明日香の細い道を尋ねて

生きて行くと言うことは考える事である。何をして何を食べて何に笑い何を求めるか、全ては考える事から始まるのだ。

志賀島の金印(2)

2019-05-05 19:43:53 | 歴史・旅行
志賀島の金印については、私は疑問はすべて既に解決していると思っていた。それでテレビの「諸説あり」が特集していて、幸い自動録画してあると知ってはいても期待はしていなかったのである。そもそも「諸説あり」は尖った先鋭的な説を取り上げるでもなく、専門家も取り立てて新しい事実を披露するわけでもないつまらない番組だ、と思っていたので、今回も片手間に見ようかぐらいの「半身で流して」いた。それで何の気無しに眺めていたら、新しい証言が出てきた!。それを参考にしてもう一度金印問題を書いてみよう。先ずはこの番組に取り上げる偽作問題から。

1、金印は偽作?
工芸文化研究所理事長鈴木勉氏という専門家が登場し、印面の字体と印面に彫りを入れる技術の2点で志賀島金印は後世の偽作と断じた。確かに鈴木氏の言う通りであれば間違いない物的証拠というか「金印そのものが間違っている」わけで、これで一見落着かと見えた。ところが番組MCはそれに対して反論するのではなく、全然別の意見をぶつけてくるのだ。ここがこの諸説ありのダメなところであるが、福岡市埋蔵文化財課大塚紀宣氏は言う。金印の「つまみ」の部分が元は駱駝であり、それを蛇に改作していると思われ、そのような改作の事情が偽作の場合は考えられないとして、真印だと断言する。それは漢の側の日本に対する認識が「南方の国」だったのに、実際来てみたら「東方の国」だったので慌てて作り直した、と言う説明である。だが番組MCは儒学者亀井南冥が中国偽作集団に発注し、その偽作者集団がたまたま手元にあったストックの駱駝の金印を転用して制作したかも知れない、と疑問を提出した。これでは何処まで行っても答えは出ない(馬鹿馬鹿しい、なのだ!)。ここまで1時間の番組の半分を使っているわけだが、私に言わせれば「どっちでもいい」ことではないかと思う。それはレオナルド・ダ・ヴィンチのモナリザが実は別人の作だった、というのと同じで、単に「芸術としての価値はいささかも変らない」ということの証明に過ぎない。つまり金印は後漢光武帝が委奴国に与えた物であり、それが現在福岡の博物館に陳列されている印そのもなのか、それとも陳列品は偽物で本物は「まだ見つかっていない」のかは、歴史を考える上では「本題とは関係ない」のである。大事なことは、後漢光武帝から金印を貰ったというのは「何処にあった国か」ということで、その金印が「どうのこうの」という真贋論争などは「居酒屋談義以下の下世話な話」なのだ。ちなみに、この金印を貰った国が「九州にあった国」だという点では、誰も異をとなえていない。

2、漢委奴国王は何と読む?
では通説通り「倭の奴の国王」と読むのが正しいのか、という点について番組は別案を提示する。1つ目は「委」という文字は倭の省略文字ではない、というもの。これは単純明快で自分の苗字を考えれば分かることだ。齋藤という名字を金印に彫る時「齋藤って難しいし彫りにくいから、斉藤でいいよね?」なんて「言うわけないし」許されるわけでもないのは分かるよね。というわけで「委は倭では無い」となった。当然である。2つ目は三段書法の問題。大阪芸術大学客員教授久米雅雄氏は「中国にはこういう国名表示方法の印は皆無」だという。そりゃあそうだろう、金印は漢の冊封体制の証だから、漢自体というか当時も今も中国は「多民族国家」である。周辺民族の中には漢に冊封している国もあれば、従属に抵抗して辺縁の地に細々と暮らしている国もある。そもそも民族全体が一つに統一されている状態というのは古代では珍しく、群雄割拠というのが当たり前なのだ。アラブ民族を例に取ると、アラブにはサウジやシリアなど多くの国があるが、日本は「サウジを独立した国」として条約を結び、他のアラブ諸国とごっちゃには考えないのと一緒である。金印は中国から見たら「臣下に与える印」であるから、委の奴国という表現は「委国」のなかの「奴国」ということになる。これは会社で言うなら「経理部の部長」みたいなもの、もっと上には当然「各部を統括する社長」がいる、という風に読める。これでは貰った方も「ありがたみ」は感じないだろう。「なのに貰ったのは漢以外の属国では最高位の金印」である、話が通らないではないか。こんな理路整然とした論証を「古田武彦が九州王朝説とからめて出した」時に、そりゃそうだと全員が納得しなかった、というのが日本の歴史学会の宿痾である。この読み方を認めない連中は「足にダンベルを括り付け」て、全員日本海溝に沈めるといいのだ。とまれ、印面の読み方は、漢の「委奴」国王、で決まりなのである。何故三段に読もうとする人が跡を絶たないのかと言えば、たまたま発見された志賀島が「古代の奴国とおもわれる地域」だから、というのに過ぎない。そこで金印は本当に志賀島で田んぼの畦に埋まっていたのか?、という疑問が出てくる。

