFILAの失敗を反省して「縫い目」のない網目形状だ。涼しい代わりに雨の日は「水が入って来る」と店員さんに何度も念押しされた。
まあ良いだろう。雨の日には雨用の実用的なので充分である。早速次の日に履いて出かけたが、その時点で「もう失敗だ」と気が付いたのだ(バッカじゃねーの?)。足先が幅広じゃないシュッとしたデザインだったので「ちょっと窮屈」なのである。これは我慢するしかない。そして最大の欠点は、スニーカーなのに「スニークイン?」出来ないのである!。なんのこっちゃ!(もともと靴紐は毎回結びなおすタイプらしい。その代わり履き心地はドンピシャだ)
私の衝動買いの結末は、いつもこうである。陳列している姿はカッコいいのだが、家に帰って履いてみるとイメージと違ってダサダサというのが良くある。私のデザイン感覚が使用目的に合ってないのは確かである。店で履けば判るじゃないかと言われるが、実際はいつも履いて鏡を見ているのである。それでもデザインのカッコ良さに舞い上がっているので、欠点には気が付かないのだ。スニーカー選びは難しい。
見た目のカッコ良さを「完全無視」すればいいんだろうが、それが出来ないのがスニーカーなんである。困ったものだ。
2、トニー・ベネットとアルツハイマー
認知症とは老いる過程の一つに過ぎない。私の考えでは社会とのつながりが希薄になっていくにつれて、だんだんと変化してそうなるみたいである。行動範囲が身の回りの狭い範囲絞られ、物事への関心も徐々に無くなってくる。物忘れも酷くなるし、市や国からの案内など読んでも分からなくなってくるのが「老い」だ。私の母も軽い認知症の症状が出始めてきたと思ったら、それから5年後には逝ってしまった。過去の事例に学ぶべきは「人間の老い」ではないだろうか。
つい先日亡くなった愛すべきトニー・ベネットは、生前自身の老いについて「アルツハイマーも悪くないね」と語っていたそうだ。まさに達観の境地である。人皆トニーのように認知症を受け入れて幸せな人生を享受出来るわけではないにしても、少なくとも何でもかんでも認知症と一括にするのも問題かな、と思うようになった。同じ認知症でも良い認知症と悪い認知症とある筈である。つまり良い老人と悪い老人があるように、だ。最近やたらと健康志向が強くなって、筋肉を鍛えさえすれば全てオーケーという風潮が蔓延してるように思う。やっぱり筋肉より心です。
もっと老人には、老人らしい生き方があるんじゃないか?、そう思う今日この頃です。
3、ジャニー喜多川って、ホントはモンスターかも?
服部良一の次男の吉次氏が、ジャニー喜多川の事務所設立の狙いは「性加害」の方にあったんじゃないか、と発言。これは考えてもいなかった「新しい視点」である。山下達郎がジャニー喜多川の擁護発言で炎上してたけど、達郎の意見には「性加害と業績は別」との芸術家らしい素直な考えだな、との見方も一部にはあった。それがどうやら達郎の勘違いに終わりそうな勢いである。
作品は紛れもなく天才なのに、品性は下劣という「モーツァルトみたいな芸術家」の話は世の中にいっぱいある。まあ人間の二面性ということだ。だがジャニー喜多川の場合は、どうやら性加害という犯罪と音楽業界におけるまばゆい業績とが、二面性という別々の二つの異なる側面ではなく、じつは一つの「目的と手段」の関係だった、というのである。
ジャニーズ事務所というマネジメントの仕事が、裏の顔では「犯罪の隠れ蓑」という構図だ。言わば反社会的な組織における「フロント企業」の関係だ。これが真実となればジャニーズ事務所は解散・消滅すべきである。いやいや、大変な事になってきた。達郎も早いとこ間違いを訂正するべき?
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