3、金印発見の顛末
発見者の百姓甚兵衛や儒学者の亀井南冥など、金印に関わる重要な人物が失踪したり事故死したりと、まるでケネディ暗殺事件の様相を呈している。福岡市教育委員会が調査した結果によると、志賀島の金印発見現場からは金印以外の古代遺跡に類するものは「何も出てこなかった」ようだ。つまり「ポツンと金印が一個だけ出てきた」というのが不思議である。当時の福岡藩でもこの金印の出土状況には大いに疑問を持ち、もともと伊都国のもので「志賀島で発見されるのは不可解」と判じている。伊都国には代々王が統治しており、大規模な弥生遺跡や王墓がいくつも発掘されている遺跡の宝庫である。金印が出てくるなら志賀島ではなく「伊都国」が相応しいというのだ。だが考えても見て欲しい、金印は漢から「おまえを臣下として認める」という印である。仮に伊都国が貰ったとして、その後もずっと伊都国が倭国のトップとして君臨していたわけじゃなく、邪馬台国が「親魏倭王」の印を貰っているのだから「その時点で冊封は邪馬台国に移っている」筈である。だから金印もアップデートしなくてはならない。というか漢が滅んでその後に三国時代が続き、その三国を統一したのが魏なのだから、大昔の漢という歴史上の帝国で今は滅んでしまった国から貰った金印など「何の意味もない」ではないか。そんな金印が志賀島だろうが伊都国だろうが、どこの田んぼから発掘されたとしても「博物館的価値」以外の価値などないのである。発見者に与えられた報奨はどのくらいかは定かではないが、金印発見によって利益を得たのは亀井南冥自身だけというのは、確かに怪しい。ちなみに後漢書には「建武中元二年 倭奴国奉貢朝賀 使人自稱大夫 倭国之極南界也 光武賜以印綬」という文章がある。これを見ると貰ったら国名は「倭奴国」となっているではないか。じゃあ、印面が「委奴国」とある金印は、結局偽物なんじゃないか?、という疑問も相当に有力だ。

4、結論
「印」が中国の皇帝から貰った倭国側の国王にしてみれば、自分の権威を世界の中国皇帝が認めているわけで、これ以上の明確な他国との差別は存在しない。が、それも宗主国が没落して他の国が天下を取り、又その国が没落して云々を繰り返す中国の現状を見れば、「金印がもたらす差別効果」も限定的にならざるを得ず、後漢光武帝の西暦57年から西暦3世紀の親魏倭王になり、白村江の戦いやら日出る国の天子云々といろいろあって、その後の遣隋使・遣唐使と続く間には「賜印綬の習慣」は倭国側の理由で無くなってしまったと思われる。もともと漢自体が消滅しているのだから、「漢委奴国王」なる印も存在意味がない理屈である。本家の中国では、それから1400年頃の明の時代までくらいは印綬の歴史があったらしいが、その最後の印綬は朝鮮王朝が貰ったもののようである(ネット調べ)。ちなみに中国では漢字一文字が上位の中国王朝を示し、2文字以上の国名が低位の臣下の王朝名と「はっきりと区別されていた」ようだ。これは新しい知見である。やはり研究は奥が深い。これを持ってしても志賀島の金印が「倭の奴国」ではなく、「委奴国」であることが証明されたのである、一件落着!。

5、オマケ。それで委奴国はどこにあったのか
北九州のどこかの国が漢に朝貢して授けられた、というのが私の結論である。これじゃ何の解決にもなりゃあしないじゃないか!、と仰るのは重々承知の上であるが仕方がない。それ以上は資料がないので分からないのだ。まあ、西暦57年という「恐ろしく古い年代の日本」が、当時の大帝国である漢と既に通商していたというだけでも貴重な記録である。それから数世紀あとの邪馬台国にも、中国の漢から見れば委奴国が日本を治めていたと見えていたように、邪馬台国も又「広い日本という列島を治めている強大な国」という認識で印を与えたに違いないのだ。つまり、一般に思われているような「古くて未開の民族」が石器を擦り回して争っていた野蛮な国ではなく、もっと現代的な「統治国家」として、当時の日本(倭国)を代表し、国家を治めていた筈なのである。それが九州か奈良地方かということで言うならば、「桓霊の間、倭人相攻伐す」と中国の歴史にあるように、委奴国の権威が一時的に落ちて騒乱状態になり、それを邪馬台国の卑弥呼を共立することで乗り切ったわけであるから、邪馬台国は相争っている倭人のグループの「一部ではなく」、別のグループであったろうと言うのが私の考えである。もし同じグループであったならば、ただ単に「邪馬台国が勝利した」で良いではないか。何もわざわざ邪馬台国を「共立」する必要などさらさら無い。つまり一時的に外部の力を借りて統一を保った、と言うのが本当のところである。だから「委奴国(伊都国?)」は邪馬台国が親魏倭王の金印を貰う「前も後も」、ずっと倭人のリーダーだったのである。だから九州には委奴国グループと邪馬台国グループの「2つの倭人グループ」が並立していた、それが私の今の「古代俯瞰図」の一コマである。それが5世紀の倭の五王の頃にようやく統一され、そして日出る国の天子の時代へと突き進んでくる。・・・まだまだ先が長いですな。

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